私と車

21.12.09

私が免許を返納したのは昨年2020年の秋だった。
福島から出てきた身であるが、私は寒い故郷に帰る気はない。そもそも母方の祖母は、稲毛の漁師の出だ。私は千葉っ子を自称する資格がある。
家内も今より不便なところに帰るつもりはないという。今の住まいは田舎とはいえ、JRの駅まで歩いて10分かからず、東京駅まで40分だ。電車が多少混むが便利なことはこの上ない。
そんなわけでこれから再び車が必要になることもないと免許を返納した。
あれから1年が過ぎて、車に乗っていた時代を思い出して、私の人生での車とのかかわりを書き残す。私自身の思い出になるだろうし、誰かの参考になるかもしれない。


私は1949年(昭和24年)の生まれ。車なんてめったに見かけない田舎に住んでいた。私の記憶している初めて車を見たのは、母に手を引かれて見た進駐軍(注1)のたくさんの車の行列だった。

トラック トラック トラック トラック
煙 煙 煙 煙煙

別にパレードとかじゃなくて演習か何かの移動だったのだろうけど、延々とジープやトラックがアメリカ兵を乗せて走っていく。そもそも田舎の更に街道から離れたところだから、車など見たことがない。一台どころか何十台も連なっているのが記憶にある。道路は舗装でないのはもちろん、ろくに砂利も敷いてない田舎道である。
そのときは私たち母子だけでなく、近辺の人たちが大勢子供を連れて道沿いに立ち、アメリカ軍が通行していくのを眺めていた。まだ私は2歳か3歳だったと思う。


ちなみに家内が生まれたのは日本独立後の1954年、その頃義父は運送会社に勤めていたそうだ。運送会社といっても、輸送手段はトラックじゃなく荷馬車だ。そして義父は馬車引きだった。
荷馬車 まるでテレビドラマの水戸黄門に出てくるよう姿恰好だったらしい。信じられないだろうけど、本当の話だ。
当時主な荷物は農産物とか木炭だったそうだ。

時代が下り、馬車はトラックになり、小さな運送会社は大きな運送会社に吸収されていった。運転できない義父はトラックに荷物を積み下ろす仕事をするようになった。
業種や職種の大変動は今に始まったわけではない。


子供の頃住んでいた長屋に車が来たのは私が小学前のとき、長屋に住んでいたおばあさんがもう長くないと退院して病院の車で帰って来たときだ。
そのときは救急車ではなく、アメリカ製大型乗用車のトランクから担架を前方に入れて運んできたのを覚えている。ステーションワゴンでなく普通のセダンだったから、日本で改造したのかもしれない。
長屋の中に車が来たのはそれが初めてだと言われた。

私の家族が住んでいた長屋は引揚者住宅と言って、戦争が終わり外地から引き揚げてきた家族とか、戦争で復員してきたものの帰るところがない復員兵と家族が住んでいた。そこは元からある街並みから4キロ近く離れた雑木林を切り開いた丘の上にあった。水の便が悪く、農地にも宅地にもできなかったところに、水道を引いて長屋を建てたのだ。

親父の実家は畑が6反しかなく、跡を継いだ父の兄(私から見て伯父)一家さえ食っていけず、復員した伯父はすぐに単身東京に出稼ぎに行った。
そんな状況で親父は実家を頼ることもできず、引揚者住宅に住んでテンポラリー(早い話が臨時だ)の仕事をしていた。

長屋の外には、小さな八百屋、魚屋、豆腐屋、床屋、駄菓子屋だけがあった。なぜか雑貨屋がない。ちょっとした買い物、例えば裁縫の針でも糸でも味噌でも醤油でも、離れた集落まで行かねばならなかった。もちろん小中学校も郵便局も銭湯もその集落にあった。
当時のことだからバスなど走っているはずがない。買い物も通学も歩きだ。母親は毎日一度、町と呼んでいた集落まで買い物に行くのが日課だった。

お盆やお彼岸のお墓参りも当然歩きだ。毎回、我が家から7〜8キロ離れた我が家と親戚のお墓を二三か所巡ったので一日に20キロ近く歩いたと思う(当時歩いたルートを今Google Mapで測定すると17.8キロあった)。もちろん連続でなく、あちこちで親戚の家により、休憩したり半年ぶりの出会いを楽しんだりした。
小学校前の子供には大変な距離だった。帰宅するとへとへとだった。今なら児童虐待だというかもしれないが、当時は当たり前の風景だった。なにしろ歩く以外移動手段がない。


親父は軍隊で運転免許を取っていたので、それを生かしていろいろな職に就いたそうだが、私が小学前には小企業であるが正社員になり、製品を運ぶトラックの運転をしていた。
小学前か低学年の頃、親父のトラックに乗せてもらって会津若松とか原町とかに行ったことが何度かある。今なら仕事の車に子供を乗せて連れていくなんてありえないが、当時はそんなことで咎められることはなかった。


モータリゼーションなんて言葉が現れたのは、それから数年後の1960年代だ。
スバル360 スバル360が売り出されたのが1958年で、1960年代初めになるとその中古が出回るようになった。
当時は今とは大違い。少々の故障は運転手が直すのが当たり前、修理できない者は車に乗る資格がないという時代である。
また道路も舗装でなく砂利道だしタイヤも弱く、しょっちゅうパンクした。運転手はタイヤ交換だけでなくパンク修理もしなくちゃならない。とはいえスバル360のタイヤは4.1の10というおもちゃのようなタイヤで、非力な女子供でも交換できた。

タイヤ 注:タイヤサイズの表し方は変遷がある。4.1の10とはタイヤの幅が4.1インチでホイール径が10インチを意味する。今風に表すと104/92R10となる。
今の軽自動車のタイヤサイズは145/80R13〜165/55R15だから、今より幅が4センチ、直径が10センチも小さかったことになる。

毎日仕事で車に乗っていた親父が、車が欲しいとなるのは当然だ。とはいえスバルだって新車は40万以上した。だから狙いはポンコツ一歩前のものである(注2)
親父は修理屋でアルバイトしていたから車屋関係に顔が広く、知り合いに「いいものがあったら知らせろ」と声をかけて、3万円というのを入手した。1960年代前半の3万は2021年の15万というところか(注3)安くはない。
私は当時中学2年か3年だったが、当然運転するつもりだから貯金から5千円を出資した。
当時は車検はなく、税金とガソリン代があれば車に乗れた。自賠責保険は当時からあった。任意保険を掛ける人はあまりいなかったと思う。何しろ車が少ないから事故があまりない。


さて車はナンバーは付いているものの、スピードメーターは動かないし、ブレーキも怪しい。窓がガタガタとかドアがグラグラと、もし車検制度があれば即不合格だ。いや車検制度がなくても堂々と公道を走れるものではない。当時、車検制度がなかったが整備不良車は取り締まられた。

凹みや傷は気にしないが、安全に関わることはまずい。ブレーキは親父は休みのたびにいろいろいじった。
スピードメーターは親父がワイヤーを買ってきて、私に交換しろという。何もわからない私だが、ダッシュボードを裏からのぞくとスピードメーターの中央に被覆されたワイヤーが取りつけてあり、それがぐにゃぐにゃ引き回された先が前輪左側の車軸に取りつかっている。前輪に直結されているワイヤーはハンドルを切るたびに真っ直ぐになったり曲がったりして、時が経てばワイヤーが切れるのは必然だ。

車輪につながれたワイヤーがグルグル回り、スピードメーターの中の丸い磁石を回し、その外側を囲んでいるアルミ?の輪に誘導電流が生まれてアルミ輪が引きずられて電流強度に応じて回転する。そのアルミに指針が付いている。ワイヤーを交換するだけでなくメーターをばらし、メーターが滑らかに動くようにした。
昔の車は単純だから、目で見て何がどうなっているか分かった。

あとで知ったが、スピードメーターの回転を取り出すところは、一般的にはトランスミッションの後ろからだそうだ。スバル360が前輪にワイヤーをつないでいたのはリアエンジンだからだろう。そのおかげでしょっちゅうワイヤーが切れたのだ。
組み立てるとき私はなんでもオイルをつけたので、我が家のスバル360は時速80キロくらい表示した。もちろん実際には50キロも出なかった。あとで知ったが、計器類の軸受けには注油してはいけないのだ。

親父が苦労してなんとか走り曲がり止まるようになると、早速あちこちに出かけるようになった。
それから早朝に親父が私を起こして、田舎道で運転を教えた。農道だから農家以外通行人はいない。車など一日いても通るか通らないかという状況だ。耕運機はけっこう通ったけど。
最初はギアのシフトアップとかシフトダウンを練習した。今ならマニュアル車でも馬力もありシンクロメッシュだから難しいことはないだろうけど、1960年の軽自動車はシンクロメッシュではなく、なによりも非力だからクラッチをうまく使わないとエンストする。平地でもシフトダウンのときはダブルクラッチもうまくしないとギアが跳ね返されてものすごい音がした。一応走れるようになると、クランクとか坂道発信とか免許試験で出ることは習った。

当時は16歳以上で軽免許を取ることができたので、親父も私も16歳になったら免許を取るつもりでいた。自動車学校はあったが、当時は免許を受ける人の多くは自動車学校でなく、警察署の庭に縄を張って作った運転試験場で試験を受けた。安く上げるためだ。みんなどこで運転の練習をしていたのだろうか? もちろんそんなことを聞くほど警察も野暮ではなかった。
実は当時は運転免許を持っている人が助手席に乗っていれば、運転の練習をしていてもお目こぼしされた。ただ私の場合16歳未満だったから、お目こぼしいただけたかどうか定かではない。


高校に入ると、軽トラで通学している生徒がいた。学校公認である。先生でさえ車通勤なんて珍しい時代だ。大きな農家の息子らしい。とはいえその先輩は毎朝野菜を市場に卸して、頼まれた買い物をして帰っていた。誰もが生活は大変だったのだ。
中学を出た年の夏には就職した同級生が街で軽トラを運転している姿も見かけた。
しかし私が免許を取ろうとしても警察署ではそんなにたびたび試験をするわけではない。福島の試験場に行くには汽車で時間もかかり簡単に行くことはできない。

高校3年の夏休みいよいよ免許を取ろうとして、数回自動車学校で練習して警察で試験を受けようとしたら盲腸になり、夏休みの残りは入院で過ぎ計画はオジャンである。
就職すると当時は週休一日だ、有休もなかなか取れない。車に乗る必要性も乏しく免許を取らずにいた。
当時の勤め先の工場では数百人が働いていたが、車通勤は10人いなかっただろう。


就職して1年目の冬だった。引っ越しのアルバイトでトラックの助手席に乗っていた。
その車が小学の女児をはねた。私は前方を見ていたが、女の子が出て来たのは見えなかった。なにかが左から出てきてパーンと飛んで行ったとしか思えなかった。 ギョエー
すぐに停車して運転していた人が警察や救急を呼んで大騒ぎになった。結果として女児は大したケガもなく一件落着となった。

しかしそのとき私は、運転とは恐ろしいことだ、事故の責任は大変だと実感した。
その前後に、長屋に住んでいた私より2〜3歳上の人が親に車を買ってもらったが、その人も人をはねた。賠償とかなにかでだいぶもめたと近所で噂になった。
私は気が小さい。もし運転免許を取って事故を起こしたら大変だ。必要なければ取ることがないと思うに至った。


当時(今もだが)郡山市はバス路線が少なく、本数も少ない。それは郡山市に限らず福島県はどこも同じだ。 ホンダスーパーカブ どこへ行くにも歩くかタクシーか自分の車かしかない。
二十歳を過ぎて、やはり自転車だけでは不便だと感じて50ccの原付免許を取った。

自分一人ならバイクは便利だ。だが時速30キロの制限はつらい。1年もしないで二輪免許を取りホンダXL125を買った。 XL125 なぜ125かというと、区分は原付で税金が安く、当時入っていた保険が原付の事故も担保していたからだ。
自動車は危ないから免許を取らないと決心したのに、バイクに乗るのは矛盾しているが、当時はそう思ったのだから仕方がない。


カリーナハードトップ 私が結婚したのが25歳の時。当時田舎ではだんだんと車を持つ人が増えてきた。家内は結婚してから免許を取り、初代カリーナのハードトップを買った。
私は車の免許がないから乗れない。家内が妊娠して運転できなくなるとカリーナを売った。


その後、いろいろあって私たち夫婦は私の実家に同居することになった。
大人は病気になっても我慢できるし、大事かどうか自分でもわかるだろう。しかし赤ちゃんはしょっちゅう病気になり、重大なのかどうか分からない。
田舎である。バス停まで2.5キロある。バス停まで歩くしかない。というかバス停は病院の近くだ。
私の周りの人たちも結婚して子供を持つとみな免許を取った。皆、赤ちゃんは病気になりやすく病院に行くのに必要だという。車がないといつ来るか分からないタクシーを呼ぶか救急車を呼ぶかしかない。
しかたがない、私は自動車学校に通い車の免許を取った。


免許を取ったら車を買わなくちゃならない。当時出たばかりのホンダシビックの5ドアが人気だったのでそれを買おうとした。乗っていたXL125を新車で買ったときの値段以上で下取りしてもらった。

シビック5ドア ミッションはホンダマチックなんて言って、トルコンは付いているけどギアチェンジは手動という簡易なもの。まあ、安いからしょうがない。
当時のシビックは幅1.5m長さ3.6mしかない。現在の軽自動車の規格が幅1.48m長さ3.4mである。ほとんど今の軽と同じだ。
当時国産のフルサイズとは5ナンバー枠一杯の車のことで、幅1.7m長さ4.7mだった。現在は大衆車のヤリスやフィットでも幅1.7m長さ4.2mある。昔の車は小さかった。

このシビックにはお世話になった。子供の病気のときばかりでない、親父が入院してからは毎朝通勤のとき、付き添いの母親と家内を交代で乗せて病院に行き、車を病院の駐車場に停め、帰りは母または家内を乗せて帰宅した。休日は私のターンだ。
使い勝手の良い車だったが、前駆でパワステがないからハンドルが重いのには参った。


その後、親父が死ぬと母親と別れて田んぼの中の公営住宅に住むことになった。街はずれどころか町の外で、買い物するにも車がないと暮らしていけない。車を2台持てる身分でないからシビックは家内専用だ。
どうしてそんな辺鄙なところに公営住宅を作ったのかと思うが、当時人口急増で市も県も大変だったのだろう。私も住宅を探したが、交通便利なところには物件がない。田んぼの中でもしょうがなかった。

バス停まで20分、途中田んぼ道を10分歩く。いやちゃんと舗装した道もあるのだが、そこを歩くと更に10分はかかった。民家も街灯もない真っ暗な道で、残業で遅くなったとき誤って堀に落ちて泥だらけになったことがある。
そして夏の夜はおびただしいウンカの群れに困った。当時は一般家庭でエアコンを付けるような余裕はない。居間には網戸を付けても、浴室やトイレの回転窓はどうしようもなく、ものすごい量のウンカが部屋に入ってくるのだが手の打ちようがなかった。


私が事故にあったのはこの車のとき一度だけだ。
私が運転して片側一車線の道を走っていると左側の路地から、女の子が運転する車が来て……あれは一旦停止をしないで出てきそうだなと予感した。案の定、一旦止まれの標識を無視して出てきた。そして私の車の左側に突っ込んだ。
相手もトロトロ出てきたので、大きなダメージはなく、こちらのドアがへこんだくらいで双方とも怪我はなかった。
向こうの車に同乗していた若者が私の車を一回りして、後ろのバンバーも凹んでいるから直すことはないなんてほざいた。余計なお世話だ。それにバンパーの凹みよりドアの凹みのほうがはるかに大きいだろう。

実を言って、ぶつかる前に急停車すれば事故にならなかったかもしれない。しかし当時は後席にはシートベルト着用義務がなく(注4)急ブレーキをかけると後ろの子供が前に飛び出すと一瞬脳裏をよぎった。
万が一、衝突前にこちらが急停車して衝突は免れても、その衝撃で子供が怪我をすれば自分自身の責任になり、そもそもの原因である向こうの責任を追及できないから、結果論だがあれが正解だったのだろう。
私の人生で、事故といえるのはこの一度だけだ。
小学生の女の子の事故は私が運転していたわけではない。


シビックも8年くらい乗って新車にしようとした。車屋に行ったら何も話をしない前に「いい中古がありますよ」と言って新品同様のカローラワゴンを勧められた。オートマでエアコン付きだ。予定していた車よりワンランク上だ。
試乗車ではないのだろうが、気に入ってそのまま乗って帰ってきてしまった。

カローラワゴン シビックのエセオートマでなく自動的にギアチェンジする真のオートマで、パワーステアリング、エアコン付きだ。子供たちが疲れた時はリアシートをリクライニングできておねんねさせることもできた。
この車にも大変お世話になった。子供たちが幼稚園から中学まで10年間だ。さすがに最後の頃になると、アンテナの上下機構が壊れたり、野ざらし駐車だから車体の塗装にチョーキングも起きた。


7代目カローラに替えた。もうこの時代になると、車は財産ではなくコモディティとなったようだ。 7代目カローラ オートマ、エアコン、パワステ、パワーウィンドウ、ドアミラーの自動開閉と、必要なものはすべてそろっている。まさにコモディティ。いや、特段文句はない。

この車も8年くらい乗った。都会に出てくるときに、家内の友人が高校を出る息子が車が欲しいとのことで、ただで上げた。もう古い車は売れるどころか、廃車費用を取られる時代になっていた。


都会に来てから運転したかというと、数えるほどだ。それもこちらに来て二三年のこと。だからもう10数年ハンドルを握ったことがない。
じゃあ、免許がいらないかとなると、やはりいろいろな場面で身分証明が必要になることもある。図書館で図書利用券を作るにも、会社の身分証明書には住所の記載はないから役に立たない。
パスポート申請でも本人確認には免許証が必要だ。いや免許証だけでなく、その他身分証明になるものとしていくつも例示があるが、それらいずれも持っていない。バスで老人割引を受けるため降車のたびに見せるとか、免許証が必要なことが多い。
現在はマイナンバーカードもあるし、運転経歴証明書というのもあるから、免許証の必要性は下がったけど、

さて2020年秋、もう車には乗らないぞ、身分証明にはマイナンバーカードもある。マイナンバーカードが貴重で紛失が心配なら運転経歴証明書をもらえば良いと決めた。

美浜区の千葉運転免許センターに行って免許を返納したいというと、係員に心変わりしませんか? とくどいほど何度も聞かれた。最後の最後に経歴書を渡す時も確認された。
私の運転人生は13歳から約60年、返納するのにたった20分、家を出てから帰宅するまで2時間だった。


免許を返納してから1年がたった。
なにか変化があっただろうか? 困ったことがあっただろうか?
何もなかった。
バスを利用するときは運転経歴証明書でOKだが、既に老人の風貌となり見せなくても72歳ですといえば運転手はOKする(高齢者割引は65歳以上)。
フィットネスクラブを乗り換えたときは、免許証より健康保険証が良いといわれた。

返納したことを他人に話したことは一度だけだ。
老人クラブで雑談をしていて、ある人が「私は両眼とも○○障になって視力も衰えてきた。更新のときの視力検査が難関だ」と語っていた。
同情するよりも何よりも、そこまでして車に乗るのか!、事故の心配などしないのかと内心驚いた。
東池袋自動車暴走死傷事故はその1年前2019年だった。なぜあの事故を教訓としないのか? 無理して運転していればいずれ事故を起こすのではないか?

💥プリウス

それを聞いて「私は免許を返納しました」と返すと、「72歳で返納なんて早すぎる」と言われた。
別の方が「素晴らしい決断ですね」とフォローしてくれたが、素晴らしい決断なんてとんでもない。もし私が今よりボケたら、免許を返納するという発想さえ起きないかもしれない。そういう考えができるうちに返さなければならない。
問題が起きる前に前に手を打つのは品質管理の基本だ。

注:免許返納者を年齢別にみると、年により変動はあるが、42%は75歳未満の前期高齢者である。72歳で返納することは決して早くない。

半世紀前に乗っていたトラックが子供をいたとき、自分がいくら注意しても事故は防げないと感じたことが底にあると思う。
車には乗るまいと思っていたのを、なぜ乗るようになったのか?
子供を病院に連れていく、親を病院に連れていく、そういう効用とリスクを天秤にかけて乗ることを選んだ。運転するときは常にリスクを意識していたつもりだ。
働いていたとき「それはneedなのかwantなのか?」なんてよく上司から問われたものだ。命に関わらない趣味ならwantでもいいが、車に乗るのはneedでなければならないと思う。


老人マーク 本日の気持ち

子供のときは無免許で農道を走った私であるが、あの一時期を除いては一度たりとも無免許運転も飲酒運転もスピード違反も、その他法に反することをせず、自責の事故はなくゴールド免許のまま運転人生を終えることができたことは望外の喜びである。返納した今、もう自分が加害者になる心配はない。
車の神様、運転の神様、安全の神様、ご加護に感謝します

神棚



注1
日本が戦争に負けてアメリカ軍が上陸して進駐軍と呼ばれた。1952年日本が主権回復(独立)してからは、日本にいるアメリカ軍は占領しているのではなく日米安保条約に基づき駐留しているので駐留軍と呼ばれた。
私は日本独立以前に生まれたので当時は占領軍/進駐軍であった。

注2
スバル360が1958年に発売された時の新車価格は425,000円であった。当時のサラリーマンの月収は16,000円だったという。
旧車コラム

注3
独立行政法人労働政策研究研修機構 物価

注4
日本で運転席にシートベルト設置が義務になったのは1969年、助手席が1973年、後部席まで義務になったのは1975年である。
着用は1971年に前席の努力義務、1985年に前席の着用義務、後席の着用義務は2007年であった。




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