老人になるということ

22.05.05

私は正真正銘の老人だが、上には上がある。これから私がどんな風になるのかといつも先輩諸氏()の様子を 老人 観察している。加齢によって人は姿勢も表情も肉体も変化していくが、それは人によって大きく違い、自分がどうなるのかと思うより、こうありたいと思う姿になるように努力しようと思う。いや思うだけでなく行動しなければならない。
本日はそんなことを書く。


私が会社を辞めたのがちょうど10年前の今の時期だ。会社を辞めたらスイミングを習おうとフィットネスクラブに行くことだけは決めていたが、それで1週間がつぶれるわけではない。それで公民館に行ってみようと考えた。私は元からスポーツは全然だめだったし、趣味といえば囲碁くらいしかない。公民館にも囲碁クラブがあるだろうと思った。

家内は公民館のクラブに入っていて、週に二三日は公民館に通っていた。
家内がいうには公民館に囲碁クラブはふたつみっつあるけど、どれも二三人しか集まっていないよという。二三人では碁を打つにも人が少なすぎる。最低6・7人はいなければ、面白くない。

なお、公民館のクラブとは公民館が作るものではなく、同好の志が集まって公民館に申請するものだ。だからポピュラーな趣味やスポーツのクラブは複数存在する。○○公民館囲碁クラブだと名前がダブルから、青空囲碁クラブとか囲碁名人会など好きに名乗ればよい。
クラブとして作ると場所使用料や大会などするときに市から補助があるが、その代わり会則を作り予算・決算。活動記録などを市に報告しなければならないし、市のスポーツ大会とか文化祭行事に参加を要請される。それが面倒なら補助を受けず場所だけ借りて行うこともできる。

家内は続けて、マンションのそばの町内の集会所で、囲碁が好きな人が毎週末に集まっているという。家内の卓球仲間の旦那さんがそこの親分だそうだ。
公民館までは2キロもあるが、その集会所は歩いて数分の距離だ。とりあえずそこに行ってみることにした。


碁盤 まずは家内の友達の旦那さんに挨拶した。そのときその方は80少し過ぎだった。そこは会則も会費もない。ただ毎回出すお茶とお菓子の費用は取っているという。
早速手合わせしていただいた。私が3段だなんて言っていたのは遠い昔で、20年以上碁石を握っていない。旦那さんが5段だというので、とりあえず4目置かしてもらって打つ。勝てば1目減らして負ければと、数回打って手合割は2目くらいだろうとなった。つまり3段で昔と同じということだ。

そこで毎週遊んでいたが、二三年経つと私もほかにも趣味の会に入り忙しくなったことと、その旦那さんが体の具合が悪いと顔を出さなくなってしまい、それきりそこに行くのを止めた。
それでもお互い近所に住んでいるわけで、買い物や散歩でお顔を見ると挨拶したり世間話をしたりしてした。

更に数年後、なんと奥様が亡くなってしまった。奥様は旦那より一回り若く、まだ70代半ばであった。その後、娘さん一家が越してきて一緒に暮らすようになった。

それからも旦那さんとは散歩などで時々会い、挨拶していた。
ところが今から二三年前、90歳くらいからボケた。精悍だった顔つきから表情がなくなった。挨拶しても「どちら様ですか?」なんて返されるとこちらも悲しくなる。それからは出会っても話しかけず会釈だけしている。
見ていると100mも歩くと路傍の石などに腰を下ろして休憩する。しばらくしてまた歩き出してまた座り込む、そんな風であった。
そして今、94歳の彼はかなりボケが進行している。10年前、私を碁で負かして喜んでいたのを思い出して悲しい。


私の住んでいるマンションにも老人は多い。マンションの人口は2,000人近い。その内、引退した人が500人はいる。とはいえ、お名前とお住いの部屋番号も知っている方は10人もいない。親しいといえる人はいない。
私は交際が得意でもないし、人と付き合うのが好きでもない。隣に住むからといって親しくなる義務もなければ道理もない。
とはいえ顔を知っていれば会釈をし、やがて挨拶をし、世間話をするようにはなる。そんなことで知り合いはだんだんと増えてくる。

そんな知り合いも皆等しく歳を取り、63歳で引退した私も73歳になり、知り合ったとき70歳の人は80歳になった。
そして毎年誰かしらは亡くなっている。

遺影 郡山に住んでいた時は、隣組であればお葬式の手伝いに行く。昔と違い告別式は隣組でなく葬儀社が取り仕切るにしても、あまり人が少ないと寂しい告別式になってしまうから、顔を出していなければならない。まあサクラだ。
隣組でなくても同じ町内で付き合いあれば、お通夜に顔を出すくらいはしていた。10年も住んでいれば子供会とか町内の行事で付き合いはあった。
そもそもデベロッパーが開発した大きな団地といえど、今住んでいるマンションの3割くらいしか人口がないのだから、半分は顔見知りだった。

今のマンションでは亡くなっても知らせがあるわけでもなく、最近顔を見ないなと思っていると数か月してから亡くなったなんて話を聞くことになる。もっとも付き合いが薄いから知っていれば焼香に行ったのになんて思う人もいない。人情紙より薄いというより、人情といえるほどの付き合いがない。


田舎にいたとき、都会では隣に住んでいる人の顔も名前も知らないなんて聞いて驚いていたものだが、実際に住んでみればその通りだ。今住んでいる両隣の苗字と顔は知っていても、下のお名前は知らない。更に二軒隣となると全くわからない。そしてまた何事かあっても助け合うことがない。それで困ることがない。
今はプライバシーとか言って、郵便受けにも玄関先にも苗字や家族の名前を書かない人が8割はいる。また引っ越しして来ても去っていくにも、挨拶などない。だから名前を知るはずがない。
田舎では想像もつかないことだ。

田舎では隣に見かけない車が停まっていればお客さんでも来たのかとか、車を替えたのかとか思うが、マンションでは駐車場と住まいは遠く、車が変わろうが客が来ようが気が付かない。それと客があっても自宅に入れるより、マンションのロビーの打ち合わせ場で話すのが普通らしい。親戚とか内装工事の打ち合わせでもなければ、客人を自宅の中に入れないようだ。

ピカピカの一年生ピカピカの一年生
入学とか卒業あるいは成人式があっても近所からお祝いも挨拶もない。近所の子が制服から私服に変わったら、大学に入ったのか働き始めたのかと思うくらいだ。
老人になると卒業もなく変化がないから、見た目がだいぶ老いたと思うくらいが関の山。


人との付き合いが希薄であれば、そこで暮らす人は個として強くなければならない。田舎では近隣との付き合いが濃厚であり、プライバシーもなく愚痴も聞かされるが、自分の泣き言も聞いてもらえるし助けてもらえるという関係になる。
言い方を変えれば、都会は個人主義で生きていけるが、田舎では個人主義は通用しないのである。そして田舎では生き方だけでなく暮らしすべてがそういう考えで成り立っているから、一人だけとか大人になったら個人主義に切り替えるなんてできない。
近所の子供なら、結婚しても子供が生まれても、名前を呼び捨てくらいは普通のことだ。何かあれば相談とか援助を頼むのもありなら、頼まれるのもしょうがない。
ともかく都会、特にマンションのような人間関係の希薄なところでは、悩みも喜びも自分が消化し対応しなければならないから、個人として独立して精神的にタフでなければ生きていけない。

若い時なら近隣の人に頼らずとも経済的にも日常生活でも自分で対応できるだろうけど、高齢になるとだんだんとどうにもならなくなる。
今まではシーリングライトは蛍光灯が多かった。老人世帯では蛍光管が切れると交換するのも困難になる。今のマンションは天井高が2mくらいあり、椅子に上がったくらいでは届かない。管理人室から脚立を借りてきてとなると、知り合いの若い人に頼むようになる。若い……つまり私のような(笑)者が頼まれてすることになる。
だが日常生活すべてを頼ることもできないから、身の回りのことができなくなれば老人ホームとか類似の施設に行くしかない。
多くの老人家庭では、逝くのが夫が先か妻が先かという究極のババ抜きをして、負けたほうが施設に行くというコースが多い。


最終的にはそうなるわけであるが、我々はゴールが目的ではなく、ゴールまでの暮らしが目的があるわけで、先輩老人の日常を眺めているといろいろと参考になり、面白い。
高齢になればなるほど個人差が大きくなる。80前にボケてしまうとか、体が不自由になる人もいるし、90過ぎて老眼鏡も補聴器もいらないという人もいる。若い時からの生き方なのか、生まれついての体質なのかはわからないが、個人差は年とともに広がっていく。

だからその人が体力的にあるいは頭脳的に老いたか否かは、年齢でなく行動や会話から推察しなければならない。80歳といってもその人の状況は想像つかない。毎日フィットネスクラブで2キロ泳いでいる人もいるし、杖をついてマンションの中庭を散歩するのがやっとの人もいるし、入院したきりという人もいる。


健康状態とか体力は歩き方を見るとわかる。
歩く もちろん初めは皆二本足でスタスタ歩いているわけだ。まさか定年退職した人で杖が欲しいという人はいない。
退職しても当初はスタスタと歩いているが、数年経つと歩く速さが遅くなり、足が地面から上がる高さが低くなる。わずかな段差でつまずくようになる。

マンションの棟間は隙間があり、通路は鉄板でつながっている。その段差はほんの数ミリだが、ある老人がそこにつまづいて転び骨折した。私から見ればなんでこんなところでと思うが、年を取るとそれが現実だ。
寝たきりになってしまうのではないかみんな心配していたが、ご本人の強い意思だろうが、リハビリを頑張って歩けるようになった。


そのうち手を腰の後ろで組むようになる。私はまだそんな前兆はないが、家内は歩く時も立ち止まるときも、腰の後ろで両手を組むことが多い。年をとると背骨が曲がり上半身が前傾になるから、バランスをとるためだろうか?


マンションから500mから1000mくらいの範囲にスーパーが数件あり、マンション住人は皆そのいずれかに買い物に行く。
若い人は買い物するとスーパーのショッピングバッグやエコバッグに入れて手に持ってくる。
重いものが持てなくなると、キャリーバッグに代わる。重いものを持たなくてよいから楽になるということもあるだろうが、キャリーバッグそのものが体の支えになり安定することもあるようだ。
更に体力が衰えると手押し車になる。手押し車の荷台に杖を差し込んでいると、典型的な老人の風景である。手押し車によっては上面が椅子になっているものもある。
そしてすごろくの上りというかゴールは電動のシニアカーである。
朝は2本足、昼は2本足と2輪、夜は4輪、まさに現代版スフィンクスの謎である。


おっと元祖スフィンクスの謎の最終段階である3本足であっても、更に段階に分かれる。
私はまだ杖が必要ではないから、杖のありがたみとか使い方がわからない。だが杖を使う人を見ていると、大きく分けて三段階あるようだ。

まだ元気 初めは杖に頼るというより単にタイミングをとるためのようで、杖といっても細く強度があまりないアルミ製が多い。歩く時に杖を前後させてバランスをとっているように見える。
水戸黄門が持つのは歩行補助ではなく護身用なのだろうか?

少し元気 やがて二本足だけでなく杖に力をかけて3点で歩くようになり、杖は体重をかけられるしっかりした丈夫なものになる。
人によっては杖を両手に持った二刀流になる。
えっ、あれは老人でなくポールウォーキングというスポーツですか!

元気ない 更に進むと自立する四点杖(多点杖)になる。ディズニー映画の「カールじいさんの空飛ぶ家」に出てきたあれですよ。
四点杖(多点杖)は医療費控除が受けられるそうだ。


それから目につくのは姿かたちである。
女性なら着るもの、化粧、髪の毛、これに気を使わないようになるとおしまい。
別に流行もフルメイクも必要ではないが、精神が若ければそれなりに気を使っている。気を使わないともう心まで老いたのが明白だ。
心が老いると外観に気を使わないのか、外観に気を使わないから老いるのか、どちらだろう?

男性も同様である。一番目立つし気になるのは、髭をそっているかどうかだ。無精ひげはイチローなら素敵だが、爺さんなら救いようがない。
髪の毛の洗髪も毎日したい。ふけはいかん。田中裕子もフケいやねって40年前から言ってますよ、
着ている服が汚れていないか、破れていないか。季節に合った衣類を着ているか。季節外れのものを着ている人の老人率高いです。
季節外れも大いにおかしい。今頃ダウンを着ているのは、おかしな人と見られてもやむを得ない。特に老人は温度の感覚が衰えていると思われる。

私自身、引退してから衣類を買うのが歴然と減った。とはいえTシャツ・チノパン・スニーカーなど、この年では正装といえるものは、まっとうなものと自分は思っている。

10年前、しゃれたセンスのご老人を見て、私もあんな風に老いたいと思った方が、今その方が型崩れしたのを着けているのを見ると、アカンなあ〜とガッカリしてしまう。

メガネ 衣類だけでなく、身に着けるものもそれなりに気を使ってほしい。
つるが曲がったメガネをしているのを見ると残念だ。いまどきメガネなど安いのだからかっこよく決めてほしい。


基本はなによりも意識して姿勢をよくすることが重要だ。
背を曲げるから背が曲がるのではないかと思う。義母は94になるが、背骨はまっすぐだ。さすがに最近はテレビの音を大きくするようになったと聞くが、いまだに老眼鏡いらず補聴器いらずである。頭の回転は40年前と変わらない。
我が家にコメを送るときは30キロの袋をかついで宅配便の運転手に渡していると聞く。我が家ではそれを家内と私二人係りで運ぶ。
まっすぐ立つ、椅子に座る、大股で歩く、そういう基本動作が辛くなるということは、筋肉の衰え、可動範囲が狭くなるなど老化そのものだ。だから逆に常にそういう姿勢をとるように努力すること。

私のことを言えば、昨年ギックリ腰とか肉離れを繰り返してから、私は腹筋とか背筋とか腕立てを止めてしまった。ストレッチも無理するからとしていない。
もちろんなにもしていないわけではない。今は筋膜リリースがメインだ。最初はボールとかローラーを使っていろいろしていたが、最近はマットの上で体を伸ばすのが基本であり目標と思っている。
もちろん筋膜リリースが問題なくできるようになれば、次はストレッチ、更には筋トレに戻りたいと思う。


うそ800 本日の誓い

何者になるにも努力がいる。泳げない人が泳げるようになるには、最低でも半年や一年頑張らないとならない。掛け算九九を覚えるにも半年はかかるだろう。芸事だって一人前になるには何年もかかるだろう。
しかし老人になるには努力はいらない。何もせずただ生きていると老人になれる。
老人の場合は、何かになるための努力ではなく、現状を維持することへの挑戦である。
維持するものとしては、気持ちもあるし、体力もあるし、行動様式もあるだろう。なにもせずに成り行き任せでは加速度的に劣化してしまう。

老人よ大志を抱け フィットネスクラブの仲間が「60代の運動は体力低下を防ぐためだけど、70代の運動は体力低下を遅くするためだ」と語った。更に80代は少しでも長生きするためだと付け加えておこう。
悲しい努力といえばその通りだが、微分すれば若者の努力と同等である。
積分すればだって? それこそ悲しいからやめておこう。




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