議論とは 2002.01.27

私は議論が好きです。
私は議論が嫌いですといっても信用しちゃくれないでしょうしね、(^^)
ISO審査なんてのははっきり言って議論そのものです。
ISOの審査は厳格なルールに基づいています。基準はもちろんISO9001とかISO14001で、審査方法はそれまたISO規格で定まっています。審査側はこれらの規格に基づいて証拠を要求し、受審側は規格に適合した証拠を提出します。審査範囲は要求事項を踏み出してはなりません。議論になるのは規格の読み方、解釈です。一方がと理解し、他方がA’と解釈するというのは間々あることです。そこで議論が発生します。
この議論では判例とか権威とかは意味ありません。前回こうだったから、権威が言ったからというのではなく、この文言はどう読むのか?ということが常なる争点となります。規格の要求は何か?その証拠は適合しているかということが常に議論となります。
もちろん、ISOの免状がほしくて審査員の言うことをハイハイと聞けば議論は起きません。後で困るでしょうけど、、

ですから・・・誤解なきように申し上げておきますが、議論とは自分が間違っていても言いくるめるとか、何が何でも言い負かそうとか、勝つことに意義があるなんて思ってはいません。
議論とは正しいことを話し合いで見つけることです。
その意味で裁判とは違います。弁護士は被告の無罪を信じなくとも被告のために働く義務がありますが、議論においてはより正しいと認めたならば、前言を翻し相手側の見解を支持することにいささかの不具合もありません。

ISO審査で自分の間違い(というより会社の間違い)を具体的証拠で立証されると、ばっさり切られてむしろ気持ちがいいものです。決して悔しいとか、コンチクショーなんては感じません。反面、能力不足の審査員が明らかな当方の不適合に気づかないのをみると非常にいやな気分になります。
もちろん自分が監査側になった場合は、相手の傷口に塩をすりこむようにやるのが私のモットーです。(^^)
話は大きく違いますが、林海峰という囲碁棋士が「相手が悪い手を打つともうその碁を打ちたくなくなる」と語ったことがあるそうです。分かります、その気持ち。単に勝つということに意義があるんじゃないんです。二人が最善を尽くして後世に残るような碁を打つ、それが碁の意義だと思います。不戦勝とか、手拍子と言われる相手のチョンボで勝ってもそれが後世に残せるような棋譜とはなりません。
議論とは双方が知識、知恵の限りを尽くして討論してより良い結果を出す、それが目的です。

議論に負けたくないために、危なくなると論点をはずしたり、相手があげた証拠の欠陥を突いて立論自体が誤謬であるように反論したり、相手が質問したことに答えず、ただ自分の質問を連打したり、無意味な言葉を羅列したり、、
日の丸君が代の掲示板ではそんな作戦が多く見られました。(今でもそのようです)
はっきりした審判がいない戦いですからディベートのような上品なわけにはいきません。クリンチに持ち込んだり、隠し持った凶器攻撃とか、ロープに追い詰めて二人がかりとか仁義なき戦いってやつですね、
もっとも最強・最悪の手は嵐と称して掲示板を閉鎖したりすることでしょう。その場合は敗北宣言ととられてもやむを得ないでしょうね。

議論に際しての心得は、正しいことを見出すのが目的と認識することです。
決して説得されないぞ、と考えて参加するのでは心構えとしておかしいです。
双方がその信念ならば結果は期待できません。
ひとつのアイデアですが議論が発生したならば、お互いに自分が支持しない立場をとって議論するというのはどうでしょうか?
アラビアンナイトかなにかで王様が二人の息子に「二人が競争して遅くゴールした馬のほうに国を譲る」といったという物語がありましたよね。炎天下、二人の王子は馬を抑えていたが人馬とも苦痛に耐えかねた。そこで二人は相談して馬を乗り換えてどちらが早くゴールするか競った、というお話があります。
あっつ、全然関係ないですか、これ?
自分が反対する立場でもそれを弁護しようとするといろいろ考えます。そうすると実際それが正しいと思われる証拠だってあります。もともとまったく誤まった立論ならば、それを支持する人がいるはずがありません。
その調査の過程で議論が不要となるかもしれません。
もちろん、双方が正しいこと、誤まったことを素直に認めることができるように心が広くなければいけません。
とは言え、日の君のような狂信者にはこの方法は適用できそうありませんね?

本日のまとめ

議論、大いにやりましょう、
 勝ち負けにこだわらず、よい結果をだすために!


たまにはいいこというでしょう?


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