時間の濃さ 2002.03.01
日本人の寿命は大幅に伸びています。現在世界一だそうです。
でもほんの少し前までは、『人生わずか50年』といいました。
私が就職した頃、定年は56歳でした。今は60歳でまもなく63歳にしようとしています。たった30数年で7年も伸びたのです。
ちなみに労働者の定年が定められたのはドイツが最初と聞きましたが当時は定年より平均寿命が短かったそうです。
今は第二の人生といいますか、定年後をいかに充実させ素晴らしい人生を送るかが重要課題となっています。
しかし、寿命が延びたのは良いことですが、それに伴って人間の生きがいあるいは成果といったものが増加あるい向上してきたのでしょうか?私は逆に人生が薄まってきたのではないかと考えます。

昔、寿命が短かったとき、人々は人生において成果を出さなかったなんてことはもちろんありません。
無敵艦隊の時代は船乗りになるためには13・4歳の子供が軍艦に乗り、鍛えられたそうです。そうしないと働き盛りの30台までに一人前にならなかったのです。
ジョージ・ワシントンが独立軍を率いて戦ったのは34歳の時でした。
織田信長が本能寺で死んだのは49歳、聖徳太子も49歳没、坂本竜馬は32歳没
新撰組だ〜新撰組も海援隊もみなはたちそこそこ、みな若くて激しく生きて時代に貢献し名を残しています。徳川慶喜だって明治維新のとき若干30歳だったのです。
明治の元勲が日本を背負ってがんばったのも30代でした。
今時の会社じゃ30代は鼻たれ小僧、40代は中堅、取締役なら50代でも少壮とつきます。

参議院やアメリカ上院の被選挙権はいずれも30歳、その源をたどればローマ帝国の元老院です。元老ってなんですか?当時は30歳になれば立派な老人で若手の下院に比べて国家運営に老練な意見が出せると考えられたわけですよ。今なら60歳以上にしないと「老」と付けるわけにはいきませんね。
松尾芭蕉が奥の細道に旅だったのは40歳をわずかに越えた時ですが、残された書き物から彼は自分を老人と感じていた事がわかります。今なら60歳くらいの感覚だったのでしょう。
いつから人間は体力だけでなく思考の老いも伸びたのでしょうか?
言いかえると老成しなくなったのでしょうか?

ネアンデルタール人の寿命は30歳そこそこと聞いたことがあります。
人間の生殖可能な年齢が17・8歳とすると、親が子供をその年齢まで育てるのにその倍として、種の保存のためには寿命は34・5歳で十分なのかもしれません。
生物としては現世人類と変わらないでしょうから人生の密度は半分以下になったと言えます。
人生の密度はネアンデルタール人の半分、芭蕉の時代の70%に密度が下がったのでしょうか?
最近のテレビか新聞で読みましたが、会社訪問に来た修士課程の学生なら話が続くが、学部の学生では話が続かないという人事担当者の話が載っていました。おいおい、二十歳過ぎてそれじゃ心配だよ、

人間の値打ちは年齢じゃない、功績じゃよ! もちろん時間が人間に与える影響はリニアではありません。
子供の1年はおとなの数年に匹敵すると言われます。
人間の場合も精神的な時間は15歳蔵まではきわめて密度が高く、成人になると変化のない物理的な時間がただ過ぎていくのでしょうか?
音の大きさがエネルギーに比例して大きく感じないで、エネルギーの対数に比例して聞こえるようなものなのでしょうか?子供のときの一年に比べ、20代は7割、30代は5割、40代は3割5分といった感じですかね。会社で同じ仕事10年していた感覚より、高校の3年間の方が長かったような気がしませんか?
私たちはノンベンダラリンと生きてはいけない。密度の濃い生き方をすべきだと思います。
そうでなければ文字とおり馬齢を重ねるだけでしょう。
おっと、こんな言い方をすると民主党から「馬権侵害」と訴えられてしまいます。

思うに、これは寿命が延びただけではなく、子供に対する家族、社会の要求が甘くなったせいもあるのではないでしょうか?
昔、小学生でも弟,妹の子守りはあたりまえ、中学生になれば新聞配達、納豆売り、高校生になればアルバイトして少しでも家計の助けとなるのは普通の光景でした。
親が健在である限り、子供は成人しても経済的に精神的に援助してもらえるなら大人になるはずがありません。
30年も前ドラッカーは「断絶の時代」で人生が長くなったために人は社会に出るのを遅くするようになったと書いてましたが本当でしょうか?

私たちは単なる時間的な寿命ではなく、成果で人生を測るべきです。
メタセコイヤが数千年の寿命があるとしてそのような人生が理想ですか?
短くも美しく燃え、いえ不倫の勧めではありません。



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