横須賀ストーリー 2002.07.21
7月20日は「海の日」です。
「海の日」の由来は,1876年(明治9年)に「明治丸」で東北地方を巡幸した明治天皇が横浜港に帰着された7月20日を記念して「海の記念日」として制定されました。
海の日には日本全国で海にまつわる種々の行事が催されました。
そして、われらの同志 海の防人様 より、『自衛艦を見に来ないか』のお誘い!!

   これをほおっておけようか、


というわけで、あこがれの横須賀に行ってまいりました。

なぜあこがれであるかといいますと、、
私の父は明治45年生まれ、東北の片田舎の尋常小学校をでまして横須賀の海軍工廠に勤めました。昭和元年の頃でしょう。
一時、召集されて陸軍で中国大陸で戦いました。
そしてまた海軍工廠に戻ってきたとのこと、
私の母も同郷の出身です。両親が結婚したのは昭和1◇年3月16日
結婚して初めて横須賀に行って家の中をカニが歩いているのを見て、母は ギョッ としたそうであります。
生前、父も母も横須賀のことをいつも話しておりました。
もちろん、戦争が始まると海軍に応召し、北千島、野辺地、舞鶴等々あちこち転勤し最後に千歳で終戦を迎えたそうであります。
海軍は転勤が多く、荷物をほどく間もなかったそうです。
戦後、細長い紙に包んであるものをなんだろうと開いてみたら、火箸(炭をはさむやつですよ)がそのままの形で錆びだけになっていたそうです。
両親はいろいろな所に住んだわけですが、話に出てくるのは横須賀が一番多かった。それだけ思い出があったのでしょう。
谷のところをヤトというとか、ものすごい急傾斜に家が建っているとか、海のすぐそばまで家があるとか、朝は市場に魚を買いに行ったとか・・・
そんなことを子供の頃から聞かされたヨコスカはあこがれでありました。
父も母もとうに亡くなりました。私はその横須賀に今に至るまで行ったことがありませんでした。
防人様のお誘いがなければ、まだ訪問することもなかったでありましょう。

 
約束の時間より1時間ほど早くJR横須賀駅に着きました。
そして駅の周りを歩きました。
ものすごい階段が続きます。
引越しなんてどうするんだろう? と疑問に持つような場所です。
段々畑というのがありますが、階段に家を建てたような感じです。
正直言いまして、膝が笑うと言いましょうか、ガクガクしてしまいました。

 再三さん、老人をいたわりましょう。

   60年前ここに両親が住んでいたのです。
   感動ですね、
   あっ、私にとってだけか?


ものすごく大きい


さて、定刻になりまして、防人様の引率でまず海上自衛隊の護衛艦『しらね』『あすか』『はるさめ』を見学いたしました。
大きいですね!
想像いていたよりはるかに大きい。

旧海軍工廠後、手前にはなぜか反対運動の小船が

防人様のご説明で、オヤジが働いていた元海軍工廠は現在アメリカ軍の基地になっているそうです。
『あの大きなクレーンは当時からのものですよ』とのことであります。




手前には、なぜか? 反対を叫ぶ小船が??
横須賀などでなく、なぜ軍事費が世界二位の中国に行って『軍備はんた〜い!』と叫ばないのか不思議です?


それから記念艦『三笠』を見学、

   『皇国の荒廃この一戦にあり、
各員いっそう奮励努力せよ』

この小さな艦でわれらの祖先は日本のために戦ったのです。

 排水量はともかく、サイズ的には護衛艦しらねより小さいのです。

もし負ければ、日本という国家はなくなっていたかもしれません。
今現在も植民地になっていたかもしれないのです。
恥ずかしながら、私は涙がこみ上げてきました。

  再三さん、老人は涙もろいのだよ、

私がその時、一水兵として三笠に乗艦していなかったのが残念でなりません。
 しかし、思い直せば、
不肖私は、今 日本のために戦っているつもりです。
三笠
軍艦旗、日章旗よりすばらしい旗を知りません。
Z旗と海軍旗がはためいております。


日本の学校で聞いたこともない反国家活動をした朝鮮人のことを教えるのではなく、ぜひ東郷提督、秋山参謀、乃木将軍、児玉源太郎(私の尊敬する人)を教えて欲しいものであります。
日教組のセンセイ方、聞こえていますか?




私たちが先祖を敬うのはきわめて自然なことです。
あなたが今存在するのは両親、祖父母のおかげですから。

私たちは日本のために戦った先人を忘れてはいけません。
あなたが、私が、今こうしているのは彼らのおかげなのです。




帰るときに買おうと思っていた『海軍カレー』を買うのを忘れてしまいました。
おかげで家内に叱られました。

再三さん、ボケは進行中です。




不良中年様よりお便りをいただきました。(2002.07.22)

ずいぶんとご無沙汰しております、不良中年です。
佐為様も横須賀へ行かれたようですね。
私は昨年の12月23日に三笠公園に行きました。
有名な海軍カレーも三笠公園の近くの喫茶店で食べて見ましたが、お値段に比して味の方は???と感じましたが(苦笑)
戦艦三笠は主砲等は張りぼての複製になりはてていますが、随所に日本海海戦の激戦の跡を残しており、いろいろな展示品を見るにつけ感激を新たにしたものです。
今現在の我が国がこうして曲がりなりにも独立国家としてあるのもこうした先人方が闘い、勝ちえたものであり、私達はこの国をよりよい形で次の世代へと伝えなければと思ったものです。
残念ながら現役自衛艦を見学する機会はありませんでしたが、横須賀には海に囲まれた我が国を他国から守る海軍の心が感じられるような気が致しました。
今後、再び横須賀を訪れる機会があるかどうか分かりませんが、機会があれば呉や舞鶴も訪れて見たいものだと思います。
佐為様の横須賀ストーリーを拝読して、つれづれに思いつくまま書いてしまいました。(^_^)
不良中年様
お便りありがとうございます。
非常に私的なことですが、書きましたように私の両親の思い出の地で感慨ひとしおでありました。

  急な坂道、駆け上ったら、今も海が見えるでしょうか?ここはヨコスカ♪

悔やまれるのはオヤジが元気だったときに連れてきてやればよかったということです。
私も歳をとったということでしょうね、

三笠の主砲云々も致し方ないのでしょう、
防人様のお話では終戦後はダンスホールだったそうです。
このような日本の誇りを何とかせねば! と考え込んでしまいます。

韓国に修学旅行に行くのもいい、
でも子供たちに 三笠 も見せて欲しい、

ね、日教組の方々!


MIKASA様よりお便りをいただきました。(2006.04.17)
今日たまたま「横須賀」を検索していて、このHPに出会いました。うれしくて今日はずっといろいろ読ませていただきました。
中学生のときの忘れられない思い出があります。数学の時間だったのですが、先生が何を思ったか突然日本海海戦のことを語り始めました。たぶんやる気のない私たちを情けなく思ったからだと思います。日本がロシアのバルチック艦隊を殲滅したこと。「その時連合艦隊の参謀として作戦を立てたのは我が郷土愛媛の秋山真之であり、またその兄は騎兵隊を実質創設した人である。お前たちももっと気概をもて」と。司馬良太郎の「坂の上の雲」に出会ったのはその10年後のことでした。(遅っ!)
私は、以前から中国や韓国が、ことあるごとに行う日本を悪者にし陥れるような挑発的言動には腹がたってなりませんでした。日本をあくまでも罪人にし、太平洋戦争の罪を子々孫々まで永遠に負わせ中国、韓国に這いつくばって、金をむしりとられながら、生きよとでも言いたげです。それなのにヨン様だどうだのってロケ地旅行までしちゃうオバサンたちってどこまで呑気なんだろうと思ってしまいます。
しかし、勉強不足のためそれに反駁する知識もなく、この類のニュースが出るたびストレスがたまってしかたがありませんでした。それに輪をかけて、対する政府の軟弱な態度たるや!この国には知恵も勇気もない政治家しかいないのかと。
でも今日からは日本人として誇りと気概を持てるよう色々勉強をして行きたいと思いました。
子供の感想文みたいで済みません。嬉しかったのでつい滅多にしないカキコをしてしまいました。ではまた。これからも楽しみにしています。
MIKASA様、お便りありがとうございます。
外国の船の来る港町というのはどこかエキゾチックで夢の国のようです。
その上に、すばらしい過去の栄光が横須賀にはあります。
三笠です。
この船が日本にどのような貢献をしたのかと思うと、心は100年前に飛び、感動と日本人であることの誇りに満ちます。
もちろん日本人でない人は理解できないかもしれません。
学校ではそういう単純な感動ができるように教えなければなりませんよね。
またお便りをしてください。



日本海海戦(2008.06.06)

日本海海戦 知っている人はいるでしょうか?
日本がロシアを祖国存亡を賭けて戦った日露戦争を知っていますか?
gunkanki.gif 正直言って、私も毎日の仕事にまぎれてその日は記念日であることに気付かず、数日過ぎてから思い出した。実を言ってイギリス大使館がかって東郷の大将旗を返したとかいう記事を見たので気が付いた。
先人に申し訳ない。
日本海海戦は1905年5月27日、今から103年前に対馬海峡で歴史に残る大海戦があった。
もしあの戦いで日本が負けていたら、今日本という国はなく、中国もなく、インドもなく、トルコもなかったかもしれない。
中東にはイギリスの植民地、オランダの植民地、フランスの植民地ばかりがあり、アラブの国はなかったかもしれない。
しかし歴史は日本が勝ち、アジアの民はヨーロッパの支配を絶対のものと考えなくなり、民族自決の独立戦争が起き、現在の世界がある。
そんないきさつをを思う人は、世界にもこの日本にも少ないだろう。日本に感謝する中国人も朝鮮人も少ないに違いない。それもしかたのないことだ、世の中は非情で忘れやすいのだ。
私は、戦艦三笠に乗って戦った水兵の幸運をうらやむ。日本人が一体となって、祖国のために行動できた時代に生まれてくることができたことさえ僥倖ではないか。そして日本のために戦う舞台に登場することができたこと、幸運以外なにものでもない。
しかし私は戦艦三笠に乗って祖国の興廃の重責を担った水兵と同じく、日本のために戦うことを改めて誓う。
たとえ勝てなくても戦うことに意義はあるし、戦ってみなければ勝つか負けるかはわからない。

中国に媚を売る芸能人、政界、財界の人間のように、日本の歴史を否定してまでお金を得ようする腐りきった誇りを持たない人間には決してなるまい。



SLEEP様よりお便りをいただきました。(08.06.11)
日本海海戦
「日露戦争下の日本」という本がありまして、まあなんというかロシア帝国のダメダメぶりが良くわかる本なんですけども。捕虜になって日本に来たロシア人にとってロシアと日本というのは。
ロシアは無能と無知が支配してる、日本は農民でさえ文字が読める
ロシア人は18世紀人で日本人は20世紀人
皇帝ニコライ2世は善良だけど無能、動乱を生き抜いた天皇陛下とはえらい違い
自分たちも日本人のように祖国ロシアを心底愛したい、でもそれを許さない腐敗と無能の上層部
日本人のような盆栽や生け花のようなパリにもないような高度で繊細な文化がある、自分らはそんなことをまったく知らずに満州に来た
乃木や東郷のような真の英雄、真の武士道、真の紳士がロシアにはいない
いやほんとこれを読むと強大なロシアというのが実は砂の城みたいなものだったのが良くわかるんで読んでもらいたいです。
SLEEP様 毎度ありがとうございます。
日本海海戦は歴史に残る一方的勝利でした。その勝因、敗因については多くの方が書いておられます。
私も少しは読みましたが、人はみな一生懸命に生きているということを思えばロシアがだめだったというのもどうかと思います。
それにそんなに非力な兵を相手に戦ったというなら東郷率いる日本海軍を貶めることでもあります。
私はそんなふうに思います。
無名の剣士様からお便りをいただきました。(08.06.11)
海軍記念日
三笠乗組員の曾孫として、5月27日の海軍記念日は、自分の生き方を自問する日でもあります。
いずれ、自分の子を三笠に連れて行き、伝えていきます。
無名の剣士様、うらやましいと申し上げます。
私の父は若い時横須賀の海軍工廠で働いていました。いつも横須賀の風景を懐かしく語っていました。
父が亡くなってもう29年になります。
後悔は先に立たずといいますが、元気な時に連れて行ってやればよかったと悔やんでおります。



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