持続可能性 2003.05.23
持続可能性、最近良く聞く言葉です。
持続可能社会を目指す、いいですね〜、買いますその心意気!
もっとも多くの人はかっこよくサステナビリティといいます。
文字通り解釈すれば、いつまでも同じ状態を保つということでしょうか?
まあ、天国という言葉があっても少なくともそれを見た人がいないこと、永久機関という言葉があっても理論的に不可能というものもあり、持続可能性が存在するかどうか検証しなければなりません。

 私の結論を言えばそんなものは存在しないということです。
ですから持続可能性とは欺瞞です。持続可能性を語っている人はうそつきです。
火星じゃ なぜ存在しないのか?
だってエントロピ増大の理屈から言ってありえないでしょう?
まず、超長期的に見て地球自体が永遠に存在するなんてことありませんよ
それよりも前にまず、なぜ地球が今の形で存在するのか?を考えてみましょうや、
 地球はなぜ水の惑星でありえたのか?
 金星や火星にならなかったのか?

それはまったくの偶然で熱のイン・アウトのバランスがとれたという事に過ぎない。地球だけでは現在の地球の環境を維持できないのです。インプットとして太陽からの輻射熱、わずかではあるが地球内部の核分裂による熱、アウトプットとして宇宙への熱放射というバランスが取れたハーモニーによって現在の地球がある。
火星金星はこの平衡点が生物には不適なところにあったのは太陽からの距離と惑星のサイズそして惑星の元素の組成がそうだったからにすぎません。
このバランスは太陽の寿命によって崩れる。太陽が寿命を向かえるなんてはるか以前に放射エネルギーが数パーセント変われば破局です。
いやさら大きく言えば、宇宙全体が熱的死に向かって突き進んでいるに過ぎない。持続可能性というのは本来存在してないのである。

ところで持続可能ってどこまで、いつまでをいうのでしょうか?

そういったことを考えると環境保護とか持続可能性とかつましく生きようとかいうけなげな心、方向ではなく、開き直った論理展開があってもよいのではないか。
過去、持続可能であった文明はない。
それが文明のもつ側面なのか、そうでない文明が存在できるのか不明であるが、個人的には永続できる文明は存在できるはずがないと感じる。
だから我々がつましく生きたところでこの文明の寿命は限られており、環境配慮したときと何もしない時の違いがいかほどあるのか誰も知らない。

だが、文明は持続可能でなければならないのだろうか?あるいは人間は永続しなければならないのだろうか?
文明の寿命があることを前提に、この文明は西暦2200年まで存在することを前提とする!と言って何が悪いのだろうか?
もちろん、その期限を2050年としてもいい。
どちらにしてもそのときには私は間違いなくあの世行きだからね 
2050年まで現在あるいは現在以上の豊かな暮らし社会を継続し、そのとき以降はその時の人間に決定をゆだねて悪いのでしょうか?
あなたは究極の選択を迫られたら次のどちらを選択するか?
 (1)自分の世代が豊かに暮らせれば後世のことを考えない
 (2)後世のことを考えて自分の世代が貧しくとも良い

 (1)人類はいつかは滅亡するのだからそれ以降のことを考えなくともよい
 (2)人類が滅亡しても地球生物は往き続けるのだからそれを考えて暮らす。

 (1)人間が滅亡する時期を定めて資源を消費すべきだ。
 (2)人間は永続するはずだからそれを考慮して資源を活用する。
『この地球は先祖からの贈り物でなく、子孫から借りているのだ!』という言葉がある。いいですね〜、
これはアメリカインディアン(最近はネイティブ・アメリカンというそうですが)の言い伝えであるそうです。ヨーロッパ人が入植する前のアメリカインディアンはきわめて希薄な人口密度でした。そして大量消費文明でもなかった。だからある程度持続可能であり、そういう言葉が言えたのでしょう。
今現在の人がそういった言葉を使うのはかっこよくさえありません。単なる 欺瞞 です。


昔の人ならこんなフレーズをご存知でしょう。
「宗教に頼らずに永遠の生命を得るには宇宙に行かねばならない」
まさしく唯物史観ですなあ〜
あれから半世紀ですが人類には宇宙という切り札はまだというかなかなか手に入りそうありません。
であれば、人類が耐えられる限り賭け金を積み上げブラフを続けるか、賭け金が少ないうちに早いところ降りて貧しい暮らしに切り替えるしかありません。
いずれにしても非情で絶対のエントロピを相手にしたポーカーに勝てるはずはなく、最後の審判を逃れることはできません。
小手先の手段は無意味です。

江戸時代の人が現代に現れ、現在の生活スタイルがハチャメチャであると批判するエッセイとか小説があります。
電車に乗ることが罪悪だとか、海外から食料を持ってくることが間違っているとか、エネルギーの無駄使いを責めるなどといったたぐいのお話はたくさん書かれております。
読者にはそれを読んで、「ああ、私の暮らしは間違っている」と反省することを期待しているのでしょうか?
果たして異なる時代に生きている人が他の時代を批判することは許されるのでしょうか? 
いつも思っておりますが、社会制度、生活スタイル、食生活、習慣というものは人間を取り巻く環境との妥協によって定まってきているわけです。
個人主義というのは血のつながった家族の支援が受けられないから発祥したわけであり、肉食というのは肉があり、その他のものがないからそれを食っているわけです。熱帯でネクタイをするのは間違っているし、いくら民族衣装でも気候風土が異なるところでは無理というものです。
江戸時代の人間の視点に立って現在を批判するというオチャラケを私は許せないですね。
そういった作者は「今の生活を続けると永続できないよ!」と語っています。
そうです、そのとおり!
しかしね、だから江戸時代の生活に戻ろうというなら問題が、イエ論理に欠陥がありますよ。
  1. あなたは江戸時代の生活ができますか?
    江戸時代がいいと書いている方、あなたそんな昔でなくて50年前に戻って暮らす気がありますか?
    ちりめん問屋の隠居も歩きたくはなかったんじゃ ないならそんなデタラメ書いちゃいけません。
    そんな物語のひとつから
    江戸時代の先祖が現在に来て子孫と一緒に新幹線で東京から京都に行く。ところが途中の名物を食べたい、名所を見たいと駄々をこねてあっという間に京都に着く新幹線を風流でないダメなものと言って昔に帰るものがありました。
    当時の人が現れたら本当にそう思うでしょうか? マサカネ!そうは考えないでしょうね、
    私の曽父が東京に行く時、金がないから東北から東京まで歩いていったのは明治のこと、決して途中で名所旧跡を見たかったわけではありません。
    当時だって鉄道はありました。金がなかったのです。
    坂本竜馬は何度も何度も江戸・大阪を往復しています。はじめは千葉道場にいくために、後には日本を変えるために。初期にはもちろん歩くしかありませんが、偉くなると船に乗ることを選んでいます。誰しも歩きたくなんかないのです。
    もっと身近な話で、
    今の主婦であかぎれなんてある方はいらっしゃらんでしょう。私の母は毎年冬になると手はヒビあかぎれでそれはひどい思いをしておりました。ひびがきれるとセメダインのような接着剤を指につけていたものです。
    私自身、小学校時代、冬はしもやけがひどく足も指も耳もそりゃつらいものでした。友達にはしもやけで耳が崩れてしまった人もいます。今は栄養もよく、家庭内は暖房、通勤通学は防寒着もよくしもやけになるわけがありません。

  2. 江戸時代は持続可能社会だったのか?という疑問があります。
    現在が資源浪費社会であることに異存ありません。でも江戸時代が持続可能社会であるということには異存がおおありです。
    化学肥料を使う以前の有機農業が持続可能であると証明したものを私はみたことがありません。
    有機農業が持続可能ならばインダスもメソポタミアも持続したんじゃないの?
    ありゃ塩害のせいだよ!と語るなら、インダス・メソポタミア以外の永続した文明があるのでしょうか?
    あるいは林業が持続可能なものであると思いますか?日本の人工林はまだ何代も伐採を繰り返していないはずです。木材が土壌から吸い上げる元素(養分ではありません)がいかにして補充されるか、これを証明しなくては持続可能とはいえません。証明できるとも思えませんが?
    ジェームズミッチナーの『ハワイ』のなかでこんな話があります。
    ハワイのパイナップル農場であるとき急にパイナップルに病気がはやりだした。研究の結果なんと亜鉛の不足によることが分かる。そこで農場主は農場から取れる作物を分析し、そこに含まれる元素(肥料じゃないよ)を補給するという発想をもつに至る。
    さて、この農場は持続可能だと思いますか?いかがでしょうか?

    これは考え込んでしまうかもしれません。では近代的な例をもうひとつ
    農園工場とかいうのがありますね、農作物を工場で生産しようというものです。苗床に作物を植え、ベルトコンベアで運ばれるうちに成長し、収穫され出荷される。これは持続可能でしょうか?
    これなら考えるまでもなく明白です。持続可能ではありません。工場を維持するエネルギー、資源を供給するエネルギーがなければ農作物が土壌(あるいは水栽培の水)を維持できません。
    ハワイのパイナップル農場も同じです。農場のみならば一定状況を保ち続けるかもしれませんが、その影にはエントロピ増大があるのです。
    冒頭に上げた地球の平衡と同じでそれだけを見れば持続可能なようでも宇宙全体を見ればエントロピ増大は明らかです。
    じゃあ、有機農業は?
    私に証明はできませんが、土壌から採取される元素をすべて有機肥料が補充できるとは思えません。きわめて長期的(いえ、そんな長い期間ではなくせいぜい500年程度)で持続不可能・・・つまり作物が取れなくなるのではないでしょうか?
    日本には500年以上続いている農地があるよ!なんて言っちゃいけません。
    そこは前述のハワイの農園と同じくエントロピを農場外に捨てているのです。
    簡単に言えば農場からのインプットアウトプットを平衡状態にできるか否かということです。非常に低生産性の農場においては自然界からの供給される有機物で平衡がとれるかもしれません。しかし生産性をあげれば・・・・無理でしょう。
    ということは農業生産性をあげることは持続可能に反するのだ! 
    本当に持続可能な農業とは私は焼畑農業であると思っています。もちろん条件付です。
    その条件とは少数の人口が病気や飢餓などと生存競争をしてほそぼそと焼畑を行っている状況が持続可能な農業というのではないでしょうか?
    少なくともこの地球上では持続可能な社会というのが原始社会しか知られていないのは事実です。

    さあ、江戸時代は持続可能社会でしょうか?
    そんなことはないと思います。
    江戸時代に、より昔の人が現れたら、こんな忙しい社会にはいられないといわれたりして 
私は保守主義です。
ところで保守ってなんですか?もっともベーシックな定義は現状の肯定です。現状をありのまま認める。そしてこの現状をできるところから良くしていこうというのが保守です。
革新とは現状の否定です。現状は悪いのだ、と確信しているのでしょう 

現在の世界は、平成の日本は、あるべくしてあるのです。
この社会は取り巻く環境、日本人の気質、歴史、地理的要素などなどを踏まえて存在しているわけです。この現実を否定してもしかたありません。
私たちのできることは現在を良くしていくことだけです。

持続可能性なんてわけの分からないことを語っているのではなく、現実社会をいかに少しでも良くするかということを考えなくちゃいけません。
でも案外、その結論は持続可能性社会を作ろうとしている人が考えた結論と同じになるかもしれませんよ。
主義思想が異なってもそれを現実の行動に展開すると結果としては同じような気がします。
囲碁では棋風や指し手が異なっても最善手はただひとつしかありません。
持続可能社会の実現のために活動している人を批判する気はありません。ただ、私は持続可能とかサステナビリティなんて詐欺同然の言葉を口にしたくないですね、

私は悪人になっても嘘つきにはなりたくない。


ジジイであります
一体全体、本日のジジイは何を語っているのか?と訝れた方、
電車の中で江戸時代の人が現在に現れて現代文明を批判するのを読みましてね、ちょっと一言いいたくなったのであります。
手帳に書き綴っておりますうちに、昔は良かったのか?を思い出し、二番煎じにならないように持続可能に話をつなげているうちにこんなふうになってしまったというだけの話でございます。





かぼちゃ様からお便りを頂きました(06.05.15)
持続可能性について
こんにちは。持続可能性について話されているのを読んで少し違和感があったので投稿します。
始めに言っておきますが、私は保守主義も革新主義も胡散臭いと思っています。何故なら、現状肯定からより良くするという思考も欺瞞だからです。結局の所、革新主義とまったく変わりません。だからどうせ同じものなら、保守だの革新だの気にせず、そういう主張はしないことです。
また、持続可能性についての貴方の考え方も少し違和感があります。ロジックのズレもそうですが、読んだ限りでは、貴方の認識はやや古すぎますし、確証のない推測がちょっと多すぎます。この不足に対してまず違和感を持ちました。これは恐らく、貴方が電車で読んだ江戸時代の人が現代人に物申すことに対して感じたのと似たものかもしれません。
そもそも、「持続可能性」が永久に続くことを指すと考えている人がいるのでしょうか?。一般的な定義ではまったくその通りではありません。一度、じっくり勉強されることをお勧めします。
好き勝手申しましたが、これで失礼させて頂きます。もし嫌な気持ちにさせていたら申し訳ありません。また、提示は結構です。
かぼちゃ様 ご指導ありがとうございます。
まず私自身、浅学であるとよく自覚しておりますのでいやに気持ちになることはありません。
ただし意見交換するならまずお互いの定義をはっきりとさせないと話が合わないことは言うまでもありません。
持続可能性という言葉の定義ですが、諸説ありますがかぼちゃ様の意味するところはどんなものでしょうか?
「持続可能性」が永久に続くことを指すと考えている人がいるのでしょうか?とおっしゃっていらっしゃいますが、私が知る限り、100年間とか200年という意味で使われている事例は知りません。
もっとも期間限定の持続可能性というものがあるのか疑問ですが?
しかし永続しないことものを持続可能性というのなら、もはや語義とかの問題ではなく、支離滅裂でしょうか?
とはいうものの、ゼロエミッションというものが最終処分率1%以下というのが世の中の常識(大勢)ですから、持続可能性というのも自分が生きている間という意味なのかもしれません。
京都議定書云々、2010年の日本の炭酸ガス排出量(炭素排出量といってもいいです)とか、現実に論じられているのはおよそ持続可能性と遠いところにあるということに同意いただけますか?
そんなことを考えるとアメリカを非難することもできなさそうです。

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