春うらら 2004.04.18
えー、私と家内はけっこう仲良く休日には連れ添ってあちこち歩いております。
冬の間はあまり出歩きませんでしたし、せっかくの桜の時期には雨にたたられてしまいました。
本日朝、新聞を読んでいた家内が、『あらチューリップ祭りというのがあるわ』と言います。
はて、どこか?と見ますと、千葉の柏であります。そんな遠くもありません。
時は春、日は朝(あした)、天候は晴れ、では本日は柏方面に出撃!

電車を乗り継ぎ、バスに揺られていきました。
しかし、バスの中で愕然としたことがあります。
いえ、大事件ではないのですが・・・・
駅から公園までのバスが混んでいて、私たち夫婦がつり革につかまって立っておりますと、高校生と思われる(私服でした)女の子二人が立ち上がり、私たちに席を譲ってくれたのです。
おお!なんということでしょう。
なぜ、これに愕然としたかといいますとね、その理由には三点あるのですよ。
  • 第一に、私たち夫婦はもう年寄りに見えたのでしょうか?
    まだ若いのよ 私は還暦までにはまだ何年かあります。まして自分では若いつもりです。
    夫婦ともども背はまっすぐでしわひとつなく加齢の気配は微塵もなく(大幅に怪しい)
    過去半世紀、私は年配の方に席を譲ったことはあっても、席を譲られたことはありません。
    年配の方どころか小さなお子さん連れのお母さんがいれば真っ先に立ち上がっております。
    その赤ちゃんが将来私の年金を払ってくれるだろうなんて下心でしているわけじゃありません。 
    そんな私が席を譲られるとは!なんということ、神よ救いたまえ、

    彼女たちは私たちを年寄りではないと認識してはいても、彼女たちの父母より年配の人には席を譲るという習慣なのでしょうか?

  • 第二に、いまどき年寄りに席を譲るという若者がいたということ、
    半世紀前の名番組『シャボンダマホリディ』ならば、『人情、紙より薄い・・・・』というセリフが流れるところです。
    まだ青年じゃきに きっと彼女たちのご両親、教師が立派な教育をしていたのでしょう。
    私たち夫婦が、年老いてくたびれて見えたからでは、決してない!
    情けは人のためならずであります。ご親切なお二人に神のお恵みがありますように、
    ちなみに私が毎日乗り降りしている山手線では座るどころか押し合いへしあいの毎日で、謙譲の美徳を発揮することができません。

  • 第三に、この私がありがたく座ってしまったということです。
    そりゃ立っているより座ったほうが楽なのは事実です。でも家内はともかく、私は毎日満員電車に揺られているわけで電車・バスで立っているのには慣れていますし、そんなに疲れていたわけでもないのですが、

    若者が立つのは当たり前、代わりに座るのが年寄りの特権であるなんてお考えがミエミエの方もいますが、私は年少者であろうと譲られた席に座るのは恥ずかしいことと感じております。
    なぜ座ったのかを正直に言えば、せっかく立ち上がってくれたお二人のお気持ちに報いるためということでしょうか?
    そんなふうに考えるのは言い訳がましいでしょうか?


柏市あけぼの山
行った先の公園ではチューリップが満開、八重桜も満開、童心に返って、たこ焼きなどを食べ楽しんでまいりました。
彼女たちの行為が私の気分をよくしたのも事実です。


帰り道、それを思い返して反芻しいろいろ考えました。
結論として、若者に席を譲られたときに譲られた者が座るのは権利ではなく、義務なのではないかと思いました。
それは譲った方に対する礼儀でもあり、またモラルでもあるのではないかと・・・

車窓から沿線の八重桜の花を見ながらそんなことを考えておりますと、更に考えが発散していきます。
イラクで誘拐された人について、自己責任という言葉が飛び交っているのですが、
国が危険を広報しているにもかかわらず個人の意思で行ったならそれに関わる処理は自己責任だと言う方がいれば、他方自己責任とは政府の無責任で事件解決の費用を誘拐された被害者に請求することは違法だとか論じている方もいます。
本日のバスの席を譲られて座ったことからジジイは考えめぐらしたのですが、
「自己責任」とは「処置する責任」ではなく「処置する権利」なのではないでしょうか?
自分の始末を自分でするということは他人からとやかく言われてするものではないはず、
自分の始末は自分でする、できるからこそ遠いイラクまで自分の意思で人助けに行ったのでしょう?


ぜひおっしゃってください、
「言われなくとも分かっている」と


「自己責任」とは何か?
この語は日本の法令では定義されていない。広辞苑にもありません。
自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、人は自分の負うべき責任のみを負い、他人の責任まで負うことはないなどと書いてあるウェブサイトもあります。
でもこの語は近代法なんて高尚なものを持ち出すまでもなく過去より一般的に用いられております。
たとえば「リスキーな投資ですから自己責任でお願いします」という用法は普段見かけるところです。
ゆえに一般語として語義は確立しており、通常の意味で解することに問題ないように思います。


新撰組 近藤勇が捕まった後に「切腹させてくれ」と言ったことをどう考えますか?
切腹も斬首も死刑に変わりはないなんていっちゃ、あなた日本人ではありませんよ。
自分で始末するか、しないかという極めて大きな違いがあるわけです。




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