えー、私と家内はけっこう仲良く休日には連れ添ってあちこち歩いております。
冬の間はあまり出歩きませんでしたし、せっかくの桜の時期には雨にたたられてしまいました。
本日朝、新聞を読んでいた家内が、『あらチューリップ祭りというのがあるわ』と言います。
はて、どこか?と見ますと、千葉の柏であります。そんな遠くもありません。
時は春、日は朝
(あした)、天候は晴れ、では本日は柏方面に出撃!
電車を乗り継ぎ、バスに揺られていきました。
しかし、バスの中で愕然としたことがあります。
いえ、大事件ではないのですが・・・・
駅から公園までのバスが混んでいて、私たち夫婦がつり革につかまって立っておりますと、高校生と思われる
(私服でした)女の子二人が立ち上がり、私たちに席を譲ってくれたのです。
おお!なんということでしょう。
なぜ、これに愕然としたかといいますとね、その理由には三点あるのですよ。

行った先の公園ではチューリップが満開、八重桜も満開、童心に返って、たこ焼きなどを食べ楽しんでまいりました。
彼女たちの行為が私の気分をよくしたのも事実です。
帰り道、それを思い返して反芻しいろいろ考えました。
結論として、若者に席を譲られたときに譲られた者が座るのは
権利ではなく、義務なのではないかと思いました。
それは譲った方に対する礼儀でもあり、またモラルでもあるのではないかと・・・
車窓から沿線の八重桜の花を見ながらそんなことを考えておりますと、更に考えが発散していきます。
イラクで誘拐された人について、自己責任という言葉が飛び交っているのですが、
国が危険を広報しているにもかかわらず個人の意思で行ったならそれに関わる処理は自己責任だと言う方がいれば、他方自己責任とは政府の無責任で事件解決の費用を誘拐された被害者に請求することは違法だとか論じている方もいます。
本日のバスの席を譲られて座ったことからジジイは考えめぐらしたのですが、
「自己責任」とは「処置する責任」ではなく「処置する権利」なのではないでしょうか?
自分の始末を自分でするということは他人からとやかく言われてするものではないはず、
自分の始末は自分でする、できるからこそ遠いイラクまで自分の意思で人助けに行ったのでしょう?
ぜひおっしゃってください、
「言われなくとも分かっている」と
「自己責任」とは何か?
この語は日本の法令では定義されていない。広辞苑にもありません。
自己責任とは、本来、近代法の基本原則で、人は自分の負うべき責任のみを負い、他人の責任まで負うことはないなどと書いてあるウェブサイトもあります。
でもこの語は近代法なんて高尚なものを持ち出すまでもなく過去より一般的に用いられております。
たとえば「リスキーな投資ですから自己責任でお願いします」という用法は普段見かけるところです。
ゆえに一般語として語義は確立しており、通常の意味で解することに問題ないように思います。

近藤勇が捕まった後に「切腹させてくれ」と言ったことをどう考えますか?
切腹も斬首も死刑に変わりはないなんていっちゃ、あなた日本人ではありませんよ。
自分で始末するか、しないかという極めて大きな違いがあるわけです。
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