少年時代 2005.01.29
何十年も連載されているマンガに「こちら葛飾区亀有公園前派出所」通称「こち亀」がある。連載開始が1976年というから、私ども夫婦が結婚した直後から続いているという超長寿命国民的マンガである。
なお、当時は派出所とよばれていたが今では呼び名は交番と変わった。マンガのタイトルはそのままのようだ。
私の息子はこれの大ファンで単行本を全巻揃えている。ますます増え続けており置き場所に困る。
冗談抜きに大江健三郎の作品より多くの日本人に読まれ好かれていることは間違いなく、しかも内容的にも価値があると私は信じている。本来ならノーベル文学賞を秋本治がもらうべきだった。
せめて国民栄誉賞をあげたい!
ここに描かれているのは主人公である警官たちの現在の活躍もあるが、マンガのバックグラウンドは昔の東京下町の子供たちの暮らしが主である。当時その辺に住んでいた方なら「ああ!懐かしいなあ」と感じ入るのだろう。
しかし、私にとっては感情移入することはあまりない。
私の子供時代は田舎でもっと文化的に遅れていたというか、祭りとかいった行事はほとんどなかった。

山学校(やまがっこう)というのをご存じだろうか?
「山と学校」といっても森林の中で教育するとか、情操をはぐくむなんてのとはまったく関係ありません。
denguri.gif 私の子供の頃、学校給食というのはなかった。給食ができたのは小学校高学年になってからのこと。だから米のない家の子供は弁当を持ってくることができず、昼飯時には校庭で鉄棒などをしていた。私は弁当を食いながら窓越しに見て可哀想だと思った。私は銀しゃりではなかったが、麦飯の弁当を持って学校に行くことができた。
時々学校に行きたくないと子供が思うのは、時代が変わっても所が変わっても変わらない。そんなときはランドセルを背負ったままその辺の雑木林に行って、一人で遊んだり昼寝をしたりして弁当を食べて、学校が終わった頃をみはからって家に帰ったのである。それを山学校といった。
当時私が通っていた小学校は一学年六クラスから七クラスあり、ひとクラスが55人とか60人というのがふつうだった。小学校ひとつで2000人以上の児童がいたのである。学校の先生もひとりふたり欠けても気にしないというか気がつかないような時代である。
もちろん小学校は地区ごとにあるのではなく私の場合は4キロ近く歩いて通っていた。
なんでクラスを分けないんだとか、学校を増設しなかったのかという疑問をお持ちかもしれないが、当時は日本は貧乏でそれが当たり前だった。
最近学校に侵入者が入って事件を起こしたりして報道されるのを観ると、一学年に一クラスとか二クラスしかなく、しかも一クラス20数人というではないか?
少子化とか日本人口減少とはいうが、それほどに少人数になったことに驚く。
ところで山というのは必ずしも地形的に高くなっているところをいうのではない。私の子供時代、我々を取り巻く世界というのはまず雑木林があって、そのあい間に田んぼや畑があり、田んぼと畑の間が道というのがイメージであった。我々はその雑木林を山と呼んでいた。山はいたるところにあったというか、わずかばかりの田畑とその間にあった道以外はすべて山であった。
もう生まれた町を離れてから30数年になる。数年前にたまたま立ち寄ったところ、もう私が10歳の頃の面影はまったくなかった。道が広くなったとか建物が増えたという変化ではない。まったくパラダイムが変わってしまったという感じだ。
当時あった学校や病院は今でもあるのだが、その建物も正門の位置もまったく変わってしまい、全然見知らぬ町に来たとしか感じなかった。田んぼの中をくねくねとしていた道は田んぼと共に消えてしまい、過去のしがらみと関係ない片側2斜線の道路が縦横に走っている。そこには郷愁もなにもなかった。 tanu.JPG
雑木林にはりすがいた。いまではあのりすどもは全滅してしまったのだろうか?
ウサギもいたというが私は見たことはない。
たぬきはいたが日中見たことはない。夜餌をあさりにでてきた。
いたちは日中でも台所に出没していた。
今の子供がふつうの生活で見かける野生の動物といえば、はと、カラス、野良犬、野良猫程度なのだろう。

小学校では毎年秋になると全校一斉にイナゴ取りをした。
イナゴって今でも食べますか?batta.gif 当時、私の住んでいたところでは佃煮にして食べました。でも小学校のイナゴ取りは家庭用にしたとかいなごの取り方を教えたわけではありません。イナゴを取ってそれを売り、その金で学校の備品を揃えたのです。家で母親に手ぬぐいを二つに折って左右を縫ってもらい、これを持って行きます。朝から先生が引率して田んぼに出かけ、子供たちはこの袋の上を握り、取ったイナゴを入れるわけです。当時子供一人のノルマが650グラムでした。この目標はかなりきつかった。手の早い子供は1キロくらい軽く取るのですが、手の遅い子供はとても無理!しかたがないからかまきりを取ったり、小石を入れたりして重さを確保したものです。
集合場所には大きな釜でお湯を煮だたせており、子供たちは袋の重さを量ってもらってから袋を釜に入れるのです。
秤で測った重さが少ないと先生によっては成績を下げられました。
今、そんなことをしたら父兄会からどのような処置をされるかわかりませんね 
しかし、袋には学級と名前を書いておかねばならず、かまきりや小石が出てくると後でお目玉をいただくことになりました。
私の家内はイナゴ取りのほかに蕗(ふき)取りをしたという。とにかく金になるもので危険がなく子供にできるものなら地域によっていろいろしたのだろう。
金を稼ぐために

東北の田舎だったので冬は当然寒い。 daruma.gif 当時は鋳物のだるまストーブが唯一の暖房であり、毎日当番が決まっていた。当番になると朝早く行って石炭をいれ、たきぎを入れて、新聞紙を丸めて火をつけるのだが・・・これが非常に難しかった。
用意されている新聞紙とたきぎを使い尽くしても、石炭に火がつかないと悲劇である。登校してきた同級生から責められるのである。
隣の教室に頭を下げて火をもらってくるなどしてしのいだ。
家内とそんな話をしていたら家内の学校ではたきぎは学校が準備するのではなく、秋になると全校生徒で山にまき拾いに行ったという。二宮金次郎のように背中にたきぎを背負い何十人もの子供たちが歩いているのを想像したら笑ってしまった。
高校のときもだるまストーブだった。当然当番が火をつけるのだが、さすがに悪知恵がついてきて、たきぎで火がつかないときは木製の机や椅子を壊して燃やしてしまうのだった。
大体クラスに一つや二つ余分な机や椅子があったが、足りなくなると誰かの机がなくなっているなんてこともたまにはあった。
工業高校だったので鋳造という科目もあったのだが、鋳物で作ったのはだるまストーブであった。
懐かしい思い出である。
当時は16歳で軽免許がとれたので、学校まで車で通う高校生もいた。もちろん金持ちというわけではなく、農家の子が朝市場に農産物を運んでそのまま学校に来たのだった。学校側も「車で来るな」なんていうこともなかった。のどかな時代である。
当然バイク通学もいたが、バイクからガソリンを盗むのは非常に多かった。当時ガソリンは1リットル50円だった。物価から考えると今なら400円くらいの感じではないだろうか?(高卒初任給が2万以下のときだ)
バイクを満タンにして学校に来て、帰るときにからっぽで泣いていたのもいる。盗むほうもいたずらではなく、ガソリンを買う金がなかったのだから真剣である。
ガソリンを盗むにはゴムホースを入れて口で吸い上げて、液面をちょうどいいところまで吸い上げたら用意した容器にサット差し込みサイホンの原理で汲み出すのだ。
ときどき口の中まで吸い込んでのた打ち回っているのもいた。 
しかし万引きという犯罪はあまりなかったと思う。まず当時はスーパーマーケットという形態の店が田舎にはなかったから、清算する前に盗むという行為が成り立たなかったことが第一である。
まして田舎の店ではレコードとか本など金目のものはあまり置いていない。食料品やださい衣類では若者が万引きしようという気が起きなかったのだろう。

私の少年時代は、こち亀に載っているような生活空間でもなく、その生活様式も大幅に異なっていた。



本日の教訓

なんてなにもない!
ボケのはじまった男が、半世紀前を思い出しただけである。
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嫌中韓!様からお便りを頂きました(05.01.30)
少年時代
面白く拝見しました。今に成り振り返ると懐かしいものですね。イナゴ、タニシ、ナマズ、ドジョウ、コイ、良き蛋白源。
ナシ、クワの実、モモ、スイカ、トマト、乾燥リンゴ、良きビタミンC。
国旗は低学年生が持ち、上級生の号令の下、夏は茄子の葉で染色した洋服で、冬はガラスのボタンの洋服で、隣村の学校に通学。
夏は川で泳いでから帰宅(五右衛門風呂に下駄履いて入るのが面倒)、夜は肝試し、死人が出ると必ず声が掛かる。墓場一週。自分の名前を小屋に貼り付けて来る、恐怖ですね。
秋は稲刈り、サツマイモを食いながら一日仕事。夕方トンボ取りで友人と、走り回ってると、突然居なくなって、探したら糞尿だらけの友人が、糞貯めから顔を出している。笑い話の様な事も有りました。
冬は麦踏と、隣村の連中との喧嘩の様な戦争ゴッコ、要領が良かったので、いつも木の上から(左40度、6年生らしい)と叫んで居ました。
丁度、爆撃に向かう、アメリカの飛行機が飛ぶコースで、6月爆撃帰りの一機が残りの、焼夷弾を我が「村」に落として行き、村半分が焼けてしまいました。
再疎開、珍しい経験でした。不発弾の処理も、滅茶苦茶な話しで、経験者の方が焼夷弾を知ってるから「拾いに行け」と云うのですから、怖い話。
夏の暑い日、池で一泳ぎ帰宅すると、(戦争勝ったらしいで)(良かった)と一夜明ければ、(負けたらしい)何とも云えぬ一日でした。
嫌中韓!様 お便りありがとうございます。
お便りを拝読いたしますと、私よりはズット年長者なのですね。大変失礼いたしました。
私はジジイを自称しておりますが、戦後生まれですから焼夷弾も疎開も年長者から聞いた話の中だけのこと。
今後ともご指導よろしくお願いいたします。