見解の相違 2005.02.27
世の中にはさまざまな議論がある。それらの議論では第一義的にはもちろん表面に現れている論点・争点について論じているわけではあるが、実はそれは本当の問題ではなく、影に本当の論点・争点があるのが通常というかあたりまえなようだ。

南京虐殺があったという人々がいる。なかったという人々がいる。
quest.gif 真実はどちらかでしかない。もちろん数十万人ではなく数百人だったとか数十人であったという中間域はあるかもしれないが、いずれにしろあるかないかのふたつしかない。
悪魔の証明の理屈から言えば「あった」という論者が証拠を提示しなければならないのは言うまでもない。なかった論者は提示された証拠を受諾あるいは否定すれば良いだけのことだ。
しかし、この議論の争点は「あったか・なかったか」ということではなく、日本の過去(そして現在も)が悪であったか・なかったかというのが真の論点であって、あった派は証拠の提示よりも「日本人は悪い人間だから当然だ」という論理展開をしていくのでなかなか議論がかみ合わない。というかかみ合うことを避け、大声で叫ぶことを続けるという戦法を採用している。
本当は証拠の提示が不可能、もっといえばもともとそんな証拠がなく、更に言えば南京虐殺という事実がなかったということである可能性が大であるようだ。
いずれにしろ、この議論は議論している双方が「あった」と「なかった」であり、認識の相違ということになる。

大分前のことだが、教科書に「日本軍が中国に進出した」と書いてあるのは間違いだ! 書き換えさせたのは大問題だ! と叫んだいくつもの新聞社、テレビ局があった。事実は「進出」と修正させられた教科書はなかったというオチであったのだが、ここではそれについては言及しない。考え方について論じたい。
「進出」と書こうと「侵出」と書こうと「侵略」と書こうと、あるいは「治安維持」であろうと「平定」であろうとそれはひとつの事実を見て、それぞれの立場での見解の相違である。事実を捻じ曲げたのではない。
テッポウを持った兵隊が続々と汽車や船で行くのは誰が見ても同じ光景であろう。間違いなく60年前に日本兵は中国と呼ばれるようになる土地に行ったことは事実であり、中国兵が日本に来た事実はない。
当時、かの地あるいは国を中国と認識している人がいたとは思えない。誰もがそこを支那と呼んでいたし、またかの地に統一した政府・政体があったわけではない。
私のおじは酒を飲むといつも「支那には四億(しおく)の民がいる〜♪」と歌っていた。
私が小中学のとき今中国と呼ばれている国は「華人民和国」といい新聞でもテレビでも「中共」と略称していた。そして「中国」とは台湾である「華民」の略称として用いられていたにすぎない。
だから私は中華人民共和国を中国と呼ぶことに強い違和感がある。
そして日本兵あるいは日本の行動を「進出」か「侵出」か「侵略」のどれと考えるのは見解の相違であろう。
よく言われるオハナシにジョッキのビールが半分になったのを見て「ああもう半分しかない」と感じる人と「まだ半分ある」と感じる人もいる。
類似な例で未開なところで誰も靴を履いていないところに靴を売りに行ったセールスマンのひとりが「だめだ、ここでは誰も靴を履いていない」と本社に報告して、もうひとりは「ものすごい市場だ、誰も靴を履いていない」と報告した小話もある。
これも見解の相違に過ぎず、事実と異なることを語っているわけではない。
もっともその見解の相違というのは同じ人であっても時とケースによって千変万化する。「進出」反対を唱え「侵略」であると主張したマスメディアも、当事者である中国も中国のチベットへの軍事行動は「進出」であって、「侵出」あるいは「侵略」ではないようなのだ。これは見解の相違なのか、語義の問題なのか、事実を知らないためか、事実を隠そうとしているためなのかは私にはわからない、

北朝鮮経済制裁賛成あるいは反対という議論は、国会でもマスメディアでもネットの世界でもさかんである。
単なる賛否でなく「経済制裁という戦術を論じるな、戦略を考えよ!」とおっしゃる方もいて、そういったお方は「もっと話し合うことが必要だ」なんて締めくくるのが多い。
論点を拡大すると収拾がつかないので、とりあえずここでは経済制裁の賛否ではなく、議論の進め方について考えたい。
何か議論があると論点を拡大あるいは抽象化して雲をつかむような話に持っていく方がいる。私は諸君より一段上にいるのだという意味かもしれない。
たとえばの話であるが、「愛とはなんだ?」なんて議論でいろいろな意見が発言された後に、「本当の愛とはそんなものではない」なんておっしゃるお方がいる。
「本当の愛とはそんなものではない」と言われると、そうかなあと黙してしまう方が多いのではないだろうか?「じゃあ、本当の愛ってものを説明しろよ」と切り返せる方は多くはない。
愛だけではない、会社の投資計画なんかで「目先の損益だけでなく、長期的なメリットを考えろ」なんてのたまう方が必ずいるものである。そう言われるとちょっと反論できない。心優しいお方は「ああ!おれはなんて小さな考えだったのか」なんて心の中で反省したりする。
でもおかしいよね、そんなときは「あなたのおっしゃる長期的なメリットとはどういった指標で測りどう評価するのですか?」と聞き返すことが必要ですよね。
発言者自身確固たる考えがないかもしれないし、一言言いたかっただけかもしれません。 
先ほどの言い回しに戻ると「あなたの言う戦略とはどういったもので、どのような戦術を推奨するのですか?」と問い返したい。
本当を言えば戦略を論じる前に、まず政治、政策があるのではないか。戦争とは政治の延長(クラウゼビッツ)なのであって、戦略だって目的ではない。
我々は拉致された同胞を決して見殺しにはしない! 今日本人は北朝鮮に拉致され行方も生死も不明となっている多数の人々の消息を知りたい、救出しなければならないと念じており、これに応えるのが政治なのである。
その国民の要求を実現するために政策があり、その実現のために戦略を考えるのである。
経済制裁とは戦略でなくより階層の低い戦術であると論じるならば(そうであることを否定はしませんよ)拉致解決の戦略と戦術を示すべきではないか。
これは論法の相違なのかもしれない。
誤解ないように私の考えを申し上げておく
100人の拉致被害者を日本のために犠牲にするという発言をする人を私は絶対に許さない。100人を救えない国家が1億の国民を救えるはずがない。
かって辻元元議員は「5人や10人拉致されても問題じゃない」と叫んだ。
5人や10人の国民を救えない政治家が日本を救えるのか?
彼女は政治家になるべきではなかったのだ。
実際には5人10人ではなく100人以上もいたということはとりあえず置いておく
日本に今後一層多くの外国人観光客を誘致しようとしている業界もあるし、愛知万博を成功させるためにも来日して欲しいと願っている自治体も人々もいる。
trip.gifとまれ、今外国人犯罪が増加している。それは外国人犯罪の多くは、不法入国あるいは合法入国した中国人や韓国人によるものが大多数を占めるという統計データから明らかである。また私個人は日常の暮らしでそういった治安の悪化を実感している。
もうひとつの事実として今現在、中国人や韓国人にビザ免除をするということが既定の事実となってしまった。
このみっつの事実をあわせて考えた時に、「日本に来る外国人が増えると外国人犯罪が増える怖れがある」と考える人がいても当然だろうし、「外国人に多く来てもらうにはいろいろ規制をはずすべきだ」と考えている人もいて当然だろう。
この場合は価値観が入る。
犯罪のマイナスよりも所得増加のプラスが多ければノービザ採用派だろうし、外国人が来てもなんのメリットもなく犯罪が増えて困ると考えればフォリナーノータンキュー派となる。
価値観の相違であれば十分議論は成り立つと思うし、国民総体としての利益を最大化することを目指してお互いに協力もできるはずだと思う。もちろん入国管理や国内治安維持体制の見直しも含めよう。

NHKの幹部のところに取材に行った朝日新聞の記者が聞いた言葉と、NHK幹部の話した言葉は異なるそうだ。
人間は聞きたいことしか聞こえないし、見たいものしか見えないようにできている。昔のポリネシアの人々はタブーを破るとその恐れから死んでしまったという話を聞いたことがある。人間の信じる力というのは強大であり、回復すると確信すれば病気に負けることはないだろう。
取材した新聞記者が政治家から圧力を受けたに違いないと信じていれば「受けていません」というのが「受けました」と聞こえ、政治家に会ったと信じていると「会ってない」というのが「会いました」と聞こえたに違いない。
これは認知の違いかもしれない。



本日のまとめ

さまざまな議論を見ているとガチンコ勝負、公明正大な議論というのはほとんどなく、はじめから結論ありき、思い込み、議論ではなく自己主張が大多数ではないかということが結論である。



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落葉様よりお便りを頂きました。(05.02.28)
見解の相違についてちょっとだけ
相変わらずの鋭い論述、感嘆しながらも一気に通読させていただきました。
ほとんど全てのご説に熱く賛同しましたが、冒頭の部分だけチョッピリですが、疑問を感じました。まあどうでもいいことなんですけどね。
もちろん数十万人ではなく数百人だったとか数十人であったという中間域はあるかもしれないが、いずれにしろあるかないかのふたつしかない。
虐殺があったか、なかったかの二つに一つしかない。
中間域はあるかもしれないが・・・とのご説でした。
私の知る限り、虐殺皆無派は発見できませんでした。
どんな戦争においても虐殺はあるのが当然と、私も信じていますから南京戦においても皆無だったとは思えませんので私も極めた小規模ながら虐殺はあったものと推定している派といえます。
しかし30万人虐殺派は、中間域の存在も認めないようです。
従って私のおおまかな分類によれば30万人虐殺派とそれ以外派と二つに一つということになるのです。
想像にしか過ぎませんが、私の憶測では恐らく数十人単位、それも民間人に偽装した中国兵の処分でしかなかったかとおもっており、どう考えても万人単位での民間人虐殺などありえようはずなしと断定したく思っています。
となると、何がなんでも30万人が虐殺されたと強調する派、それから数万人は虐殺されているかも知れないと論ずる派、それから私のように極めて小数、それも偶発的事態から虐殺されたケースも認めるという派との三つに仕分けされるように思え、皆無派はいないのではないのでしょうか。
この点以外に異論は全くございません。
落葉様、わざわざお便りありがとうございます。
まあ、言葉のあや程度でございます。
それと虐殺の定義ですが、まあ、これもやめておきましょう。