朝日社説の精神分析 2005.07.19
90%の本音と10%のお世辞

私が師と仰ぐ方はたくさんいらっしゃる。
そのひとりKABU先生が最近書かれた朝日新聞社説批評を読んだ。
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/
その論理は明晰、切れ味は「三匹の侍」級である。たとえが伝わるか心配だが、背中がゾットするような感じである。
東北の田舎の学もない私が、このような学者とお知り合いになったことがふしぎでしかなく、まさに神が与えてくれた僥倖であると感じている。
しかし、学問を積んだ方のみがこのような批評を書けるのか?という問を考えると、そうではなさそうである。私のような無学なものであってもやはりおかしいものはおかしい、論理が間違っているのは間違っていると感じる(考えるのではない)のである。ここではそのような無学なものが考えた社説批判を書く。
KABU先生の論理に囚われることなく、私の心に浮かんだ雑念を書き綴ったものである。

敵の敵は味方か?
この世の中、だれもが同志とか同じ考えということはない。複数の人間からなる社会、それは兄弟であっても、家庭であっても、学級であっても、職場であっても、もちろん国会でも日本という社会でも良いが、さまざまな考えがあり、一致団結するより意見が相違することが普遍的なことである。
これは私が言い出したことではなく、最初の人間であるアダムとイブから始まる超普遍的なことなのである。

なお、旧約によれば殺人さえも歴史上四番目の人間から始まる、これまた普遍的な出来事なのだ。 

さて、この世にはさまざまな論があり、それは二元的なものではない。AさんとBさんの意見が合わず、BさんとCさんの意見が合わないとき、AさんとCさんが同じ考えかなんてことは子供にも分かる。この世の意見は多種多様であり、価値観も多様である。
今、体制「甲」に反対の思想「乙」があったとしよう。
この体制「甲」がある勢力「丙」に攻撃を受けている時に、「乙」が「丙」を支援するのは正しい選択か否かという問いを考えたとしよう。
みなさんにはバレバレであるが、アメリカとその支配下にあるイラクにおける自爆テロあるいは無差別テロ、並びにイギリスで起きた同時多発テロに対するアサヒの論調というのはまさに「乙」の論理なのである。

それは決して、乙なものではない。 

仮に、今後、テロ勢力「丙」が支配力を増し、あるいはついにこの世界を支配したとき、「乙」はいかなる利益を得ることができるのだろうか?
まさか「丙」が「乙」に感謝するとでも期待しているわけはなかろう・・・・あるいは期待しているのだろうか?
謎である。

もし、朝日がテロの敵は自分ではないと信じているならば、それはご都合主義あるいは妄信、盲信、盲目としか言いようがない。
私は盲目の人に道案内を頼むつもりはない。
人と馬と狼の話というのを聞いたことがあるだろうか?
昔、人と馬がおおかみに襲われて難儀をしていた。人と馬は協力しておおかみに対抗することにした。人は馬に乗り、おおかみを討伐することができた。
uma.gif 馬は言った「もう狼退治はすんだので、私から降りてください」
それを聞いて人は笑った「これからもずっと馬に乗るよ」
もし、朝日新聞がおおかみ退治をするために馬になろうとしているなら、それは危険な道でありましょう。 
過去に、アサヒは何度も馬になり中国や北朝鮮を乗せて活躍してきた。アメリカが、日本政府が、自由主義体制が狼だったのだろう。
まあ、いずれにしても馬は人にはなれず、その上に乗った近隣諸国も降りることはなかった。
そして、今も乗り続けているようだ。
朝日は未成年なのだろうか?
自分は大人になりたくない、自分は一人前の責任を負いたくないと穴に顔を突っ込んでいる少年なのだろうか?
自分が大人になりたくなくても、責任を負いたくなくても社会は容赦しない。
国際社会においてわが国は非武装中立です、局外中立ですと言ったところで、現在社会はそのような論理は通用しない。
まして、非国家武力勢力であるテロ組織にとって従来の国際法は無力と言うか意味を持たない。
朝日の論理はここでもその無力、無意味を暴露する。
せめて、と私は言いたい。
自分の考えで日本を、日本国民を巻き添えにしないでくれと

考えても見たまえ!
中東でイスラエルとパレスチナは終わることのない戦いをしている。
jibakutero.jpg
最年少の自爆テロリスト
イスラエルはたとえはねっかえりがいたとしても一応ちゃんとして体制、仕組みをもつ国家であるに対し、パレスチナ側は想像の共同体でさえない。ひとりがひとつの国家あるいは武力勢力ではないか。
アラファトは君臨すれど統治せず、ただお金を貯めていたようだ。
朝日の論理ではパレスチナの交渉は決してまとまらないだろう。
もちろん、1万キロ以上はなれた日本列島で講釈を語ることは、自爆テロの危険もメルカバ戦車の砲弾が飛んでくる危険もない。
でもそのような講釈は、現実世界の前ではまったくといって意味を持たない。

ニューヨークのテロ、イラクのテロ、ロンドンのテロならまだ日本人も日本に住んでいる外国人も自分の身に危険はない。朝日がいかなる論理を論じても、日本人をたぶらかすことはできよう。
しかし東京でテロが起きたとき、そのような論理は・・・通らないだろう。
あるいは、通してしまうのか?、通そうとするのだろうか?

しかし間違いないことがある。
テロ勢力が体制となったとき、朝日は今までのように反権力、反体制を語ることは決して・・できないだろう。
それだけは確かである。
そう考えると社説の論理はシロアリに食われた木造家屋のように瓦解するのである。


本日のまとめ

中東のテロを東京で語るな、
中東で語れ
イギリスのテロを東京で語るな、
ロンドンで語れ




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