食い物のうらみ 2005.08.21
私が過去よりここに書いていることにウソはいっさいない。
いったんうそを書くと、その罪をつぐなって信頼を取り戻すことは非常に困難である。某新聞社が新しい歴史教科書に反対しているのは、その新聞社が以前捏造報道したことが書いてあるからという説もある。

KY

実際「新しい歴史教科書」には「サンゴにKYと傷つけて報道した新聞社がある」という記述が写真入りで載っている。
一寸の虫にも五分の魂という。ここまではっきりと書かれれば、志が虫けら並みの新聞社でも反撃する気にもなろう。といってもおのれが過ちをしたのは明らかで、進退窮まっているのであろうか。
そういえば、その新聞社のNHKに関する捏造報道はその後どうなったのであろう? 捏造だと言われたその新聞社は「裁判に訴えても」と語ったが、いまだに告訴したとは聞いていない。人々の関心が薄れるのを待つ戦法なのであろうか?

サンゴにKY事件は平成元年(1989年)、あれから既に17年経つが人々の記憶は薄れない。NHK捏造報道事件の記憶も薄れるにもかなり時間がかかるだろう。

話を戻す。
私が生まれたのは終戦直後、食うものもない時代である。
食い物だけではなく、まともな住まいもない。私が生まれたのは病院とか産婦人科などではなく、引揚者のために急造された長屋の一角で、産婆さんが取り上げてくれたという。生まれたのは冬で、雪が部屋にちらついてきて赤ん坊であった私がかわいそうであったと、後に母は私に語った。
ここに家族六人で住んでいた。


6畳間


便

Z


台所といっても水道はない。水は共同の水道からくんでくるのである。
玄関が広すぎるなんて言ってはいけない。当時自転車は財産であったから盗まれないように玄関に入れたのである。
もちろん私は生まれた家の記憶はない。そこは一部屋しかなかったという。長屋の屋根は何であったか?
瓦などではもちろんなく、トタンでもスレートでもなかった。杉の皮であった。杉の木を厚さ1センチくらいにそいで瓦くらいの大きさに四角く裁断して、屋根に並べ釘で止めたのである。ふつうの季節は杉の皮でも雨露を防ぐ用をたしたが長雨や雪になると杉の皮が水を含んで天井の下まで水がたれてきた。
壁は柱と柱の間を竹で編んで、そこに土に藁を入れて練ったのを塗りつけたいわゆる荒壁である。当然であるが、荒壁の表面に漆喰を塗るわけはない。荒壁だけでも建設時はきれいであるが、数年経たずして雨露で壁はぼろぼろとなった。柱と荒壁の間に数センチの隙間ができるなんてことも珍しくなく、当然そこから雪も舞い込んでこようというものである。
私はそんな家で産まれて、そこに半年くらいいた。やがてオヤジが幸運にも、やはり引揚者用の長屋ではあったが少しましな長屋を見つけて引っ越した。そこも杉の皮の屋根であったが、部屋は6畳と4畳半があり、2畳くらいの広さの台所があった。その後、私が小学生になる前に、長屋の大家は屋根をトタンにふきかえた。雨漏りの心配がなくなってとてもうれしかった。
その長屋にはもちろん電気がきていたが、我が家にあった電気器具といえば照明の40Wの電球が数個あったのみである。明かりを消すことを電気を消すというが、まさしく電気とは照明のことであった。
当時、すなわち昭和30年頃であるが、電気洗濯機、冷蔵庫、扇風機、換気扇、掃除機、電気釜、電気コタツ、トースターなどいっさいなく、とにかく電化製品はなんにもなかった。
テレビなんてもちろんない。ラジオでさえ三十戸くらい住んでいた長屋に2・3台しかなかった。当時の田舎ではラジオとは買うものではなく電気屋に製作を依頼するものであった。電気屋は注文を受けると真空管をいくつ使うかを聞き・・・それによって値段が違った・・・希望の仕様のラジオを作ってくれた。ラジオ屋という呼び名はここから始まり現在に至るのである。ふつうは3球スーパーだったようだ。もちろん故障したときは電気屋が直してくれた。あの頃、家具であろうと自転車であろうと、ラジオであろうと、壊れたら捨てるという発想はなかったと思う。

本日は食べ物に限ろう。
我々はいつもひもじい思いをしていたのは事実である。
いつかも書いたが、干し柿を作るには皮をむき身をつるしておくわけだが、むいた皮を軒に干しておき干し柿が食べられる前に渋が抜けて甘くなった皮を食べた。お菓子も果物もない時代である。
柿泥棒というのを知っているだろうか? いまどき、田舎でも柿泥棒なんていない。どこの庭先でも柿は食べられることなくカラスが突付くくらいで腐れて落ちてしまう。当時、柿は貴重品である。渋柿であろうと甘柿であろうととにかくゲットするのである。
トマトは野菜ではなく果物である。それも高価な果物であった 我々が口にできる甘いものといえば、木イチゴとかアケビといった山で採れる果物であった。グミは渋が強くすっぱくあまり子供には好かれなかった。
りんご、イチゴ、ぶどう、なし、桃といったまっとうな果物は盗むかおよばれしたときに食べるしろものである。
小学校の夏休み、おやつにトマトを食べた記憶があるが、ものすごいご馳走だった。今ならメロンを食べたくらいの感じだ。

友達がグスベリを食べているのを見て、食べたいなあと思った。当時、塩漬けしたグスベリを駄菓子屋で売っていた。新聞紙を20センチ角くらいに切り円錐にまるめた中にグスベリを入れてくれた。それが10円だったのか20円だったか記憶にない。いずれにしても私たちにとっては大金であった。
友達が食べるとき地面に落としたグスベリの実を拾って大事に家に持ってきたことがある。いくらなんでも地面に落ちたものを食べる気にはならなかった。母がそれに気付いてその後一度グスベリを買ってくれた。すっぱくてあまりおいしくはなかった。
私たちが現金収入を得ようとすると、金屑を拾って釜屋に売るとかどこかの店のお手伝いをして駄賃をもらうかしかない。家の仕事を手伝っても家に金がないのだからムダである。 
道路に落ちている金屑を一日拾い集めて50円くらいだったような気がする。もちろん当時の50円は大金である。今の500円くらいの価値はあったと思う。
近所で味噌を作るのを見てうらやましいと思った。当時は味噌は店で買うものではなく、豆を買ってきて煮て作ったのである。といっても素人が味噌を作れるわけはなく、専門業者がなべなどの道具を持ってきて家の前で作るのである。
我が家は味噌など作る余裕はなく・・・
いくら貧乏でも雑炊など食べぬ、食べぬはずだよ味噌がない〜♪
というざれ歌をご存じでしょうか?
小学生の遠足のときの楽しみは玉子焼きであった。昔も今も卵1個の値段は同じで、当時はひとりで卵一個食べるなどということは贅沢のきわみであった。
「巨人・大鵬・玉子焼き」という表現がある。今はともかく、私が中学の頃、子供に人気であったということだ。
チョコレートもめったに食べられないごちそうだった。遠足というとほとんどの親はチョコレートを買ってくれた。そしてチョコレートなどめったに食べたことがない子供たちはこれを食べて鼻血をだした。なぜ、チョコレートを食べると鼻血が出たのか? そして今の子供は鼻血がでないのか? 理由をご存じの方はぜひ教えて欲しい。

こんなチョコレートを食べることで豊かさを感じたものです
チョコレートの思い出がある。私が就職した頃、不二家メロディといって一枚ものでない粒粒に分かれたチョコレートがあった。私はときどきそれを買ったが、チョコレートを買って食べられるようになったという満足感を味わったものだ。
このチョコレートのよいところは粒が切り分かれており、少しずつ食べることも、何人かで分け合うこともできたことである。それまでの板チョコでは分けて食べるとか少しずつということがむずかしかったから、

小学校、中学校の仲間で我々よりは少し金持ちの子供たちもいた。親が官公庁とか学校の先生とかすこし大きな会社に勤めている子供たちである。そういった子供たちが学校でバナナを食べたとかびわを食べたという話を聞くのが辛かった。

住まいがいくらボロでも記憶は薄れてしまう。それにいくら立派な家でも50年経てばガタがきて建て直しするだろう。だから家が立派だとか粗末であったということは、あまり記憶には残らないと思う。しかし食べ物の記憶は決して薄れないような気がする。
食い物の恨みとよく言われるが、その気持ちよく分かる。

そんな生い立ちであるので、私は子供たちに立派なレストランなどに連れて行ったことがない。自分の体験にないのだからそういったところで食べようという発想がでてこない。せいぜいがファミレスに連れて行ったくらいだ。
社会人となった娘や息子はフォークとナイフの使い方くらい分かるのであろうか?
いささか心配である。 



今の日本は我々がやっとの思いで築いてきたのである。
中国や韓国が難癖をつけてきても恵んでやることはありません。

やっと余裕ができたのよ 今の暮らしが当たり前なんて思っていたら、カン違いですよ




けい姫様からお便りを頂きました(05.08.21)
佐為さまへ
こんにちは、けいです。
独り言の「食い物の恨み」を読んで、ものすごく自分が恥ずかしくなっています。
物心ついたときには、家には何でもあり、正直、「お腹がすいた」という経験をしたことがありません。
欲しいものは何でも買ってもらい、やりたい事は何でもさせてもらい、散々、甘やかされて育ちました。
けいだけでなく、皆そうだと思います。
何でも与えてもらって、当然だったので、口をついて出るのは不満ばかりです。本当に、情けないです。
佐為さま、私達が「当然」だと思っているこの「日本の豊かさ」は、先人の犠牲なしには成り立っていないのですね。
戦後60年、もっともっと、日本の先輩達が何をしてきたか私達は、知るべきです。佐為さま、これからも、どんどん書いてくださいね。

けい姫様
毎度お引き立ていただきありがとうございます。
私は心底思っておりますが、貧しいことが恥でないと同様に、豊かであることは恥ではありません。
また親が貧しく自分が豊かであることを負い目に感じることはありません。
私たちの世代は今の人たちに比べれば極端に貧しかったのは事実です。でもそれが良いとか悪いとかの尺度ではかれるはずがありません。
私たちは自分たちももっと豊かになろう、子供たちにはもっと良い暮らしをさせようとして努力したのであって、その結果、あなたをはじめ私の子供たちも豊かな暮らしができるようになりました。それこそ、私たちの世代の願いがかなったということにほかなりません。
あなたの世代が豊かであることで、私たちの世代は幸せと感じることができるのです。
私は食い物の恨みと書きましたが、それは個人や世代を恨んでいるのではないのです。
子供のとき食べられなかったけれど、今は自由に食べられるという事実、そして食べられなくて悲しい思いをする人がいなくなったことは良いことであるというだけです。
タイトルはまあ適当にみつくろったというにすぎません。 

小僧様からお便りを頂きました(05.08.22)
食い物の恨み
初めてお便り差し上げます。
食い物の恨み、しかと肝に銘じました。

小僧様、まじめに考えてはいけません。
けい姫様にも申し上げたように、みなさんの時代が豊かであることはすばらしいことです。
なにも貧しさを知れとか、体験せよなどという理不尽なことを申し上げているのではありません。
中国に貢げ、韓国に賠償を払えなどと語るバカどもがたくさんいます。
私たちが豊かになったのは、彼らからかすめとったとか、ずるいことをしたのではないということを言いたい。
自助努力といいますが、天は自ら助けるものを助けるということが当たり前で普遍的ということに過ぎません。
私はまじめが嫌いです。 

アサガオ様からお便りを頂きました(05.08.24)
チョコレートについて
チョコレートを食べると鼻血が出た理由・・・
チョコレートを食べると鼻血が出るというのは、当時チョコレートが高級品だったために、食べ過ぎないようにと考えた母親の嘘だという話を聞いたことがあります。
それでも鼻血が出ていたということは、珍しく食べたチョコレートに興奮した・・・というのはどうでしょう。
今の人達はチョコレートで興奮することはほとんどないとおもうので。
(自分が考えた鼻血が出る理由です)
アサガオ様、お便りありがとうございます。
鼻血がでたのは本当です。なにを隠そうこの私もそうでした。
プラシーボ効果であったという可能性もありますが・・・気分だけでなく、鼻血まででるものでしょうか?
やはり・・・疑問は解消しません。



大国主命様からお便りを頂きました(05.10.07)
どうも、管理人さん。大国主命であります。
銅の話は、父親からかなり聞かされております。
たしか、銅線のきれっぱしとか工場で金型加工ででた屑で川とか道に捨ててあった時代だったから、いくらでも取れたといってました。軒下に当時で500円分集めて隠しておいたのを、朝鮮人がトラックに積んで持ち去っていった、と聞いてもおります。(昭和30年ごろ)
当時はどのうちも小遣いはもらえなかったので、山で栗拾いをし、一俵ほどとって、町のアブラ屋で100円もらい、野球の球を買って、野球をしていたそうです(グローブなしですよ)天津栗が入ってきて売れなくなると、どのうちも栗拾いをやめ、酷い場合は栗の木を伐採して床の間の木材にしたそうです。(あまりいいものではないですよ)
父親が小学生の時は、我が家はタバコ農家でした。いつも人糞に種を植えつけていたので、指が「カレー臭」していたそうです。タバコは労力を要するので、近所の人間総出でやったので、手間賃でかなり吹き飛び、結局乳牛を飼うことにしたそうです。昭和29年当時で4万円の収入になったそうですが、大豆粕が高いために、採算性を取るために規模拡大→えさ代も値上がり→損失が大きい(当時で100万円)と悪循環に陥ったそうです。家の差押も受けたそうです。
私が生まれる前か、母親と結婚するまでは肉といえば、死んだ牛を解体してもらってでた筋をミソにつけて冷蔵庫に保管し、ウジがわいたところで焼いて食べていたそうです。(父親は足りない時はマムシを何匹も殺して日干しにしてから焼いて食っていました。私が高校時代まで、よく蛇の干物を食べさせられました。香ばしいことは香ばしいのですが、たまにウジがわいていてかんだ時に歯からこぼれてきたこともあったんですよ。ちなみに、蛇の皮は皮膚のかぶれによく効きます。小さい時かぶれやすかったので、冬場冬眠中の蛇を父親が掘り起こして絞めたあと、皮をはいでボイラーで干していました。)
自分の話としては、狂牛病さわぎのとき、一日二食で睡眠時間3時間で頑張ったものです。食事は豆腐屋ででた失敗作の豆腐やガンモ、油揚げ、従業員専用の豆乳をもらって生活しておりました。いまだにNHKや消費者団体が許せません。(このときからNHKを不払いしております)
いまでこそ、こうやって時間の空いたとき、ネットに自由に繋げますが、当時の苦労は忘れないようにしております。今もそんなに楽な生活はしておりませんがね。

大国主命様、お話をお聞きしますと、私の体験など苦労のうちに入らないことがよくわかりました。
本当に恵まれている人と、恵まれない人というのはあるんですね。
内部告発したというNHKのチーフプロジューサーの年収はいくらだったのでしょう?少なくとも私の倍はあったのでしょうねえ〜
消費者団体!
 そりゃいろいろ種類はあるでしょうが、ヤーサンまがいのものもあり・・・
この世は不条理であります。 
絶望した人がサヨクに走るのも判るような気がしますが、ところがサヨク団体もプロ市民も下からのあがりで食っているという救いようのない現実
やはりここは独立独歩、ダニエルブーンの心意気で生きていくしかありません。


大国主命様からお便りを頂きました(06.09.16)
どうも、管理人さん。大国主命です。
最近めっきり訪問が減ってしまい、失礼しました。
今日は、いつもの国を憂う話ではなく、親父の昔話を披露します。
昨日、知り合いの酒屋から、栗を使った和菓子をいただきました。
地元では、高級品で、一箱5000円するそうです。
うちの親父は、甘いものに目がなく、早速むしゃぶりついていました。
と、いつものように、昔話を話し始めました。
「そういえば、昔栗を拾って、町まで売りに出たな。毎日栗一升の相場が違っていた。
特に、大人が持ってきたときと、子供が持ってきたときの差があったりしてな。
一升1000円のときは、子供250円だった。それ以外は、大抵、子供料金100円だった。
よく栗に虫がたかっていたりしてな、そういうのは『虫ぺっぺ』っていって、減点だった。
そういうのは『キャッシュバック』されてくるんだよな。で、これを集めて、水につけておくと、蛆があわてて出てくるんだよな。これを指ですり潰したあと、栗笛つくったな。おまいらの時代は、楽器とか安く売っていて、本当に恵まれているんだぞ。」
まあ、ざっとこんな話でした。管理人さんも、そういった時代があったのではないでしょうか?
どうでもいいかもしれないプチ情報ですが、父親の時は、ウールの制服(当時で2万円)つくるための小遣いかせぎでしたが、母親の場合は生活費でした。
(母親の実家のじいさまは、シベリアで肺炎にかかっていたので、キノコや山菜、栗を拾って生計を立てていたそうです。)
かなりやり繰りの厳しい時代だったようですが、今のご時勢よりはマシな時代のような感じに聞こえたりするのは、やはり心を喪失した時代だからでしょうか?
なんて、考えたりした一日でした。

大国主命様 いつもご訪問ありがとうございます。
私の地方では栗は少なかったので栗の実を取って売ったという経験はありません。しかしゆりの球根を取って市場に持っていったことはあります。大人の値段、子供の値段があったのか?思い出がありません。
いずれにしても命の父上とか私たちの年代の体験など、駅前でしゃがんでタバコをふかしているニーチャン、ネーチャンには想像もできないでしょう。
きっと羨ましがるのではないでしょうか?
だって、私たちの方がいきがいがあり、家族に貢献していると自負していましたから。
お父上がこれからもお元気でありますように

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