システムの脆弱、スタンドアロンの不便 2005.09.04
通勤の電車から窓の外をながめていたら、今までしもた屋で埋まっていた町並みの一角が更地になっているのに気づいてアレと思った。一日か二日できれいに取り壊したのだろう。残された土地は平らで穴ぼこもない。

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まあ、どこでもいつでも見かける光景である。
しかし、アレと思ったのは理由がある。取り壊したあとの地面の色が一様であったからだ。
田舎でも汲み取り便所というのはさすがになくなったが、水洗は市街地のみでほとんどは浄化槽である。だから壊した後には浄化槽を取り除いた穴が残るか、あるいはそれを埋めた部分の土地の色が違う。都会では水洗便所だから、木造家屋を壊しても穴もなにも残らないのだろう。
都会では水道、ガス、下水、電気、電話線、光ケーブルなどインフラが整備されているので、家を建てるとき特段付属物はいらず、インフラにつなぐとすぐに生活できる。
スバラシイことだ。

もしこういったインフラがなければ、家を建てるとき独自に設けなければならない。
水道の代わりに井戸を掘る、都市ガスの代わりにプロパンのボンベを置く、下水の代わりに浄化槽をつける、電気がなければガス冷蔵庫とか自家発電が必要となる。最近は燃料電池という手もある。いずれにしても石油タンクを置かなくてはならない。電話やインターネットになるとどうするのだろうか?
個々にインフラを整えるということは大変なことである。

EKH

これはたとえ話ではない。オーストラリアの僻地では現在でもそういう暮らしである。

昔はどうだったのだろう?
とまあ、そんなわけで快適な生活というのはほんのわずかな歴史しかないのである。
しかし、と続けるのである。
このように社会インフラが整備され、そこで生活することは快適なのであるが、非常に脆弱であることを忘れてはいけない。
昔の暮らしと今の暮らしを、パソコンにたとえればスタンドアロンで使うか、ネットワークにつないであるかの違いである。ネットワークにつながっているパソコンは何をするにも快適だが、ウイルスには注意しないといけないし、悪意であろうと過失であろうと情報漏えいは起きる。ネットワークが切れると情報がとれなくなってしまう。
厳密に言えばすべてのアプリをサーバーに置くという、ネットワークコンピューターなのだろう。
暮らしの話に戻ると、汲み取り便所、井戸、電気も電話もないという暮らしであれば、大地震が起きてライフラインが止まってもなんら困らないで暮らしていける。というか、もともと生活インフラがないのだから何も変らない。汲み取り便所は使える。はじめから電気が来ていないのだから、ろうそくとかランプの暮らしが変わるわけではない。ご飯を炊くにはその辺から木を探してくればよい。電話などないのだからなくても困らない。

一方現代の家に住んでいれば、水道が止まれば即座にトイレが使えなくなってしまう。
電気がとまると雨戸も動かない。ガスも電気もなければ炊事もできない。高層マンションにお住まいの方は上り下りを考えただけでうんざりするだろう。
そういったことは生活に限らない。遊びも同じである。
 
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昔、シベリアに連れて行かれた日本兵は紙切れでトランプ、木切れでマージャン牌を作って遊んだという。人間の工夫の才は仕事でも遊びでもすごいと思う。
他方、現代のゲーム機で遊んでいる人が無人島に流れ着いたら、いったいどのようなゲームを作ることができるのだろうか?
小石で遊ぼうとしても碁ができる人は少ないだろう。

ネットワーク社会においてもスタンドアロンで暮らしていける最低限の備えはしておかなくてはならない。特に大地震やテロが予想される現代、まして大都会では十分な備えが必要だ。
アメリカの台風の被害を見ていっそうその意を強くした。
何事にも備えが大事である。

しっかりしなくてはね

天は自ら助けるものを助けるという。
諸外国の善意に期待して、平和を維持しようという発想は楽天的というより能天気というべきだろう。




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