生きること・死ぬこと 2007.01.21

私は出張が多く、電車や飛行機に乗るのが仕事のようなものである。年末年始の1・2週間は、あまり出張はなかったが、また平常状態に戻った。
今は新幹線や飛行機の路線もダイヤも便利になったおかげで、札幌も広島も福岡も日帰りが普通である。東京を朝出て9時半から大阪で会議なんてのもあるのだ。便利にはなったが、その反面体力的には厳しくはなった。

phone.gif さて、数日出張が続いて夜遅く自宅に帰ってきたら、それを見計らったように姉から電話があった。
姉とは三年前に娘の結婚式であったきりである。姉と弟といっても住むところが離れているので、会う機会は結婚式とか葬式くらいしかない。私が常日頃、全国を歩いているとはいえ、分刻みのスケジュールであるから親戚の家に立ち寄ろうなんてことは不可能である。
めったに会わない姉からなので、なにか起きたのだろと予感したのだが、まさしくそのとおりであった。
姉は電話口の向こうで低い声でいとこの訃報を知らせた。
私は、わかった、お葬式には田舎に帰って参列すると応えて電話を切った。

いとこと呼んでいては話が面倒なので、亡くなった方を以降Aさんと呼ぼう。
母の父すなわち私の祖父は、奥さん(つまり私の祖母になる)が相次いで亡くなったので3度結婚して母の兄弟姉妹は9人いた。一方、父の兄弟姉妹は7人いた。父の兄弟の二人は戦死したが、その他はみな結婚して子供が4人から6人いた。だから、数えたこともないが私のいとこは70人くらいいたに違いない。私の父も母も兄弟の中では下のほうだったので、いとこのほとんど私より20歳くらい上だ。だからいとこはたくさんいたものの、私がものごころつく頃にはみな既に成人しており、いとこと遊んだという記憶はない。
みな高齢となった現在、順繰りに鬼籍に入りつつあるというのもやむをえない。といってもいとこのほとんどは、顔と名前を知っているという程度なので、あまり親しくもなく訃報を聞いて悲しいとかショックを受けるということはなかった。

亡くなったAさんはいとこの中では一番年が若く、といっても私とは15歳も離れているのだが、姉妹だけで兄弟のいない私にとっては兄のような人だった。
Aさんとは最後に会ったのはいつだろうか? もう10年以上になるに違いない。別にけんかしたわけでもなく性格があわないわけでもなかったが、大人になると付き合いというのはそんなものなのだろう。
お互い、仕事が違うから話題があうとか相談するということもなく、住んでいるところも遠く離れており、お正月やお祭りにちょっと行って酒を飲むというわけにもいかない。年賀状をやり取りする程度で、直接会う機会といえば結婚式とか葬式くらいなのだ。今は少子化なのか結婚しない人が増えているせいか、最近は親戚の葬式も結婚式も少ない。
そんなこんなで会う機会もなく、お互いがどんどんと歳をとり、私もまもなく還暦、Aさんも70を越えてしまった。

私はAさんのことなど考えたこともなく日々過ごしていたのを少し恥じた。Aさんにはいろいろとお世話になった。私がこどもの頃、本当の田舎から少し離れた田舎町に連れて行ってもらったり、boy.gif釣りに連れて行ってもらったり、我が家が貧乏だったのでお金を持たずに祭りに行っても面白くなかったが、Aさんに連れて行ってもらって金魚すくいとかさせてもらった記憶がある。
大人になって働けば親戚の子供をそんなところに連れて行ってやる程度の小銭を持っていたからと言えばそれまでだろうが、当時の私にとってはとてもうれしかった。
私が結婚するときも結納などいろいろとお世話になった。
そんな恩があるのだが、本当になにも恩を返すことをせずにしまったなあと反省をした。
しかしと思った。
なにも常日頃会うとか、お礼を形で返さないとならないということはないのではないか。
確かに私はAさんにはめったにというかここ最近は会っていなかったが、決してAさんを無視したり、恩を忘れたわけでもない。私はAさんの感化を受けて今あるのであり、Aさんの教えが私を裏打ちしていると思う。そんなふうに考えることは私の自己弁護とか自分に都合よい考えではないと思う。

話は変わる。
私と父親は仲が悪かった。といってもけんかばかりしていたわけでもない。思想とか価値観が全然違って絶縁したわけでもない。ただ、私が父親と付き合う方法を知らなかった、見つけなかったというだけではなかろうか?
私が父が生きているうちに父親と心を通わせておけばよかったかというと、そうともいえないと思う。
私の父親は死ぬ前、脳梗塞で意識もなく回復の見込みもなく何ヶ月もの間入院していた。平日は母と家内が交代で病院で付き添いし、休日は私が父親の病室ですごした。
誤解を恐れずに言えば、私が病室にいたときが父親と心を最大に通わした時期だったと思う。もちろん父親は何も知らずに昏睡していたわけだが、私はそのそばで、生まれてからそのときまでの父親と自分の関わりを反芻していた。黙示録を読むというとご理解いただけるだろうか。父親の意識があろうがなかろうが、私は毎週休日は朝から晩まで父親と私の関係をいろいろと考え続けた。父親も頑固で口下手であったが、私も頑固でお互いに意味のないことで片意地を張っていたなと思い返し苦笑いをした。お互いに不器用だったのだろう。
父が死んでもう30年近い。父と私の関係について、今では私に悔いはない。父とは十分に対話したと考えている。
なぜか、若いとき読んだペーター・カーメンチントの親子の関係が思い浮かんだ。

話はまた飛ぶ。
私を教えてくれた先輩諸氏はたくさんいる。昔の職場で教えてくれた方は80過ぎた今も健在だ。たぶん私より先にそう永くないいつかは逝くだろう。健在なうちに一度でも会っておくべきだろうか? と考えると、会わなくても良いのではないかと考える。 私が冷たい人間なのかもしれないが、会ってどうするのか?
昔、大変お世話になりましたといえばよいのか? 一緒に酒を飲み交わせばよいのか?
でも、今私があり、わたしを教え、今の私を作ったのはあの人のおかげだと思うことが最大の感謝であり重要なことではないかと思う。
そして叶うなら、私もまた後輩へ少しでも何かを伝え残せたら私の生まれてきた甲斐があったということだと考える。
少なくとも私は年老いたとき、年配になった後輩が来て「佐為さん懐かしいなあ」と言われることを望んではいない。

人はみな死ぬ。しかし生まれてきたからには何かを残したい、この社会になにかを付け加えたいと思う。
スポーツの記録を残したり、発明したり、芸術作品を残すなんてことが凡人にかなうはずがない。
しかし誰かの心に影響を与えることができたなら、それは生まれてきた甲斐があると思う。
そして、物理的に会うことでなく、心が通うなんてあいまい不可解なことでもなく、他の人からあの人ならどうするだろうか? あの人に倣ってこうしようと思われたらそれは冥利に尽きるのではないか。


弔文

この拙文を、Aさんに捧ぐ
あなたの教えに感謝いたします。



こんなことを書くと、Aさん苦笑いしているかもしれない。
いとこの次は、姉か、そして次は私だななどとと思いながら今日もまた旅をするのである。



あらま様からお便りを頂きました(07.01.23)
佐為さま あらまです
佐為さまの名文「生きること・死ぬこと」を読ませていただき、志賀直哉の小説『和解』を思い出しました。
子供の頃の小生にとりましては、父親という存在は、絶対的でありました。まちがっても マイホームパパ ではありませんでした。
そんな小生の父親も脳梗塞で倒れて、約3年ほどの介護生活の後他界して 10年以上経ちました。
介護期間中は、それに忙殺され、父と和解したという実感がなくて別れてしまった感じです。
ところで、この世の中には「困った親」がたくさんいるようです。
ですから、子供というのは、そんな不完全な親と戦って、和解して成長するものかもしれません。
だとすれば、小生がいまだ和解できていないということは、まだ親離れしていないということかもしれません。

あらま様 名文などと言ってはいけません。おばQジジイ、舞い上がってしまうではないですか。
私のオヤジも絶対的で暴力的でした。だから私は嫌いでした。でも歳をとるとなんかオヤジの気持ちが分かるようになってきましたね。要するに口で上手くいえないから手が出てしまうというだけなんでしょう。
もちろん、根性から曲がっていたら救いがありません。
私のこどもたちが我が家が好きでたむろしているということは、私の育て方が間違っていたのかもしれません。
 反省!
タイガージョー様からお便りを頂きました(07.01.23)
拝啓佐為様
佐為様のいとこのAさんの死は大変残念でありました。突然の訃報にさぞお力を落としのことと思います。佐井様がお世話になった先人達を見送るようにAさんの前にも多くの先人達が見送られたと思います。これからも多くの人の死があり、やがては佐為様や私の世代の番も来るでしょう。佐為様の独り言を読んで、先人達のためにも、我々が先人達から多くのおしえを学び、それを後世に伝えていくという使命感を持たなくてはいけないと思いました。
そう考えると全ての先人達の生きることや死ぬことはその後に続く者へ達のおしえであり、いいつたえであります。そのおしえをどう解釈し、どう活用するのか?それこそが生物の持つテーマでありましょうか。
 タイガージョー拝

タイガージョー様 いつもお便りありがとうございます。
誰でも必ず死ぬという絶対に間違いないことを理解しない人を子供というのでしょう。
だからこそ、生きている間、真面目に世のため人のために何かを残したいと願います。
後は野となれ山となれなんて考えては尊敬されるはずがありません。
立派な人を作るのが教師であろうと思うのですが、最近は公立校の先生は教育労働者というそうであります。
彼らが言うには「塾は受験勉強しか教えない」と言いながら「先生は躾をするのではない」といい、「いじめ調査には協力するな」といい・・・まあ、尊敬されたくないようです。
ところで、私が死んだら何が残るのでしょうか?
タイガージョー様 せめて、線香の1本くらい上げて頂戴な

VEM様からお便りを頂きました(07.01.24)
お悔やみ申し上げます
大事にしていただいていたいとこのAさんの訃報の記事を拝読いたしました。お悔やみ申し上げます。
日常では連絡が途絶えがちでも、本当は返さなくてはいけない恩がたくさんある人々にどのように気持ちを伝えるか?とても難しい問題と思います。ITが情報の革命であるからには、解決法が潜んでいるような気もしています。
VEM

VEM様 ありがとうございます。
あまりまわりに気を使うとそれこそしがらみといいまして苦しくなってしまいます。
何事も中庸、行き過ぎず、足りなさ過ぎず・・・
人生勇気が必要でございます。


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