議論可能性2001.10.30
議論可能性とは聞きなれない言葉です。実は今、私が作りました。
私、ISO9000(アイエスオー九千と言います)に関わっております。ISO9000では監査可能性(auditability)という言葉があります。監査あるいは審査できる要件を満たしているかどうかを表す言葉です。監査可能性がなければ監査するまでもない、あるいは監査できないということになります。試験を受けさせてもらえないわけです。

日本のメディア、世論、もちろん国会において議論可能性のない状況での議論(かみ合わない発言)が多いのでないかという仮説提案です。
例えば、今日本が某国にODA(経済援助)をしているとします。このところ日本経済も少し調子が悪いし、某国も我々は世界の大国であるとでかいことを言っている。さらには日本からもらったお金を更に別の国に経済援助をして恩を売っているとします。(似たような事実があってもそれは全くの偶然です)
ここでどのような意見があるか仮定してみますと、、、 はい、ここでもう議論可能性を勉強できます。A氏、B氏は同じ考え方、同じ価値観で現状認識、あるいは予測が異なるだけですから議論ができますし、数値の調整などの協議もできます。
しかしA氏とC氏は考え方が基本的に違いますからもはや議論は成り立たないのです。あるのはブラフと恫喝の交渉であり、結果は交渉力の勝負です。

今、話題のテロ支援是非は基本的には議論可能性がない二つの勢力の怒鳴りあいであると私は思います。
一方は9月のテロは国際社会のルールに反する重大な犯罪である。故に裁かなくてはならないとするものです。
他方はアメリカは悪だと考えていますから、アメリカに対して行われたテロは基本的に善だと見ているのです。テロは善ですから日本がその制裁に荷担するのはまずいのです。
もちろん表面的にそういったらまずいので、「日本人を危険なところに派遣するな!」と叫んだり、あるいは「暴力に暴力では問題は解決しない」と宗教的な論議に引きずり込んでいるのです。
仮に、ペキンでテロが行われたら今テロ制裁支援に批判的な政党は一転してテロ支援を叫ぶことを断言します。なぜなら、中国を師と仰ぐ人々にとって、中国に対する攻撃はその弟子である日本に対する攻撃であると考えることは全く自然なことですから。
あるいは経済混乱を何とか立て直さなくちゃならんと思う人と、これは革命の機会だと思う人は議論可能性はありません。見解の相違というものじゃありません。

アメリカの民主党と共和党は政権が変わっても体制はもちろん変わりません。でも国内的には大きく変わります。中絶を認めるのか否か、大きな政府あるいは小さな政府、税の分配、これらは議論可能性があり、だからこそ連邦議会で議論する意義があるのです。
日本の国会で防衛、外交を議論してもそれは形上のことで、元々議論可能性がないのですから議論しても生産性は悪く、議論の結果良いアウトプットが得られるはずはないのです。
生産性と聞くとこれまた耳慣れないかも知れませんが、単にアウトプットをインプット(人×時間)で割って効果的かどうかということです。

ではどうすればよいのでしょうか?
あたりまえのことですが議論するには議論のルールを知らなくてはなりません。野球とソフトボールは似ていても盗塁からなにからルールが違います。ルールを知らなくちゃ試合できません。
国会であろうと、個人的なことであろうと議論するに当たり議論のルールを知りましょう。(ここではディベートではありません)
簡単なことです。議論のアウトプットを双方で確認し一致を見なくてはなりません。アウトプットの同意を得たら相互に自分の集めた証拠とそれから導き出される方策、それによるメリットを説明するだけです。
議論可能性があればこれはできます。一つ問題なのは感情ですがそれは指導者として乗り越えなくてはなりません。
おっと、はなから「断固拒否する」なんて言っている方は「私は議論する能力がない」というのと同義です。議論する能力のない人は、街頭演説には向いても国会論戦には向かないでしょう。もしそういう方がいれば国会議員を辞めてもらいましょう。だって議論ができない議員て自己矛盾だもんね。

解決はあるのかしら??でも現実に全く価値観の異なる政党があるわけでこの対処法はあるのでしょうか?
私はわかりません。とりあえず、ここでは議論可能性という考え方と、議論可能性がなければ議論が成り立たないという仮説提示で終わります。


独り言の目次にもどる