草戸千軒

常福寺

じょうふくじ

 かつて草戸千軒が存在し、現在は芦田川と中州となっている場所を見下ろすように、朱塗りの堂塔が並んでいます。これが明王院(みょうおういん)、かつては常福寺と呼ばれた寺院です。

明王院五重塔 明王院本堂

 常福寺は、大同2年(807)に弘法大師空海によって開かれた寺と伝えられていますが、詳細は明らかではありません。しかし、草戸千軒町遺跡では、中世の遺構の下に9世紀末から10世紀初頭にかけて(平安時代前半)の土器・陶器が出土する土層が確認されています。平安時代前半にどのような施設が存在していたのかは明らかにできませんでしたが、中世の町「草戸千軒」は、この平安時代の跡を整地することによって建設されています。平安時代前半の陶器の中には、緑釉陶器(りょくゆうとうき)という、緑色の釉薬をかけたものが含まれています。緑釉陶器は、当時は寺院や役所、あるいは朝廷が関係した祭祀遺跡(安全祈願などのお祭りをした跡)などの出土例が多く、この周辺が何らかの政治的・宗教的な施設として利用されていたことが考えられます。

 一方で、明王院本堂に本尊として伝わる十一面観音立像(重要文化財)は、その様式から10世紀前半でも早い時期のものと考えられることから、少なくとも10世紀前半の段階には、寺院として成立していた可能性があります。10世紀の早い段階に存在していたはずの寺院と、その全面の政治的・宗教的施設との関係はわかりませんが、全く無関係で成立したものではないでしょう。平安時代の施設は、その後利用されなくなったようで、11世紀から13世紀前半の遺物は、遺跡からはほとんど出土していません。ですから、草戸千軒の町に直接つながっていくような集落ではなかったようです。しかし、平安時代に存在した施設の性格を明らかにすることは、草戸千軒の町の成立の事情を明らかにするための手がかりになるに違いありません。

 さて、現存している本堂(写真左)五重塔(写真右)はいずれも国宝で、本堂が元応3年(1321)、五重塔が貞和4年(1348)に建造されたものです。これらが建てられた14世紀前半から中葉にかけては、草戸千軒の町が大きく拡大する時期に相当します。五重塔の伏鉢(ふせばち・ふくはつ:塔の最上層の屋根の上に載る相輪下部にある鉢を伏せたような形の青銅製品)には、沙門頼秀とうい人物が一文勧進の小資を募って塔を建立したと記されていることから、すぐ前にある草戸千軒の町の経済力が、塔の建立に関与していたことが予想されます。

 明徳2年(1391)に書き改められた『西大寺諸国末寺帳』には、「クサイツ草出 常福寺」という記載があり、鎌倉時代に活発な布教活動を行った西大寺流律宗との関係が確認できます。

 その後、江戸時代初期、福山藩主水野氏によって福山城下の明王院住職がここに入ることになり、明王院と呼ばれるようになりました。


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1996-1998, Yasuyuki Suzuki & Hiroshima Prefectural Museum of History, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.