草戸千軒

長和荘

ながわのしょう

 現在の、福山市瀬戸町一帯に存在した皇室領の中世荘園。草戸千軒の集落も長和荘の一角に位置していた可能性が高く、草戸千軒を理解する上で欠かすことのできない荘園です。
 長和荘が成立した時期や事情については明らかになっていませんが、永治元年(1141)に藤原惟方が、鳥羽上皇の皇后であった美福門院が建立した歓喜光院に寄進したという記録が残っています(嘉元4年(1306)6月12日の昭慶門院御領目録)。また、安元2年(1176)2月日付の八条院所領目録にその名が見えることから、八条院(鳥羽上皇・美福門院の皇女)に伝領されたことがわかります。
 領家は安居院悲田院(あぐいひでんいん:奈良時代の貧窮者・孤児の救済施設である悲田院に由来し、鎌倉時代前期頃までに再興されていた。京都における律宗の中心であった泉涌寺によって統括されていたと考えられる)。地頭職は、備後守護である長井氏の一族が保有しており、一族の中には長和五郎と名のった人物も確認できます。
 文永10年(1273)の長井泰重の請文(田総文書)によると、長井泰茂によって地頭識が和与によって二分されでいます。東方地頭識が甥の田総重広に与えられ、西方地頭識は泰重の手元に留まったものと考えられます。また年号のはっきりしない記録ですが、長和荘領家地頭所務和与状は、領家である悲田院と東西両地頭との間で結ばれたもので、領家と地頭との間で支配権が分割されている状況が示されています。注目されるのは、「山河海邊」については地頭が管理すると記されている点です。長和荘の領域に河や海が含まれていたことと同時に、荘園経済において河・海での生産活動が重要な位置を占めていたことが示唆されており、草戸千軒がその領域内に含まれていた可能性が考えられるのです。
 しかし、草戸千軒と長和荘とを直接結びつける資料は明らかではなく、具体的な関係の解明は今後の課題として残されています。


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1996-1998, Yasuyuki Suzuki, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.