草戸千軒

備陽六郡志

びようろくぐんし

 江戸時代中頃(元文〜安永年間、18世紀中葉から後半)、福山藩士・宮原直ゆき(みやはらなおゆき)によってまとめられた地誌です。その中の「草戸村」の項に、「草戸千軒」に関する記述があります。
 この場所に町が存在していたことを記す最も古い史料で、『西備名区』や『福山志料』などその後まとめられた地誌も、この記述をもとにしていると思われます。
 『備陽六郡志』の記述は次のようなものです。


「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、木庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有りけるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築きては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれども、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし。」



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1998, Yasuyuki Suzuki & Hiroshima Prefectural Museum of History, Fukuyama, Japan.
Last updated: June 10, 1998.