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「ドラゴンヘッドの解釈」

2003年11月10日  

 

 異動で東京に来て、2ヶ月程前から池尻大橋というところに住んでいる。ちょうど国道246号線、首都高速の高架沿いだ。引っ越しが落ち着いて、散歩がてら歩いていたとき、映画化された望月峯太郎の「ドラゴンヘッド」で出てくる廃虚になった東京の姿が頭をよぎった。いけすかないところだなと。

 実は「ドラゴンヘッド」はちゃんと読んだことも観たこともないんだが、言わんとすることはわかる気がする。映画化される際に望月峯太郎は「単なるパニック映画のように受け取られるのが嫌だ」ということを漏らしていたそうだ。観ても読んでもいないが、その周辺をいろいろ見ているとおそらく「普段の生活の中で人間が覆い隠しているものを明らかにして、それを直視した上で、先に進むために前を向こう」という意図で描かれたものではないかと思う。その意図を伝えるためにたまたま「極限の世界」の中で描くという表現方法をとったに過ぎないのではないかと思う。大学の時「人間が作り上げた虚構と人間との関係」を考えていたが、望月峯太郎は一度すべての虚構をぶっ壊して、人間そのものを洗い出そうとしたようにも見える。

 表現方法は違ってもJ.デリダなどと立っている位 置は近いのではないかとも感じた。2年前の9月11日の事件が起こったとき彼は「この事件に政治的に無実な人間がいるとは思えない」と語った。それは「テロを行った人間を育てたのは一体誰なのか」という現実を覆い隠すことへの警笛だったように思う。そこに目を向けようとせずに、真の解決はあり得ない、どうやって先に進もうと言うのかということだと思う。

 スガシカオは「アシンメトリー」の中で「きっと僕らの明日なんて、始まりも終わりもなく」、「闇でも光でもなく、そこに僕と君がいるだけで」と唄う。GRAPEVINEの田中和将は「ふれていたい」の中で「エブリデイのブルーズ、消えていかねえぞ」「ふれていよう、すべてを抱いてゴー」と唄う。彼等の感覚も非常に近いと思う。自分の立っている「ここ」にあるものをすべて受け入れた上で、さあどうやって進もうかという発想かなと。誰かが唄っている「ここではないどこかへ」ではなくて、「ここ」をすべて引き受けた上でどうやって進もうかということかなと。

 自分も日々生きている中で、ダメなところも過去もすべてひっくるめてある「ここ」を認め、受け入れた上で、その「すべてを抱いてゴー」というつもりでいる。目を逸らしてしまうことも全くないとは言えないが、働き、生きていく中でそこが一番大事なのではないかと感じている。働いている中で上司、同僚、後輩からも学び、教えられたと思っている。その姿勢をなくして、自分の将来もないのではないかと日々感じている。

 


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