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級論文テーマ(というよりはこれから書こうと思っていること)

1998年1月8日 

『(いまだに)幻想について』

 これまでゼミで扱った文献を通して幻想ということをやぶれかぶれながらも考えてきた。というよりは文献をろくに消化もできずに幻想という言葉の幻想の中から抜け出せなかったというほうが正確かも知れない。

 そんななかで考え続けたのは人間の実感というのはすべてなんらかのフィルターをくぐった幻想であり、人間はその幻想の中でのみ生きているということである。自ら作り出した幻想によって人間は周囲との距離をコントロールし、その幻想に拘束もされる。幻想は社会、文化などによってそれぞれ異なり、また人間は日常レベルでは幻想を幻想とは認識せず、実在したものとして捉えるから、違う幻想を持った者同士で様々なずれや衝突を起こす。

 自分自身も含めて人間がどんな幻想を持ち、どれだけその幻想に縛られているのかを考えてみることにもそれなりの意味があると考えている。今回の進級論文ではこれまでの文献の中の指摘から考えられる幻想ということだけでなく、幻想というひとつの見方の限界について自分なりの答えを出してみたい。

 これまでの文献の中にも幻想ということについて共通の認識がいくつか見られた。フロイトの「自我」、フロムの「疎外」、マルクスの「貨幣」などには幻想を実在したものと考える人間に対する問題意識があったように思える。

 ただルーマンの言う「意味の縮減」の先にある幻想にはその幻想を作り出した人間の世界からくる意味が含まれている。果 たして世界観をともなったこの意味までも実在と呼べないひとつの幻想と言うだけで片づけられるのだろうか。様々な幻想の中に意味がどのように縮減されるのか、またどのように「複雑性を維持」しながら自分の世界の「意味の縮減」を行うべきなのかということに考える方向をシフトさせる必要があるかも知れない。


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