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1996年度秋学期開講 異文化間コミュニケーション論レポートより)

異文化理解と私

5217 生島卓也

 私にとって異文化理解を語ることはそれほど簡単ではない。なぜなら、私は異文化について自分の言葉で語るほどいろんな世界を見てはいないし、日本の中、自分の周りの卑近な世界についてでさえもそれほど多くのことを知っているわけではない。  

 それでも、異文化理解について私見を述べるとすれば、私も含めて日本人というのは比較的異文化理解に疎い存在なのではないかということである。もちろん、他のヨーロッパ世界などに生きる人間にしても異文化を「理解」してきたかどうかはわからないが、少なくとも民族の移動などで自分達と違う考え方を持つ人間達との接触を数多く経験している。日本人は歴史的に見て「個」を中心とした狭い生活空間(文化の単位 と言えるのではないか)、日本においては「島」というものがあてはまると考えるが、ほとんどその「島」の中だけで暮らし、他の民族などの接触をあまり経験していないのである。もっともその世界の中だけで生活することができるのであれば、異文化理解という言葉すら生まれないし、語る必要もないだろう。実際狭い世界でぬ くぬくと育ってきた私は今まで生きてきた中で異文化理解という言葉を身近に感じたことがほとんどない。しかし、現在の日本を見たときに食料自給率を見ればわかるように、とても自分達の世界だけで生きていくことができるとは思えない。自分達が生きていくためにはどのように異なる文化を持つと思われる人々と接するかということを考えざるを得ないのである。  

 異文化理解を考えるには、まず異文化とは何なのかを考える必要があるかもしれない。異なる文化の存在を認めるということは逆に言えば自分がひとつの文化に属することを認めるということである。しかし、このひとつの文化に属しているということも簡単に言えることではない。文化という言葉自体が多くの人間の習慣や伝統を一括りにしようとするところから生まれたもので、その言葉をさす実体があるわけでない。日本文化という言葉も国民国家の成立と共にその考え方の枠の中で作られた虚構であり、欺瞞性を持っている。坂口安吾(1942)が言うように「およそ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならない」ことがしばしばあるのである。実際には日本の中でも地域によって様々な習慣や伝統が存在している。私は特定の集団の中に見られる一つの共通 項のみを文化と呼べるのではないかと考えているが、それを捉えることができるのは集団を外から見たときであり、そもそも中で生活する人間に集団を外から見る必要は必ずしもない。異文化を定義する以上に自分達の文化を定義することは難しいのである。   

 文化の定義の難しさはあるものの、だからといって自分達と違う考え方を持つ人間が「異文化」と呼ばれる地域に住む人の中により多く存在しているということまでは否定できないであろう。やはり人間が集団で様々な「生活単位 」を持ちその中で生活していることを考えると、様々な人間の考え方もその「生活単位 」と無縁ではないと考えられるのである。  

 そして、日本を一つの「生活単位」考えると、異文化理解に疎い日本人の特性として土居健郎(1971)の指摘した「甘え」ということが挙げられるだろう。日本人は人と接するときに、幼い子供が母親に対してよく行うように自分の欲求のままに他人に依存しようとする傾向が強いのである。土居の指摘する「甘え」には自分の欲求が相手に受け入れられると考えた、無自覚で一方的な心理状態を含んでいる。  

 この「甘え」も自分のことを普段から理解してくれる相手、集団の中ではさして問題にならない。「甘え」ることができる環境には甘えさせる、「甘え」を容認する相手が存在しているからである。しかし、その集団、「生活単位 」から出た場合は当然理解してくれる相手を喪失する。にもかかわらず、「甘え」ようとして相手から反発を受け、衝突を生むのである。土居が言うように「甘え」は必ずしも日本人の中だけに見られるものではなく、欧米人などの中にも見られる普遍性のあるものであるが、衝突を数多く経験している欧米人などは比較的相手のことを理解しようとする傾向が強いと考えられる。「甘え」はひとつの「生活単位 」でしか暮らさないことの多い日本人により強いと考えられるのである。私は私自身がアメリカに3週間滞在したときの無自覚な態度、太平洋戦争時の日本のアジア侵略などに「甘え」がマイナスとなってあらわれていたと感じる。  

 日本文化が一方的な「受容」と「排除」、「欧化」と「回帰」を繰り返すのも、日本人が「甘え」るばかりで、相手との共通 点を見いだそうしない、「世界化」、「普遍化」におよそ遠いところにいるからではないかと考える。これから日本人にとっても、私にとっても必要とされるのは、「欧化」でも「回帰」でもなく、今までの「生活単位 」とは違うところで生活していくために相手との相互理解を目指す「普遍化」の精神ではないだろうか。

【参考文献】

坂口安吾(1942)「日本文化私観」『堕落論』集英社文庫、1990年。

土居健郎(1971)『「甘え」の構造』弘文堂。

西川長夫(1992)『国境の越え方』筑摩書房。

(1997年2月1日加筆・修正)


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