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(1995年度秋学期開講科目「自然と人間の交流史」課題レポートより)

自然と人間の交流史レポート

5217 生島 卓也

課題1.  古代、中世、近代の自然観を意識した上であなたの考える「自然」を説明しなさい。

はじめに 

古代の自然 

近代の自然 

私の考える自然


はじめに  

 私の考える「自然」に言及する前にまずここで「自然」を定義する。本稿で言う「自 然」とは人間から見たその環境世界である。何故ならまず「自然」という言葉に人間が 意味付けを行っているという時点で人間が知覚したものでしか有り得ないということで ある。そして、また「自然」という言葉は植物や人間以外の動物、また単にその人間の 外界といった特定されうるものを指すのではなく、ときには人間をも含むその環境すべ てを指すと考えるからである。また、時代によってそこに込められる意味は異なるため 、本稿での「自然」は人間の環境世界の捉え方であるとも言える。  

 そして、本来ならば現在の「自然」を考えるときには本当に人間がその環境世界によ る自らの生存の脅威に晒されているのかどうかという議論が欠かせない。というのは、 ここで近代の「自然」は人間にとっての環境世界でしかないという考え、人間は足を自 由に伸ばせるという考えはその議論で否の結論が出されるとしたら、見直す必要のない ものとなるのである。少なくとも人間はそう感じなければ、足をどこかにぶつけると感 じなければ、今までの考えを変える必要性を認識することはないのである。しかし、そ の議論は本稿の能力を越えているのでここでは行わない。本稿で述べる現在の「自然」 は、現在人間が環境世界から生存の脅威に晒されていると感じているとした上で提示 するものである。  

 私は「自然」というのはどうやら「人間の環境」としての意味も持っていながら、少 なくとも人間のためだけの環境ではないのではないかと考える。矛盾するように思われ るかもしれないが、「自然」は人間の内でも外でもなく、内でもあり外でもあると言え る。  

 本稿では、現在にも強く結び付いていると思われる古代と近代の「自然」を説明した 上で、私の考える「自然」を提示する。  


古代の「自然」  

 古代では「自然」は人間が思い通りに足を伸ばそうとすると必ずぶつかるものだと感 じていた。つまり、「自然」は人間のための世界ではない、人間の思い通りにならない ものだと認識されていたのである。ここでは「自然」は人間もそこに含まれるものの、 人間からみた場合外の世界であるとも言える。古代ギリシャのエディプス王の悲劇の中 で、主人公であるエディプスは「自然」と同等の意味を持っていたと思われる神から授 けられたとされる運命に苦しみ続ける。自らの「父親を殺し、母親と通じる」という運 命から逃れようとするエディプスにさらにその運命がのしかかるという設定に「自然」 とは、またその中にいる人間とは自分達の思い通りにならない、足を自分の思い通りに は伸ばせない存在であるという当時の考えが反映されている。人間は足を伸ばそうとし たところでそれは必ずどこかにぶち当り、決して思い通りにはならないというのである。  

 しかし、このことから人間が「自然」を否定的に、もしくは自分達と対立したものと 捉えていたと言えるとは限らない。当時の「自然」は人間が思い通りにできないもので あると同時に人間を救済するもの、ギリシャで言うカタルシスを人間に与える存在でも あった。つまり、「自然」は自分達の思い通りにはできない代わりにまた、すべてを身 を任せられる、人間が自分自身の存在を依存できるものであったのである。エディプス 王は最後に自分が運命から逃れられないとわかったときに、自分の目を刺し、耳までも なくしてしまいたいと言う。これは、運命に逆らおうとした自分に残されたものは人間 としての感覚を失うことによって「自然」に抱かれることだけだとしたからだ。人間と しての感覚がなければと考える点で「自然」を人間と対立するものとして捉え、「自然 」との一体感を持っていなかったと言えなくはないが、エディプスや古代ギリシャ人が 「自然」に抱かれなければ自分の人間としての存在はないと考えたことは否定できない であろう。


近代の「自然」

 近代では「自然」は人間が足を十分に伸ばせる余地を持っているとし、実際に自分達の 思うがままに足を伸ばした。つまり、「自然」は人間のためだけの環境世界であり、人 間の思う通りになるものだと認識された。ここでは、「自然」は人間との境界線がある ものだと認識された。また「自然」とは人間にとって手のひらにある内の世界であった のである。歌劇「さまよえるオランダ人」の中で主人公であるオランダ人は海をさまよ う。この行為にも「自然」を手の内にあるとしていたことが読みとれる。何故なら、ま ず自らの力で利益を得ようとして海へ乗り出していくという行為自体がそれまでと違い 、「自然」を自分の意志にまかせて足を伸ばそうとする行為であるからである。つまり 、大航海自体が「自然」を自分達だけの環境世界と捉えていたことに支えられていたと も言えるだろう。  また、劇の中でオランダ人は、荒れ狂う海が自分達の都合に合わないことに嘆いてい る。ここからオランダ人は自分達の思い通りにならない、つまりは「自然」との共感が 持てないということで人間と「自然」とに明らかな違いを感じ、境界線を引いている。 これは自然と人間に一体感を感じていた古代の「自然」と明らかな違いとして認識され る。そして、オランダ人は嵐が静まることを祈るではなく、望むことで、海を人間の意 志に従わせる、つまりは操作万能のものにしようとしているのである。  


私の考える「自然」  

 現在感じられる「自然」とは、人間が足を伸ばせなくはないが、人間の思い通りそれ をさせないものではないかということである。現在人間は自分達の伸ばしてきた足がど こかにぶつかっている、もしくはどこかにぶつかりつつあるのではないかと感じている 。または、これまでは伸ばしても痛みを感じなかったところで痛みを感じているのでは ないかとも言える。つまり、近代から自分達が思うがままに「自然」に接してきたこと が自らの痛みとして跳ね返っていると感じているのである。それは例えば工場の排気ガ スで人間の肺が侵されること、森林伐採により土砂崩れが起こり、人間が生き埋めにな るといったことである。  

 ここで言えることはまず、足がどこかにぶつかり、その痛みを感じている以上、人間 は足を曲げるだろうということである。ここで痛みを感じながら死ぬまで足を伸ばし続 けるということもあり得るが、人間はそこまで痛みに耐えることはできないと考える。 そして、痛みを感じ、足を曲げるときに人間は「自然」に対してどういう認識を持つの かということがここで問題となってくると考える。何故なら、もし人間は痛みを感じる ということだけしか認識しないのであれば「自然」は何らかの形で人間を柵に引きずり 込むと考えるからである。まず、痛みを感じることで脅え、足を完全に引っ込める、つ まりは「自然」を古代のように人間がどうにもできないものとだけ捉えると、人間は現 在の生活を捨てる、ともすればそれは自分の存在をすべて否定し、「自然」に脅え続け ていくことになりかねない。また、痛みが引いた途端に、足をまた思うがままに伸ばす 、つまりは「自然」を近代のように操作万能とだけ、人間にとってだけの環境世界と捉 えると、またどこかに足をぶつけ痛みを感じることになるであろう。  

 はじめに述べた「自然」は内でもなく外でもない、内でもあり外でもあるという ことをここで説明したい。「自然」は人間にとって操作万能ではないもののという意味 で「内」ではなく、「自然」は人間が全く理解できない関与できないものではないとい う意味で「外」ではないのである。また、「自然」は人間が主体的に関与できるという 意味で「内」であり、またそれは「自然」は人間にとって完全に操作できるものではな いという意味で「外」なのである。  

 よって私が現在感じる「自然」は今までの人類の経験と現在我々置かれた状況から人 間が思い通りにできるということを認めないものの人間の主体的行為を認めるものであ ると考える。


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