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1997年度春学期開講 労働環境論 レポートより)

「労働の動機について」

5217 生島 卓也

 重要な労働環境のひとつと考えられる、労働の動機について考えてみたい。
 かつて古代社会では労働は自分の生活、または共同体の生活そのものであった。食べるために自分達で狩猟をし、畑を耕し、必要なものがあれば自分達で調達した。労働の動機は生きることそのものだったと言っても良いだろう。
 しかし、現在の労働は「疎外」されたものである。自分で自分の生活を営んでいると言うにはあまりに「媒介物」が入りすぎているのである。マルクスによれば「疎外」とは「人間自身の行為が彼によって支配されるのではなく、彼に逆らう異質の力となる」ような人間の状態である。フロムによれば「人間が自分自身を例外者として経験する経験様式」である。つまり、現在の労働とは自分達の生活を自分達でまかなうのではなく、常に「貨幣」や「他人のための労働」を介し、その構造によって支配された、例外者として経験するものである。社会の分業化の中で、他人にとって価値のあるものを生産し、それによって賃金を得るという構造ができあがり、これを無視することはもはやできなくなっている。だから、労働の内容によって人間が「疎外」されているというよりは、現在の労働そのものが「疎外」されていると言ったほうが良いであろう。

 ここでの労働の動機を見いだすのは容易ではない。自分の生活を営むという根本の動機は揺るがないとしても、そのためには常に「貨幣」や「他人のための労働」という媒介を経なければならないのである。しかし、「貨幣」や「他人のための労働」は自分の生活や自分自身の意志によるものではない、また自分自身の生活そのものではないのでどうしても労働の動機を保っていくのに無理がある。例えば私が実際に働いた食品工場では自分達の生活を営むために自分が食べるわけでもない食品を延々と作り続ける。流通 センターでは、自分が使うわけでもないものを延々と運び続ける。その自分達が直接必要としない、手にすることはない労働をし続ける動機は「貨幣」や「他人のための労働」という媒介がなければ生活ができないという認識によって常にコントロールされなければならないのである。それができなければ、労働に喪失感を感じてしまい、自分の生活を保っていくことができなくなってしまうのである。

 この「媒介物」を含んだ構造はなかなか崩れないので、自分達が生きていくためにはこの労働の動機のコントロールを続けていかねばならない。そのためにはまた別 の「媒介物」を必要とするのかもしれない。
 かつてはまだ集団に共通した信念などによって無意識的にコントロールできていたのではないだろうか。
 ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、プロテスタントの労働への欲求がプロテスタンティズムに含まれる禁欲主義と強く結び付いており、それが資本主義の推進力となっていることを指摘した。禁欲主義というまた別 の媒介物によって労働と「貨幣」や「他人のための労働」がつなぎ合わされていたということであろう。
 日本では集団主義とよく言われるが、「ムラ社会的」共同体意識が労働の動機と結びついていたと言えるだろう。会社をムラと同じ自分のアイデンティティーの拠り所とすることで労働を自分の生活と密着させることができたのである。
 しかし、現在それらの集団に共通した信念は崩れてきている。いみじくもウェーバーが言っているようにそれら「『職業義務』の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を巡り歩いている」とも言えるのではないだろうか。完全に消え去ったとまでは言えないにしても、集団に共通 した信念よりも個人的欲求の強い現在では労働の動機のつなぎ目としての役割はもはやないと考える。

 このもうひとつの「媒介物」の力が弱い現在、労働と自分自身の欲求とのずれはずれのままで残ってしまう可能性が高く、労働の動機を保っていくのは難しい状況であると言えるだろう。「疎外」の問題はこれからも引きづられていくことになるのである。
 この「疎外」状況を埋めていくためには、自分の就きたい仕事につくことやQWL(Quality for Working Level)と呼ばれ、いくらか試みられているように自発的な労働の動機を保つ環境を作っていくように「媒介物」の補完を行っていかなければならないだろう。しかし、この補完は「疎外」の根本を成す「媒介物」の構造からすれば容易ではない。就きたい仕事についたところで、「貨幣」と「他人のための労働」というところからは逃げられないし、QWLにしても資本家-労働者という「貨幣」の構造が崩されないことを考えると骨抜きにされかねないのである。だからといってこの構造に依存して生活が既に成り立っている以上、この構造を根本から変えることは望めないし、もはや古代社会には後戻りできない。「媒介物」の補完作業を行うことに加えて構造に伴った「疎外」という根本問題をこれからも考え続けていく必要があるのではないだろうか。

(1997年7月26日加筆・修正)

 


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