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研究演習1

志望理由書

5217番 生島 卓也

 私は「共生・共同性」を次の視点から考えたい。それは人間の精神性である。

 私は昨年度の「自然と人間の交流史」のレポートの中で、人間は自然に対して怯える(議論の余地があることは否めないが、私はモ自然に抱かれるモということも怯えから来る迎合の態度であるとしか理解していない。)か、飲んでかかるかのどちらかの態度でこれまでは接し、現在対等の関係で接することを模索しているということを述べた。もちろん、それがどの時代のどの状況にも当てはまっているとは考えていないし、例外もあるとは思うが、少なくとも古代、近代におけるヨーロッパの自然観から人間と自然の対等の関係は読みとれなかった。私はこれは自然観に関する議論に限らず、人間が他の動物とは違い、現実をあるがまま感じ、受け入れることができないということではないかと感じた。それは岸田秀氏の言うところの「人間は本能が壊れている」ということであり、養老孟司氏の言うところの「(脳)意識中心主義」である。つまり、脳が他の動物に比べて異常に発達した人間は、脳を通 して作られるイメージ、幻想に縛られ、現実と直接接触を行う動物の本能を失っていると考えられるのである。

 言語を例にとってみる。鳥の鳴き声などの他の動物のコミュニケーション手段は、同じ種ではひとつの意味しか持たないのに対して、人間の言語の意味は恣意的なものである。ここで言えるのは人間の言語は動物のコミュニケーションの手段とは違い、現実において意味が相手に伝わらない可能性があるということである。それは言語に限らず、身ぶり、手振り、表情や目線などにおいても同じことである。私たちはそのことを体験的にわかっているはずである。人間をひとつの種とした場合、相手に意味が伝わらないということは、やはり人間は本能を失っていると言えるのではないだろうか。

 人間はいつも現実から離れたところにおり、幻想の中でしか生きていないとまでは思っていないが、私は「共生・共同性」という問題を考えるときに人間と人間との関係、自然と人間との関係の中に垣間みられる、現実との距離を隔ててしまったところにある(私個人は「甘え」の感情を持っているとされる日本人、また私自身において極めてこの傾向が強いと考えている)人間の精神性を問い直すことが必要だと考えている。

【参考文献】 岸田秀(1975) 「言語の起源」『ユリイカ』

       養老孟司(1996)『考えるヒト』筑摩書房。


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