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「幻想という名の実感」

  5217 生島卓也

要旨:  人間は現実をありのままではなく、すべて幻想を通 じて認識している。それはフロイトの「自我」、フロムの「疎外」、マルクスの「貨幣」に関する指摘からもそれが読みとれる。しかし、たとえ幻想を通 じてでしか認識が得られないとしても人間の認識構造そのものまでも幻想であるというだけで片づけることができるであろうか。すべてを幻想とする認識はたとえ幻想であるとしても、ひとつの実感であり、その実感がどのように構成されているのかに目を向ける必要がある。

 

1 はじめに - 何故幻想なのか

2 幻想という視点

2.1 フロイトの「自我」

2.2 フロムの「疎外」

2.3 マルクスの「貨幣」

3 どこまでを幻想と言えるのか

おわりに - 幻想を超えられるか

1 はじめに - 何故幻想なのか    

 デカルトは「我考える故に我あり」(1)という言葉を残したが、人間はなにかひとつについてでもこれは確かだなどと語ったりできるのだろうか。例えば目の前にある湯呑みにしてもそれは確かに存在していると言えるだろうか。視覚から捉えれば光の集まりの組み合わせが湯呑みに見えているに過ぎないし、物質として捉えれば原子の集合体でしかない。できている素材、形状も様々でそこから湯呑みというものを限定することもできない。「何らかの液体が入っているから湯呑みは存在する」というのなら何の液体も入っていない湯呑みは存在しないことになるし、「今それを使って飲んでいるから」というのなら飲まれていない状態の湯呑みは存在しないことになる。湯呑みという言葉にしてもそれは言葉に過ぎないから湯呑みの存在を保証できるものではない。

 湯呑みに限ったことではない。時間、空間、神、国、法律から様々な人間の周りにあるものにしてもすべて同じことが言える。すべて確かな存在を保証されない。それらはすべて人間の幻想、虚構に過ぎないのではないか。(2)つまり、人間の実感というのはすべてなんらかのフィルターをくぐった幻想であり、人間はその幻想の中でのみ生きているということである。自ら作り出した幻想によって人間は周囲との距離をコントロールし、その幻想に拘束もされる。幻想は社会、文化などによってそれぞれ異なり、また人間は日常レベルでは幻想を幻想とは認識せず、実在したものとして捉えるから、違う幻想を持った者同士で様々なずれや衝突を起こす。

 このような認識はフロイトの「自我」、フロムの「疎外」、マルクスの「貨幣」に関する指摘からも読みとることができる。彼らは幻想を実在したものと捉えて行動する人間に対する警戒心を持っていたのではないだろうか。

 しかし、すべてが幻想であるとしても人間の感覚、意識、認知構造では実体を捉えられないとするだけですべてを片づけることができるだろうか。たとえどんなにフィルターを通 っていても、実体を理解できないとしても、人間の実感を残さざるを得ないのではないのか。デカルトの「我考える故に我あり」も考える我が確かなものであるということより幻想を幻想と呼ぶ認識までは疑えないという実感を表したかったとも理解できるのではないか。すべてが幻想で人間はそこから抜け出せないとするならば、幻想がどんな人間のどんな世界観、実感の中から作り出されているのか、また幻想の中でどう生きるのか、幻想が他の幻想との関わりの中でどんな意味を持つのかということに目を向けるべきではないのか。すべてが幻想であるというだけでなく、幻想の中にどういう意味が含まれているのか、ルーマンの言葉を借りればどのように「意味の縮減」がなされているのかを考察しなければならないだろう。それでも幻想という概念の中には現実を現実として理解しているとする人間に対する強い危機意識が感じられる。そこには幻想という名の幻想ではなく、確かに幻想という名の実感があるのではないだろうか。

 本稿では2章でフロイトの「自我」、フロムの「疎外」、マルクスの「貨幣」などに幻想を実在したものと考える人間に対する問題意識が見られることを指摘し、3章で幻想にこめられた人間の実感までは排除できないということを述べ、4章で幻想がどのように構成されているかに目を向ける必要性を指摘する。

2 幻想という視点

2.1 フロイトの「自我」

 自我は人間が周りの世界と何とか折り合いをつけるために作りだしたひとつの幻想に過ぎない。フロイトは『精神分析入門』で人間の衝動が「無意識」に自我を通 して抑圧されており、その抑えつけられた衝動がしくじり行為、夢、ノイローゼとなって表れると指摘した。(3)人間は自我という作りもの、外界に適応するための(共同)幻想を環境との間におかなければ生きられない。それでも環境との間には幻想を置いているにすぎないから、抑えられた衝動がしくじり行為、夢、ノイローゼという歪みとしてが表れるのである。

 フロイトはノイローゼ患者に関する論考のなかで性的な欲動の力、リビドーと「性的でない欲動の力」、「自我欲動」(4)とをはっきりと分けている。このリビドーと「自我欲動」とはせめぎあい、ほとんどの場合「自我欲動」によってリビドーの欲求は拒否される。これが「願望の動きに対する反抗のしるし」、「心的な<葛藤>(コンフリクト)」(5)と呼ばれるものである。このコンフリクトに絶えず人間は動かされているが、ここで満足を得損なったリビドーはその力を保持しているから、なんとか欲求を満足させるために、別 の対象と結びつこうとする。リビドーの対象を探す動きは可塑的であり、あるひとつの対象を他の対象に代えることができながらも、また特定の方向、対象に固着もしやすい。リビドーが特定の対象に過度に固着してしまった場合「足のフェティシスト」、「性的倒錯者」(6)になる。また欲求拒否を受けながら、回り道を通 って自己の思うところを貫徹しようとした場合にはヒステリーや、脅迫ノイローゼの症状となって現れる。「症状とは拒否という事実によってやむを得ないものとなった新しい満足、すなわち代償満足」(7)なのである。

 そこには自我の働きが大きな意味を持っている。自我はいわばリビドーの内的な検閲者となって、リビドーによって起こされる行動を規制する。その検閲者はときに固着を認め、倒錯を起こすこともあれば、固着を拒否する態度をとり、「抑圧」を加えることもある。リビドーの側から見れば、検閲を行い、欲求充足を妨げるコンフリクトを引き起こしているは自我であり、ノイローゼの原因をつくっているのも自我であるとも言えるかも知れない。また、自我は道徳や知的発達、教育など外界とどう折り合いをつけるか、外界にどう拒否されないですむかということによって形作られたもので、時や状況によって様相が変わる外界に対して一定の形を持ってしまい、下界に対応できない可能性も持つ、あくまで幻想に過ぎないと言えるかも知れない。

 しかし、コンフリクトに自我が強く関わっている、自我が幻想であるからといって、自我を完全に取り払うことなどできるだろうか。自我はわがままでどこに結びつくかわからない内的なリビドーとわがままが必ずしも通 らない外的な世界との間のインターフェイスとして、機能しているのである。わがままなリビドーが自我なしで下界に放り出されたときにはまったく周りからの手の施しようがなくなってしまう。それもリビドーの対象が何処へ向かい、また何処に固着するかわからず、自我という幻想を介することなしに外界とうまくやっていけない人間の宿命と言えるかも知れない。人間は確かな自分などというものは持てず、周りと調和を計るためにリビドーを自我という幻想、仮の枠のようなものによってなんとか押さえつけながら生きている、危うい存在なのである。

2.2 フロムの「疎外」

 フロムは「正気の社会」で「資本主義がパーソナリティーに与えた中心的課題」(8)として疎外を議論している。疎外とは人間が自分達が周りと調和していくために自らつくり出したさまざまなものや行為が形をもったり、固定化したときに今度は逆につくり出したものから人間が支配され、「自分自身を例外者として経験する」(9)状態である。つまりは人間が外界を理解するためのインターフェイスとして幻想、虚構をつくり出しており、その幻想が幻想であることから離れて人間を締め付けていると指摘しているのである。

 その例のひとつとして偶像崇拝を挙げている。偶像は神(10)と信仰する人間とのインターフェイスとして人間がつくり出したものである。当然ながらそれは神そのものではなく、偶像は「人間的な努力の結果 」(11)として作られた虚構にすぎないのである。それにも関わらず、偶像は「人間を超え、人間に対立し、人間を離れたものとして経験され、人間はこれを崇拝し、これに服従するのである」(12)。フロムはこの偶像崇拝に人間に対する愛情、政治的指導者や国家に対する態度も重ね合わせている。

 もっとも偶像にしても人間と神とのインタフェースとして機能する、自分自身と神との繋がりが保たれているのであれば、必ずしも否定されるべきものではない。しかし、「人間を離れたものとして経験」され、偶像そのものがまるで神のように扱われれば、それは本来の対象を離れて別 の特定の対象に欲求が結びついてしまうフロイトの言うところの「性的倒錯者」と全く同じ現象である。

 フロムはまた現代社会には、ほとんどあらゆる領域で疎外が見られると言う。労働者、経営者、消費行為など多くの例を挙げてそのことを説明している。資本主義における大量 生産に象徴されるように「人間はかつて存在しなかった人工物による世界を創造した」(13)。ありのままの外界に対して、人間の理解しやすい大きく、高い幻想、虚構を築き上げてしまった。その大きく、高い幻想は人間の背丈をはるか超えてしまい、今度はその幻想に人間が飲み込まれてしまうことになってしまうかもしれないとフロムは警告しているのである。

2.3 マルクスの「貨幣」

 貨幣にしてもひとつの幻想、虚構である。マルクスは『資本論』で商品の交換の中で貨幣がどのように生み出されているかを考察している。そこでマルクスは貨幣は「人間関係の単なる現象形態にすぎない」(14)というのである。つまり貨幣とは商品の交換のなかでで人間がつくり出した単なる媒介物、幻想にすぎないということである。

 商品を交換する際に商品の価値は「A商品 x量=B商品 y量」(15)というように表現される。この交換が成り立つ、等価形態をとるということも「社会的な自然特性」(16)としてみなされがちであり、これもマルクスに依れば固定化された「間違った外観」(17)である。この外観は「使用価値」(18)でなく「交換価値」(19)において意味をなす貨幣によってますます強固になる。貨幣の機能には「商品世界にその価値表現の材料を提供する点に、あるいは商品価値を質的に同等で量 的に比較しうるような同名称の大きさとして表す」(20)ということがある。貨幣にしてももともとは一商品に過ぎない、簡略化して言えばそれが金であるわけであるが、「価値の一般 尺度」(21)としての機能を果たすことで「この特殊な等価商品ははじめて貨幣となる(22)」。貨幣は商品との交換無しに機能しない「使用価値」を内在していないものになる。「商品の価値形態一般 と同様に、商品の手でつかめる現実の物体形態とは違った、したがって観念的または表象的な形態でしかない。」(23)のである。鉄、リンネル、小麦などと違って、貨幣の価値は他の同等な商品との関連の中で表象されるのである。だからどのぐらいの価値をもつかという但し書きのようなものがなければ、貨幣はただの塊にしかならない。

 貨幣が表象的、観念的なものであるということは人間がいかに表象的なもの、観念的なもの、幻想に依存しているかということをよく表しているであろう。この貨幣が幻想であるということも普段の我々の生活が貨幣無しで済まされずに強く依存し、基礎的なものとして、「社会的な自然特性」として見なされている中では見失いがちになってしまう。このことに対してマルクスは危機意識を常に持っていたのではないだろうか。

3 どこまでを幻想と言えるのか

 ここまで人間が幻想というインターフェイスを通 して外界と接しているということを述べ、フロイト、フロム、マルクスの指摘の中にも幻想という視点が見られることを考察してきた。しかし、すべてを幻想ということで片づけてしまうことはできるのだろうか。

 この「人間の知覚するものはすべて幻想である」ということを述べること自体にもパラドックスがある。「人間の知覚するものはすべて幻想である」というのもそれを語る者の主観という「幻想」をまた言葉という「幻想」を通 して述べているに過ぎない。「すべてを幻想」ということはそれを語る者までも堂々巡りのなかに引き込んでしまう。

 この議論はデカルトが「方法序説」の中で行っていた議論と同じではないのか。デカルトは「明らかな論証と考えていたあらゆる推理を、偽なるものとして投げ捨て」(23)、「それまでに私の精神に入りきったすべてのものは私の夢の幻想と同様に真ならぬ ものである」(24)とした。まさに「すべては幻想」だというのである。

 しかし、自分の認識が確かではない、フィルターを通 った幻想であるとしても、そこに確かに幻想によって行動する私は存在するのではないか。デカルト言うところの「我考える故に我あり」である。つまり、いくら人間の感覚、意識、認知が実体を捉えられないもので、幻想に縛られているからといって、人間の感覚、意識、認識構造によって生み出される人間の行為、認識、実感そのものまで幻想であるとは言えないのではないか。フィルターをくぐり、外界を確かには捉えられていないとしてもそれは、その人間の実感として確かにあるのではないだろうか。デカルトも確かなものなどなく、自分の認識もフィルターに左右されていることを意識しながらも、フィルターを経て出される認識という心の動きそのものはあるとしたのではないか。「幻想である」と考えることがたとえ幻想であるとしても「幻想である」と感じる自分の心の動きそのものまで幻想であるとは言えないのである。幻想という名の幻想ではなく、幻想という名の実感がそこにはあるのではないだろうか。

 また「すべては幻想である」と敢えて口にする言葉の裏にはすべてのものを理解したい、実体として理解したいという願望のようなものも感じられる。客観世界はすべて人間が捉えられるとする世界観を後ろに背負っているということである。もし「すべては幻想である」ということを前提として抱えているのであれば敢えて口にする必要もないであろう。敢えて口にするということは世界はすべて理解できるということに対する未練を残しているのではないか。そこにはすべてを近代ヨーロッパ的とも言える操作できるとする楽観的な世界観の影があるとも言える。

おわりに - 幻想を超えられるか

 本稿では「すべては幻想」でありながらも、人間の実感そのものまで幻想とは呼べないということを述べてきた。人間の認識は常に何らかのフィルターを通 った形でしか周りの世界と接することはできない。しかし、その認識自体は確かに人間が持っているものである。この認識構造、人間の実感というものを幻想とだけ片づけるのではなく、どのように生み出されるのかということに目を向ける必要がある。これからはこの前提に立って幻想を考えていく必要があるだろう。

 そのひとつのヒントを提供してくれるのがルーマンの複雑性の縮減である。(25)人間は複雑な世界を理解するためにありのままではなく世界を理解しやすいように、複雑性の縮減を行う。いわば複雑性の縮減を行うことで幻想をつくり出すのである。複雑性の縮減はどんな世界観、どんな人間観、自然観の中から、またどんな文化的状況から成されるのかということを考察しなければならない。

 しかし、幻想が実在したものと認識されがちな現代社会において幻想を指摘することにも意味があるのではないかと感じている。それもまた幻想だと言えるかもしれないが、それは私の実感として確かにあるのである。

(注) (1) Rene Descartes 邦訳『方法序説』野田又夫訳【『世界の名著22』所収】中央公論社、1967年、188ページ。訳書では「私は考える、ゆえに私はある」とあるが、筆者は一般 的によく使われる「我考える故に我あり」という訳を用いた。

(2) 幻想、虚構については様々な観点から、また様々なところで議論がなされているため、ここでそのすべてには触れられないし、筆者もそれらの議論を踏まえて書いているとはとても言えない。しかし、少なくともカント、フッサールらの現象学の議論だけは押さえておく必要があるだろう。今後の課題としてここでは置いておく。

(3) Sigmund Freud 邦訳『精神分析入門』懸田克躬訳【『世界の名著49』所収】中央公論社、1966年。フロイトは第一部にしくじり行為、第二部に夢、第三部にノイローゼ総論としてまとめている。

(4) Sigmund Freud 邦訳『精神分析入門』懸田克躬訳【『世界の名著49』所収】中央公論社、1966年、426ページ。のちにフロイトはエロスの欲動のなかに包含したためこれを自我と同一視することはできないが、ここでは暫定的に引用した。

(5) Sigmund Freud 邦訳『精神分析入門』懸田克躬訳【『世界の名著49』所収】中央公論社、1966年、427ページ。

(6) Sigmund Freud 邦訳『精神分析入門』懸田克躬訳【『世界の名著49』所収】中央公論社、1966年、426ページ。 

(7) Sigmund Freud 邦訳『精神分析入門』懸田克躬訳【『世界の名著49』所収】中央公論社、1966年、427ページ。

(8) Erich Fromm 邦訳『正気の社会』加藤正明、佐瀬隆夫訳【『世界の名著76』所収】中央公論社、1979年、326ページ。

(9) Erich Fromm 邦訳『正気の社会』加藤正明、佐瀬隆夫訳【『世界の名著76』所収】中央公論社、1979年、326ページ。

(10) 神も考察すべき幻想のひとつである。共同性のつなぎ目としての神という幻想がどういう意味を持ってきたか、また「神は死んだ」とされている現代においてどういう機能を果 たすのかということは本稿の能力を超えているので扱わないが、考察の必要があることだけは間違いないだろう。

(11) Erich Fromm 邦訳『正気の社会』加藤正明、佐瀬隆夫訳【『世界の名著76』所収】中央公論社、1979年、327ページ。

(12) Erich Fromm 邦訳『正気の社会』加藤正明、佐瀬隆夫訳【『世界の名著76』所収】中央公論社、1979年、327ページ。

(13) Erich Fromm 邦訳『正気の社会』加藤正明、佐瀬隆夫訳【『世界の名著76』所収】中央公論社、1979年、329ページ。

(14) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年、150ページ。

(15) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年、110ページ。

(16) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年、151ページ。

(17) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年、151ページ。

(18) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年。主に第一章第一節で議論されている。

(19) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年。主に第一章第三節で議論されている。

(20) Karl Marx 『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年、152ページ。

(21) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年、152ページ。

(22) Karl Marx 邦訳『資本論』鈴木鴻一郎、日高普、長坂聡、塚本健訳【『世界の名著54』所収】中央公論社、1980年、153ページ。

(23) Rene Descartes 邦訳『方法序説』野田又夫訳【『世界の名著22』所収】中央公論社、1967年、188ページ。

(25) Niklas Luhmann 邦訳『批判理論と社会システム理論(上)』佐藤嘉一、山口節郎、藤沢賢一郎訳、木鐸社、1984年。


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