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『共同体とのインターフェースとしての現象』

5217 生島卓也

目次  

序説

1 共同体を真理と置くということ

2 現象の世界  

2.1 カントの現象  

2.2 メルロ・ポンティの現象  

3 インターフェイスとしての「身体」  

結論

序説

 現代は共同性、共同体が失われつつある時代だと言われる。そしてまた民族紛争、地球環境問題、家族の崩壊など様々なコンテクストの中で共同性、共同体が必要とされていることが叫ばれる。共同性、共同体という捉え方そのものが人間の作り出したひとつの概念に過ぎないのであるが、本論ではこの概念の起源を探ったり、概念自体の分析をすることを目的とはしない。まず共同体という捉え方を人間がしたとして、ヘーゲルが「精神現象学」の中で共同体精神を「真の精神」と表現したように、仮に共同体概念を「真理」として考えてみる。そうすると共同体は人間が決して直接手には出来ない物のように思えてくる。本論ではメルロ・ポンティの使う「現象」という言葉を中心にして人間はどのようにして共同性を持つのかということを検証していきたい。

 本論において指摘したいことは、人間が共同性を持つためには「現象」を介さざるを得ないということと、科学のように頭を使って導きだし、言葉によって表現し、行動に移すというプロセス、理性のプロセスと言ってもいいかもしれないが、このプロセスは「現象」の中の一形態に過ぎず、共同性を持つための唯一のプロセスではないということである。言い換えるなら、科学のようにある限定された状況を言葉という限られた表現方法をとり行動に移していくことだけでは共同性は捉えきれず、より広い「あらゆる行為が浮かび上がる背景」(MP,p.7)である「知覚」をフルに使って行動に移すということが、「現象」を介し、共同性を持つことにつながるのである。その意味で本論自体も理性のプロセスしかとっていないのであり、共同性を捉えているとはとても言えない。

 それぞれ使い方が違っているにせよ「現象」という言葉を人間が直接真理を手に出来ないという認識、つまりここでは直接共同体を手に出来ないという認識から出している点ではカントもメルロ・ポンティも同じであろう。しかし、カントの真意がどこにあるかは別 にしても、共同体は人間が言葉や概念を使い、自らの理性に従って精密に造り上げていかなければならないものであるという点を強調しているように映る。造り上げていく中でできる様々な理性による建造物をインターフェイスとして共同体との間に置いて初めて共同体に触れることが出来るということになる。メルロ・ポンティの立場はこれとは異なる。彼は理性に従って造り上げるのではなく、世界のうちに自らの意志とは関係なくあり、その身体を通 じて世界と接する、つまりは身体をインターフェイスとして共同体と接するという立場をとっていると言えるだろう。身体という概念にあいまいさは残るものの、カントを引き継ぎ、人間が自らの理性に従って共同体を構築できるとする近代以降主流となっている立場によって必ずしも理想の共同体を築けているとはいえない中で、形而上学批判を試みるデリダの主張と照らし合わせてみても、意味はあるのではないだろうか。

 第1章で理性によって共同性を捉えようとすること、つまりは本論で進めていくやり方もあくまでひとつのやり方に過ぎないことを示し、第2章で「現象」が共同性を捉えるキーワードとなること、第3章で「現象」の担い手となるのは「知覚」であり、「身体」であることを述べる。

1 共同体を真理と置くということ

 共同体は現代において、作りあげていかねばならないもの、もしくは取り戻していかねばならないものとして捉えられている。人間がその際取ろうとする手段の中で主流だと思われるのは、理性を使って合理的に共同体を構築していこうとするやりかたである。例えば法律を定めて共同体を破壊する行為を規制するということもそれにあたるが、共同体が壊れてきていると言葉で表現し、考えようとすること自体がそれにあたると言えるだろう。この理性によって捉えようとする働きかけはヨーロッパの形而上学の歴史の中で続いてきた基本的態度でもあるだろう。それは人間が今のところは理解していない、いづれは理性によって捉えられるであろうとする「真理」に接して来た態度と同じではないだろうか。仮に共同体を見ようとする際のひとつの態度として共同体を形而上学が目指すものと同じ位 置に置く、つまりは真理として考えるならば、共同体は人間が感覚によって直接捉えられるものではなく、理性によって人間を高めていくことによって初めて捉えられるものだということになるだろう。

 しかし、この態度はあくまでひとつの態度に過ぎない。共同体という言葉自体、もし共同体が保たれた状態にある場合にはあえて使われる必要はない。現象学の言い方を使えば、理性によって、言葉によって捉えられる前に共同体はすでにそこに存在するのである。失われつつあると言われる共同体としてムラや地域社会、信仰によって結ばれた共同体を理性を通 して合理的に見ようとしたときには、機能や合理性をそこに見出すことがあったとしても、理性によってもう一度構築しようという立場からみれば、合理的でないものがそこに残り、もう一度組み上げようとすることはできない。そのような共同体は理性によって構築するというのとは別 のやり方でできたものであろう。

 本稿ではあくまでひとつの態度として仮に理性によって真理としての共同体を捉えるということを置き、その態度によって得られるものを批判的に検証していく。

2 現象の世界

 共同体を真理として捉え、語ったり、記述しようとしたときにでてくる認識は、人間は共同体そのものを決して直接つかむことはできない、共同体と人間との間には隔たりがあるということである。そのことをカントやメルロ・ポンティは現象という言葉を使って表現している。人間は現象を共同体との間に置くことによってはじめて共同体が人間の目の前に現れるということである。しかし、カントとメルロ・ポンティの現象の捉え方は人間が共同体を直接つかむことができないという点では共通 しているものの、現象という言葉にこめた意味が異る。カントにとっての現象が物自体から遠く離れたところにある、いわば前段階にあるものに過ぎず、理性によって捉えていくことが必要であるのに対して、メルロ・ポンティにとっての現象は世界の中に置かれた存在である人間が世界に関わっていく能力そのものである。共同体と人間との隔たりを埋めるものとしてカントの場合は理性を置き、メルロ・ポンティの場合は現象そのものを置いたのではないだろうか。

2.1 カントの現象

 カントは『純粋理性批判』で人間が決して世界をありのままにつかむことはできないという認識を示している。それは現象という言葉を使っているところから読みとれる。カントは先験的感性論の緒言において現象を「経験的直観のまだ規定されていない対象」 (K,p.87)として定義している。経験的直観は「感覚を介して対象に関係するような直観」(K,p.87)と定義されているから、現象は感覚を介する前にある、最初に与えられた、何も手を加えられていない素材のようなものだと考えられるだろう。そしてわれわれは直観によって現象を捉えることによってそれを表象することになるのである。

 しかし、現象は世界のあるがまま、「物自体」ではない。現象の世界とは物自体が人間に現れ出るにすぎない、いわばまがいものの世界である。つまり、現象は物自体の世界を写 しとったにすぎないものであり、物自体そのものでは決してありえないのである。カントは雨と虹の例を使ってそれを説明する。我々はひなた雨が降ったときに現れる虹は確かに現象に過ぎないが、そのとき降っている雨は物自体だと言うことがある。ここで人間が経験するものが対象自体を表示するかを問題にすれば、雨の滴だけでなく、その円い形態、その雨が落ちてくる空間でさえもそれ自体として存在するのではなく、物自体とは決して言えないのである。人間が最初に現象という形で対象を受け取った時点でそれは物自体とは違う、まがいものになってしまっているのである。「われわれに与えられているのは、対象自体ではなくてこの対象の(現われであるところの)現象だけである」 (K,p.109)と言える。

 カントの考えによれば人間にとって最初に与えられた現象は感覚によって表象され、悟性、理性によって物自体の世界に近づくことができるとされる。カントは1787年に書かれた第二版序文において「我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物ー換言すれば、現象としてのものだけである」(K,p.40)から「理性の可能的な思弁的認識は、すべて経験の対象のみに限られる」(K,p.40)と述べている。つまり、現象という経験の対象を素材として理性が物自体へ向かって対象を高めていくのである。ここでカントは「我々はこの同じ対象をたとえ物自体として認識することはできないにせよ、しかし少なくともこれを物自体として考えることができねばならないという考えは依然として留保されている」(K,p.40)とする。現象という単に物自体を写 し取ったに過ぎないものを理性によって物自体そのものではないとしても、それに近いところまで理解することができるとカントは言うのである。

 しかし、カントは現象を理性によって高められるべきものとしているからといって、決して現象そのものを軽く見ているとは言えない。第一版序文の中で『純粋理性批判』を書こうとした動機を語っている。それによれば、形而上学は理性が「一切の可能的な経験的使用を超えるにも拘わらず」(K,p.13)、「条件の系列を遡ってますます高く昇っていくこと」(K,p.13)によって窮境に陥っている。そのために「理性が一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に関して、理性能力一般 を批判すること」(K,p.16)が必要であるとしたのである。つまり、我々には現象という形でしか対象が現れないのであるから、この経験を経て理性は高く昇っていく以外の方法をとることはできないのである。だから「理性の可能的な思弁的認識は、すべて経験の対象のみに限られる」のであって、理性の働きのみによったいわば「上空飛行」のようなものはあり得ないと言えるだろう。現象の言葉の定義には若干の違いが見られるが、この経験に対する考え方はメルロ・ポンティの問題意識にも近いと言えるのではないだろうか。その点については次節で述べることにする。

 カントにとっての現象とは共同体を捉えるまでのひとつの道標としての意味を持っているとはいえ、共同体からは遠い位 置にあり、そこから共同体を捉えていくためには考えること、理性を使っていくことが必要だとしたのではないか。

2.2 メルロ・ポンティの現象

 メルロ・ポンティは『知覚の現象学』を現象学とは何かという問いから書き始めている。そこでまず強調することは現象学とは「世界がつねに反省に先だって、廃棄され得ない現存として『すでにそこに』あることを認める」(MP,p.1)ものだということである。また「本質を実存の中に戻し、人間と世界とを理解するには、それらの『事実性』から出発するほかはない」(MP,p.1)とも言っている。

 メルロ・ポンティは何故そんなことを言わなければならなかったか。それはメルロ・ポンティが科学の限界を強く意識していたからである。メルロ・ポンティによれば「科学は知覚世界の一つの規定、もしくは一つの説明」(MP,p.4)でしかない。科学ではまず世界に相対する私がそこにいて、ある対象を世界から切り取る認識という行為が加えられ、さらにそこから分析や説明を加える。しかし、世界から対象を切り取る認識というのは、経験を経ずには得られない。経験は科学が分析や説明を行う前に存在するものであり、科学は経験という一次的なものに対して、「二次的な表現」(MP,p.4)なのである。本質を理解するためには世界は認識する前に『すでにそこに』あることを認め、二次的な分析や説明の加えられる前の経験という『事実性』から始めなければならないとメルロ・ポンティは言うのである。つまり人間の認識、分析、説明を経る前に人間が経験すること、人間に世界が現れるままの姿である現象をありのままに記述することが必要なのである。

 そのことを主張するにあたってメルロ・ポンティはまずこれまで使われてきた「感覚」という言葉が不明瞭なものだとして、定義し直そうとする。印象としての感覚、性質としての感覚、刺激の直接の結果 としての感覚するということはすべて不明瞭である。我々はよく赤、青、熱さ、冷たさという印象を感覚するというが、これらの印象が一体どこから来るのか説明がつかない。プラトンはそのようなイデアがアプリオリに存在するのだと説明するかも知れないが、少なくとも我々の経験はその感覚の対象であるものとの「関係に向かっているのであって、決して絶対的に孤立した項に向かっているのではない」(MP,p.29)のである。そして「知覚される『あるもの』はいつでも他のもののさなかに」(MP,p.30)あり、我々はそのいわば「地の上の図」(MP,p.29)という状態を知覚するのである。赤、青、熱さ、冷たさという純然たる印象はそもそも知覚の対象とは呼べないのである。性質としての感覚にしても同じ事が言える。例えば赤という性質というものは周りの光が作用する中でしか現れないものであり、赤という性質を純粋なものとして感覚するということは「全くなにも感覚しないことに等しい」(MP,p.31)。また生理学では一定の受容器から発し一定の伝達器を経て、刺激が伝わり、刺激と要素的知覚との間の正確な対応と恒常的な関係があるとする「恒常性仮説」(MP,p.35)が出されている。しかし、この仮説では「行動(comprtement)というものが、反射のかげにかくれてしまう」(MP,p.35)。つまり、刺激を加工し、これに形態を付与する働きが隠蔽されるのである。メルロ・ポンティは3つの例を挙げ、音や図形や色の知覚がその条件によって刺激に必ずしも忠実に従っていないことを示している。したがって、感覚された内容は刺激の直接の結果 であるとは言えないのである。

 不明瞭な形でしか感覚という言葉が定義できないのは、『経験錯誤』(experience error)(MP,p.32)をおかしているからであろう。われわれは印象や性質、刺激による結果 を感覚したものとして考えるが、それはわれわれが無造作にアプリオリに客観的世界の中にあるものとしてそれらを自らの意識によって想定しているに過ぎないものなのである。つまり「われわれは知覚されたものによって知覚を作りあげている」(MP,p.32)のである。だから結局「知覚も知覚されるものも共にわれわれは理解していないことになる」(MP,p.32)。このいわば経験されたものによって感覚という経験を説明、分析しようとするやり方をメルロ・ポンティは「経験主義」と呼ぶ。「経験主義」にあてはまるのは、大きく言えば当時の科学全般 と言えるかも知れないが、ここでは当時の生理学、生理学の成果を受け取っているような実証的な心理学を指していると言えるだろう。感覚を再定義するためには「経験主義」の示すような意識の上に組み立てられた経験ではなく、「指し示す経験そのものに、立ち帰らなくてはならない」(MP,p.39)とされるのである。

 この「経験主義」に対立する「主知主義」に対しても感覚を定義できるものではないとしてメルロ・ポンティは批判を加える。「経験主義」が経験という外的なものから説明、分析しようとするのに対して、「主知主義」は注意によって内的なものを探り、そこから説明、分析していこうとするものである。しかし、この注意という働きも感覚を定義できるものではないのである。注意によって感覚するものを明らかにしようとするのであれば、「知覚される対象は注意が明らかにする知的な構造をすでに含んでいなければならない」(MP,p.67)。しかし、このアプリオリなものがあるということは、「経験主義」がアプリオリなものを意識によって生み出したのと同じ事ではないのか。「意識がまえもってそこにそれを入れておいた」(MP,p.67)からではないのだろうか。そうするとここでもやはり注意は意識を通 して経験されたものによって経験を説明しようとするものであるから感覚を明らかにする意味を持たない。この点で「経験主義に対立する主知主義も、それと同じ地盤に立つもの」(MP,p.65)なのである。

 経験主義も主知主義も感覚を明瞭に定義できないのはそれらがやはり「二次的な表現」に過ぎないからである。感覚するということを説明しようとするとき、その両方の立場は客観的世界を前提とする、アプリオリなものを意識によって生み出すという「二次的な」やり方を持ち出してくる。その「二次的な」やり方に問題があるのである。感覚を定義するためには「一次的な」ものをそのままの状態で記述することが必要なのである。そのためにはまず世界という先入主が存在するというわれわれが当然のことと考えているこの認識を括弧 に入れる必要がある。それがフッサールの述べた「現象学的還元」である。ここでようやく人間が経験するありのままをそのままの状態で理解する一歩、「現象の領野(champ phenomenal-現象野)を開き、直接経験の再発見へとわれわれを誘ったのであった」(MP,p.106)。

 メルロ・ポンティは序文の中で「確かに世界と交渉しているが、それを所有してはいない。世界は汲み尽くすことができないものである。」(MP,p.18)と述べている。しかし、世界のありのままは記述できなくても、人間にとっての世界の現れ方、現象ならばなんとか記述できると考えたのであろう。世界を共同体に言い換えてみれば、共同体そのものは手にすることが出来なくても、人間の共同体に対する関わり合い方であれば記述出来ると考えたということになる。ここが経験主義や主知主義と大きく異なる点なのである。特に経験主義に対する批判の中で「文化的世界」の重要性を強調する。「経験主義はわれわれの知覚内容を、感覚器官に作用する刺激の物理ー化学性質によって改めて定義し、怒りや苦痛を、宗教や都市を、知覚できないものと見なす」。(MP,p.61)しかし、人間は怒りや苦痛、宗教や都市の中で生活し、それらの中で喜びや悲しみを感じながら生きているのである。人間にとって世界は物理ー化学性質として現れるのではなく、怒りや苦痛、宗教や都市という文化的な形をとって現れてくるのである。

 カントにしてもメルロ・ポンティのこの主張と一致している点があるだろう。 それは前節でも述べた通り、カントが「一切の経験にかかわりなく達得しようとするあらゆる認識に関して、理性能力一般 を批判する」ところにある。メルロ・ポンティが一次的な人間の経験そのものを問題にすべきだとしているのと問題意識としては似通 っていると言えるのではないだろうか。カントにしてもメルロ・ポンティにしても、人間は世界のありのままは理解できず、世界は現象としてしか人間には現れてこないという認識を持ち、またその現象を抜きにして人間は世界と関わることができないと考えたと言えるだろう。ただ、カントとメルロ・ポンティが向かった先は異なる。カントは理性によって世界に近づいていくべきだという立場をとり、メルロ・ポンティは理性によるのではなく、現象の世界にとどまることこそが必要であるという立場をとっているのである。

 では一次的な人間の経験そのもの、現象をどのようにしてメルロ・ポンティは記述していこうとするのか。意識でも理性でもなく「あらゆる行為が浮かびあがる背景」である知覚の担い手となる「身体」がここで問題になる。次章ではメルロ・ポンティの「身体」について述べていく。

3 インターフェイスとしての「身体」

 前章では人間は世界をありのままにはいいあてられないが、人間にとって現れ出る経験そのもの、現象を扱っていくことが必要であることを述べたが、その担い手となるのがメルロ・ポンティの「身体」という概念である。われわれは身体によって世界に臨み、身体によって世界を知覚するのである。身体はカントの言うような理性の前段階にある、理性によって導かれるものなのではなくて、むしろ理性を導く「自然的な自我」(MP,p.338)であり、「知覚の主体」(MP,p.338)なのである。身振りや言葉を表現をするということにしても思惟や心が先にあってそれを表すというのではなく、身体が意味しようとするものそのものにならなければならない、「他ならぬ 身体そのものが表示するのであり、語る」(MP,p.326)のである。人間が複数のパースペクティブをまとめて捉えることが出来るのも理性によるものではなく、それを身体を通 して統一するからである。

 経験主義や主知主義は身体をどう捉えるだろうか。経験主義は身体をものの性質が現れるまでに通 る単なる感覚器官であるとするだろう。生理学で挙げた例をとれば最初の刺激から最後の要素的知覚までの間にある受容器や伝達器を指すことになる。また主知主義では身体を意識や理性の下にあるものとして見なすであろう。主知主義においては意識があくまで主体なのであって、身体はその下に置かれる。経験主義にしても主知主義にしても身体は単なる「もの」として捉えられるのである。

 しかし、これが前章で何度も述べたような「二次的な」解釈なのである。われわれの普段の日常的生活の中での身体は単なるものとして捉えられない。メルロ・ポンティはそのことを様々な例を使って述べていく。ここでは言葉を使うということが身体の在り方と不可分であることを示した例を追っていくことにする。

 われわれは言葉を使うという現象、その言葉を使われている内容は主知主義で言われるように思惟によるものであると考えがちである。何かを言葉によって表現するときには思惟によって考えることによって言葉を構成し、自分の意図するように組み立てる。また言葉を受け取る側がそれを聞く、読むということも思惟によって言葉に従って想起し、その受け取った言葉を自分の中で構成し、組立て、観念を思い浮かべる。だから言葉で表現されたり、受け取ったりする内容は思惟によっていると考える。この考えに従うならば言葉は思惟に従属した記号にすぎないということになるだろう。しかし、メルロ・ポンティはそうではないとする。

 メルロ・ポンティは目の前にいない人間を想像した場合を考える。目の前にいない人間を想像するとき、思惟によってそのある人間を他の人間と区別 し、想像するわけではない。「彼がどれだけ遠くにいようと、私は世界の中で彼を目指している」(MP ,p.300)のである。目の前にいない人間を想像するということは、内的にある目の前にいない人の記憶という素材を思惟によって構成することではなく、目の前にいない人の振る舞いを呼び起こすことによってその人の「疑似現前」(MP,p.300)を獲得することなのである。そして目の前にいない人の振る舞いというのは身体を通 して得られたものであり、身体の中に保存されているのである。だからその人を想像するということは身体の中にあるその人の「疑似現前」をその名前やその人の顔の形のような断片的要素ではなく、身体によって得られた「疑似現前」そのものとして呼び起こすことなのである。身体というものが「疑似現前」をわれわれの前につくりだす手段なのである。

 言葉を使うということもまさにこれと同じである。言葉を使うということには思惟によって考えると言うことが必要とされるのではない。「身体と空間とが私にとって存在し、私のまわりに張り渡されたある行動の領野をつくっていればそれで十分」(MP,p.300)なのである。言葉を使うという意志を行使するということは思惟によって構成するのではなく、「私のからだの刺された場所に向かって私の手がゆくように」(MP,p.300)言葉を使うということである。例えば他人の言葉を理解するというときに相対するのは「『表象』や思想ではなく、語る主体であり、ある一定のありよう(style detere)であり、彼が目指す『世界』」(MP,p.304)になる。その一定のありようを受け取るのがまさに身体なのである。言葉は常に身体に密着しており、「言葉は身振りである」(MP,p.305)とも言えるのである。

 人間は理性に従って世界を把握できるのではなく、世界の中に存在する人間が身体をインターフェイスとして世界との間に置くことによって接することが出来ると言えるだろう。人間社会というものにしても「もともと理性的精神の共同体であるというわけではない」(MP,p.110)のであり、身体をインターフェイスとして捉えようとしていくべきであろう。ただしここで強調しておかなければならないのは「身体」は「知覚の主体」(MP,p.339)であるとしても、あくまでインターフェイスなのであり、主体は私である。「身体」は私が世界に向かう際にいつも間に入ってくるインターフェイスなのである。  

結論

 本稿では身体をインターフェイスにすることによって共同体を捉え直すべきだと主張したが、身体という概念にもあいまいさが残っている。つまり、「身体」というのは精神と肉体との分離に対して融合した物、「両義性」(MP,p.172)を示しているものの、精神と肉体との分離という問題、「身体」が両方の意味を含んでいるという前に精神と物というそれぞれの意味が何故出てくるのかということに十分答えているとは言えないからである。そう考えること自体が精神と肉体を切り離して、理性によって、言葉によって考えることにどっぶりと浸かっていることの証になるのかもしれない。

 共同体を真理として理性によって捉えていくことをあくまでひとつの態度として仮定すると1で述べたが、メルロ・ポンティは違う態度をとっているように見える。つまり、共同体を真理として、当然あるべきものとして置いて捉えていこうとするのではなく、共同体があるという前提をまず括弧 に入れた上で、身体を通じて共同体そのものと接しようとするのである。だから共同体なるものから抽出したような共同性という言い方にしても無意味なものと評価するであろう。

 身体の概念を提出したメルロ・ポンティにしても、共同体を真とするような仮定から逃れられてはいないと思われるのは、やはり彼が言葉を使って表現しているというところにある。確かにメルロ・ポンティが言うように言葉による表現も理性や思惟によって導き出すのではなく、身振りのように語っていると言えるのかもしれない。しかし、言葉というものを他の人間が受け取るときには多くの場合、言葉で表現された世界の中に閉じこめられてしまう。受け取る側がいくら言葉を身体を通 して受け取るのだとしても、言葉の中に言葉を表現した人間のすべてのものが含まれているわけではなく、そこはやはり言葉によって構成された世界なのである。彼自身の言葉を借りるとするなら、言葉という経験したものに「二次的な」経験を上乗せすることになり、一次的に発した言葉そのものを経験することにはならないのではないかということである。そこには結局のところ理性によって世界を捉えるという考え方が入り込む余地が残っているのである。この論文自体が結局のところ言葉を使って共同体を捉えようとする働きかけそのものであるとも言える。  しかし、身体という概念は少なくとも言葉、理性だけによって共同体を捉えることはできないという指摘をしたという意味で十分示唆的ではないか。言葉による表現という限界のある中でも意味を持っているのではないか。本稿では詳しく検討できなかったが、形而上学批判を試み、言葉、理性が決して万能ではないことを「戯れ」という言葉を使って指摘しているデリダの主張と比較してみても、決して色褪せる主張ではないであろう。

文中の引用記号について。

K= Immanuel Kant, Kritik der praktischen Vernuft, 1788 邦訳『純粋理性批判』篠田秀雄訳、岩波書店、1961年。

MP= Maurice Merleau-Ponty, Phenomenologie de la Perception, Gallimard,1945  邦訳『知覚の現象学』中島盛夫訳、法政大学出版局、1982年。


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