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「ストーカー」に思うこと

1997年3月12日

 最近「ストーカー」という言葉が流行っているようだ。「ストーカー」をテーマにしたテレビドラマが同じ時期にふたつもあり、周りでも日常語になりつつあるような気がする。その使われ方には正直辟易するところもあるが。

 あまりにいろんなところで使われていて、明確な定義がどこにあるのかもよくわからないが、私が理解する限りでは「ストーカー」というのは「自分の想いが相手に通 じないことを受け入れられず、相手の意志を無視して無理にその想いを遂げようとする人」である。相手をつけ回したり、相手が嫌がるとわかっていることを敢えてしたり、端から見ればその行動にはかなり「無理」がある。そんな「無理」をしても当然相手の気持ちなど変わらないのに、それでも「無理」をしてしまう。どうやら相手を殺す「無理」までしてその想いを遂げようとする人もいるようである。

 ひとごとにように書いてはいるが、実際私自身にも「ストーカー」の影を見る。「ストーカー殺人」の心当たりはないが、どこかで「ストーカー」になっていたかもしれないと思うことはある。

 だから自分のことも含めて考えても、「ストーカー」には突き詰めて考えること、または自分の世界の中で煮詰まってしまうことの歪みがあらわれているような気がしてならない。どんなに想いをめぐらせてみたところでその想いが報われるとは限らない。それにも関わらず「ストーカー」は自分の世界の中で築き上げた想いが壊されることを信じたくないから、相手に拒まれても「無理」して想いを遂げようとしてしまうのではないか。想いという虚構をなんとか現実に当てはめようとしてしまうのではないか。

 もしくは自分の想いは報われると信じ込んでいるのかもしれない。しかし相手や他の人間からは想いは報われるという幻想にとらわれて、ただただ「無理」をしているようにしか見えない。「ストーカー」は想いという虚構を現実と見誤っているのではないか。

 こう考えると「ストーカー」もとかく「自分の世界」を称賛してきた近代の産物ではないかという気がしてくる。虚構の現実化という意味で言えば、急激に科学技術を進歩させそれを利用している近代人は「ストーカー」とそれほど変わらない。また「ストーカー」と同じように「無理」に「自分の世界」を現実に当てはめてきた部分もあったのではないか。

 「ストーカー」という言葉の流行は虚構の現実化にはどこか「無理」があることに多くの人が気付いていることの表れだとも考えられる。だからときに別 に何もしていない、相手に対する強い想いを持った人までが「ストーカーっぽい」と言われてしまうのも仕方ないような気がする。強い「自分の世界」にはやはり「ストーカー」の香りと共に「無理」を感じてしまうのだろう。

 この言葉が流行りで終わってしまうのか、根付いてしまうのかどうかは今の私には全くわからない。しかし流行らなくなっている頃には人間の生き方が何か大きく変わっているかもしれないなあなどと思うのはただの淡い夢なのだろうか?

(1997年3月15日加筆・修正)

 


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