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(1997年度春学期 研究演習前期レポートより)

「やはり幻想を考える」

5217 生島 卓也

  私の研究演習での最大の関心事は昨年志望理由書に書いた「幻想」ということから何ら変わっていない。またそのことを常に念頭に置き、考えながら前期を過ごしてきたつもりである。
 私には人間が現実を理解している、自分が生きる環境に適応しているとは思えない。少なくとも今までは人間の都合のいいように無理に環境を変えるために「幻想」を持たざるを得なかったと考えるのである。そして「幻想」に縛られているがゆえに常に現実とのずれ、歪みを持って人間は生きているのではないだろうか。
 例えば、フロイトは人間の衝動が「無意識」に自我を通して抑圧されており、その抑えつけられた衝動がしくじり行為、夢、ノイローゼとなって表れると指摘した。人間は「自我」という作りもの、外界に適応するための「(共同)幻想」を環境との間におかなければ生きられない。それでも環境との間には「幻想」を置いているにすぎないから、抑えられた衝動がしくじり行為、夢、ノイローゼという歪みとして表れるのではないだろうか。
 フロムの言う「疎外」にしても同じことである。貨幣や偶像崇拝の存在は現実と人間との間を埋めようとして「幻想」を人間が置いているということである。その場合もまた「幻想」は「幻想」であり、フェティシズム、倒錯に過ぎないから現実との間にずれは残るのである。
 またデカルトの「考えるゆえに我あり」にも「幻想」が窺える。デカルトは全てのものを疑った末に最後は考える自分と神の存在は残るとするのであるが、私はそれは現実を理解できないという認識の末に自分と神という「幻想」を置いたに過ぎないと考えている。私にはデカルトに自分と神の存在の十分な証明ができているとは思えないからである。
 ルーマンの世界の複雑性の縮減として意味、システムがあるという指摘、リップマンの人間は疑似環境に頼らざるを得なくなっているという指摘にしても人間が「幻想」に縛られているという認識と共通していると考える。
 ただ問題は「幻想」に縛られていると指摘だけでは将来の展望が開けてこない点にある。それだけでは単なるニヒリズムに陥る危険も持っている。また人間の行為の様々なところに「幻想」が存在する中で「幻想」はもはや「幻想」と呼べないほど現実に強い力を持っている。現実が「幻想」を作り出したのか、「幻想」が現実を作り出したのかということも簡単には言えない。それだけ「幻想」と人間の外部世界、現実、環境との関係は複雑である。後期も引き続いて「幻想」について、認識そのものも疑いながら考えたい。そしていずれは「幻想」の辿る道、未来について観察対象を絞って考えていきたい。「ヴァーチャル・リアリティー」、「大衆社会におけるカリスマ」もその候補として考えている。

(1997年8月1日加筆・修正)


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