彼女のひとりごと:スケッチブック編
photo:garland
「風が冷たいわ・・・」
見上げると空はグレーのドーム、彼女は一人、冬の砂浜を歩く
薄墨をはいたように灰色に染まる波は、その吐息さえにも寂しさをはらんでいた
手にはスケッチブック、中に描かれているのはあの人の微笑み
彼女は、一枚また一枚、破っては風に乗せ、波の彼方へと流していく
心の砂浜、彼女のその砂浜に残されたあの人の足跡
時の波が押し寄せても、なぜかあなたは消えることがなかった
あの星で飾られたテラスで、あなたのことは忘れたはずなのに
「だから、さらっていってほしいの」
彼女は一人、そっとつぶやいた
あなたの声、あなたの微笑み、きっとこの波が忘れさせてくれるから
「そして、私自身も・・」
彼女は、風に押されるように波に近寄る
波は彼女の足に触れ、そして引いていく
足跡を波がさらっていく、彼女の過去の証を消していく
これですべて、あなたの足跡も消えるのかしら?
彼女にも、それは分からない
スケッチブックの最後の一枚、彼女はそっとはぎ取り、風に流す
風にまい、波にさらわれるあなたの微笑み
彼女はそれが消えてしまうまで、見ていようと思った
「さよなら、あなたの思いで・・」
そういって、小さな仕草でキスをささげる
彼女の前を、少年が波に向かって走っていった
少年は、彼女が今「さよなら」をした、あの絵をつかもうと波を渡る
必死になって、一枚の絵を追いかけるその少年の姿を、彼女は追いかけた
「もういいの、だから戻ってきて!」
彼女は、心の底からそう叫ぶ
少年は、あれる波の中一枚の絵をつかむ、そして波の中、少年の姿は消えた
「おねがい、戻ってきて!」
彼女は、少年の消えたあの波めがけて走った
すると、少年は波の淵、一枚の絵を手にこちらに向かって手を振った
「やったよ、つかまえたよ!」
彼女は、すぐ脇まで来た少年の手をとり、優しく砂浜へと引いていく
「ごめんね、一枚しか拾えなくて・・」
少年は、申し訳なさそうな顔をして彼女にこう言った
彼女は、小さな仕草で首を横に振る
「じゃあ、これ渡したからね、ヘレンさん」
少年は、手にしたその絵を彼女に渡す
「どうして私の名前を?」
彼女は、突然出た自分の名前に驚く
「だって、スケッチブックの表紙に名前が書いてあるから、これ、お姉さんの名前でしょ?」
少年は、少し不安げに首を傾げた
彼女は、大きく開いたその笑顔で、うん、と頷く
「あなたの名前は?」
彼女は、あまり背の高くない、その少年の目にあわせこう聞いた
「みんなは、ナックって呼んでくれるんだ」
少年も、笑顔でこう答える
「じゃあねヘレンさん、ヘレンさんも早く着替えた方がいいよ、風邪ひいちゃうからね」
少年は、そう言うと走っていってしまう
彼女は、走り去る少年に大きな声でこう叫ぶ
「ありがとう、もう忘れないからね!」
少年は、振り向かず、手を振りながら走っていった
彼女は、少年が見えなくなるまで見送ると、少年に渡された、その一枚の絵を見る
あの人が、微笑んでいる
彼女は、その絵を残った表紙に挟み、脇に抱え歩いた
波の向こうではなく、砂丘の向こうの、灰色の空に向かって
風は向かい風、彼女の金色の髪をなでる
一歩、また一歩、砂を踏みしめ、彼女は歩く
その過去を刻みながら
彼女はこの時、「生きていける」「歩いていける」
心の中でこうくり返した
風は向かい風、彼女は歩いていった
あの空に向かって
あの、灰色の空に向かって
波の吐息の中、あなたは想い出を捨てたことがありますか?
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