彼女のひとりごと:誰のために編
photo:garland
「何してるのかしら」
壁の時計を見ると約束の時間を一時間も過ぎていた
ほおずえをつきながら指でテーブルをたたく彼女
その指はこつこつと不規則なリズムを奏でていた
「すまない遅れてしまって」
一時間遅れで彼は登場、少し息を切らして
彼女は彼のその表情を見ると、きっと唇をかむ
「私今日はいい勉強になったわ、この私を待たせる男がいるなんて」
指に光る一つ石のリング
指から抜き取り彼女はコップに沈ませた
ぴしゃ、音と共に水が弾ける
彼は濡れている顔もふかず
顔に当たって跳ね返った指輪を
黙ってテーブルから拾い上げた
黒髪の彼女、背を見せ言葉残さず去っていく
その足取りに怒りを込めて
店を出て石畳を歩く
街はいつものようにざわめきたち
駆け足の子供たちが脇を通り過ぎていった
この小さな石畳の道を歩いていると
ほのかに焼きたてのパンのにおいがしてきた
彼女はひととき足を止めた
今まで怒っていたことを一瞬だけ忘れていた彼女
子供たちの声でまた現実に戻った
マリエン、君は何を怒っているの?
マリエン、君はどうしてほしいの?
心の片隅から、何故か彼の声
答えを探す事を知らない彼女
自分の思いも整理できないでいる
髪を切ろうか、ルージュの色を変えようか
それが今までの彼女のすべて
でも彼にあった頃からそんな自分でなくなっていることに気づいた
綺麗に整えた黒髪
お気に入りの服 とっておきのルージュ
これらはいったい誰のため?
彼からもらった一つ石のリング、彼のためにしてきたはずなのに
そう思うと彼女は今来た道を引き返していった
足取りは軽く
唇には形だけ怒りを込めて
店にはいると彼はまだいた
まるで彼女が戻ってくることが解っていたかのように
彼女は彼の脇まで行き、一言投げつけた
「今日はおあいこね・・・」
彼女は自分のハンカチを手に取る
そして彼の顔を優しくふいた
「待ってたんだ、君がふいてくれるのを」
きっと言ってくれる彼の言葉
彼女は嬉しい心を隠し、彼に一言
「でも私、あなたが思ってるほどばかじゃないわ」
軽い微笑み混じりの彼女
彼は苦い顔をする
そして指輪をはめながらこう彼女にささやいた
「まけたよ君には、マリエン」
柔らかな風が吹く春の初めの出来事だった
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