あじさい色の空の下:少女編
手を伸ばすと届きそうなところにその人はいた。彼女は背を向けたその人に懐かしい香りを感じ、声をかけようとする。
追いかけた、でも届かない。その人は横顔だけこちらに向け微笑む、ふくよかな唇がとても印象的だった。
でもその人は突然現れた扉の向こうに、そして彼女にはその扉は開かなかった。立ちつくして扉の前、彼女は涙で頬をぬらした。
彼女がその丘に足を向けたのは三回目だった。その丘の上にある大きな木にもたれかかり、彼女は優しい寝息を奏でていた。
乾いてしまっていたが、今まで泣いていたことが解ってしまうようなあとが痛々しかった。
彼女は突然身を包んださわやかな風が現実の物であることに気づく。
彼女はゆっくりと目を開ける、するとあじさい色の空とひまわりの黄色が目に飛び込んできた。
「ふぅ」
何故か出た切ないため息、彼女は立ち上がりゆっくりと丘を下っていった。
涙のわけは彼女にも解らない、なぜだか自分をせめて、そして切なくなって、一人になって泣きたくなることが時々あった。
そんな時、彼女は部屋を出て一人になれるところを捜す。誰にもこの涙は見せたくなかったから、それが彼女の強い意志を物語っていた。
その丘に始めていったのは夏の初めのそんな時だった。海岸線を歩き少し行くと、ひまわりの咲く小道に続いた、隠れた道があることに彼女は気づく。
いつもの彼女だったら足を向けることはなかったのかもしれないが、この時ひまわりが呼んでいるように思えた。
ひまわりの小道は彼女を優しく迎え入れてくれた。夏の初めの強い日差しを遮ってくれて、柔らかな風を小道に満たす。
「さあこちらへ」
エルツが聞いたひまわりの言葉、彼女は言葉にならない言葉を返す。
「この向こうには何があるの?」
ひまわりは微笑むだけで何も答えない。
足を進めていくと、空を覆ったひまわりがとぎれ、あじさい色に染まった空が目の前に開ける。
少し丘になったこの小道、子供の背丈ではまだこの時、空しか見えてこなかった。
やがて目の前に開ける大きな丘、そのてっぺんには大きな木。
丘に上がると広がる空と海、そしてここへ迎えてくれたひまわりの黄色。彼女は何もかも忘れてそれに見とれる。
この場所がこの日、涙のことをすっかり忘れさせてくれた。
この日から彼女はこの場所に通うようになった。初めのうちは不思議に思わなかったのだが、何故かここでは自分以外の人がいない。
今の彼女にはこれも心地よさの一因だったのかもしれない。
またこの日も彼女はあの丘に足を向けた、手にはお気に入りのすみれ姫。子供には少し大きく思える、赤いリボンの麦わら帽子をかぶって。
エルツは丘の上の木にもたれかかり本を開く、ここからはわくわくするような気持ちを抑えてページをめくっていった。
次のページではすみれ姫が百年のまどろみからさめるから。
でもこの場所で読めない字にとまどう、彼女は何回もその場所を読み返した、この時声が出ていることも忘れてしまうくらいに。
「すみれ姫は百年のまどろみからさめるとすっと起きあがり辺りを見回しました。すると目の前に・・・目の前に・・・」
すると突然、初めて聞く声でこの後の綴りを聞かせてくれた。
「すると目の前に石鹸の泡のような物が浮かび、すみれ姫の前でぱちんとはじけたのでした。」
目の前に現れたのは真っ赤な唇がまぶしい、十五、六歳ぐらいの大人に限りなく近い訪問者。
この彼女は、その綴りを語りながらこちらに歩いてくる、目線を座るエルツにあわせ彼女は挨拶をした。
「こんにちは、続きを読んで」
エルツは突然の訪問者に驚きと恥ずかしさを隠せないでいる。
この時エルツに浮かんだのはこの言葉、そのまま言葉になるなんてエルツ自身も思わなかった。
「教えてもらわなくても解ったのに、よけいなことしないで」
エルツのこの言葉に彼女は少しひいてしまう、しかし微笑みを浮かべて言葉をつないだ。
「私もあなたくらいの頃この場所で同じ本を読んでいたのよ、読めなかった所もあなたと一緒、だから教えてあげたかったの」
初めてこんな私に優しい言葉をかけてくれる突然現れた彼女、懐かしさを不思議と感じる彼女の微笑み、心の中で何かが溶けて行くようだった。
「・・・ごめんなさい、私いつもこうなの、いつも・・」
目線をしたに落とし彼女の顔が見られない。
「いいのよ、私があなただったらきっと今のようなことを言ったと思うわ」
そんな私なのにこの人は私の中に入っていくようだ、エルツは心の中で思った。
他人よりも近く、まだいない親友よりも少し遠くに彼女がいるように思える。初めてあったのに優しい言葉と微笑みで迎えてくれた彼女。
そんな彼女とひととき一緒に本を読み、一緒に笑いあった。
時は加速してすぎていく、あじさい色に染められていた空はその色を変えていき夜が近づいていることを教えてくれる。
エルツは帰りの時間になったことに気づき寂しくなったが、誰にも見せて事がなかったような微笑みで「さよなら」を言うことが出来た。
足取り軽く丘を下るエルツ、そんなエルツにあの彼女はこう叫んだ。
「私たち友達になれるかしら」
この言葉にエルツはこう返した。
「もう友達よ」
エルツは振り返らず、大きく手を振り丘を下った。また会えるような気がしたから振り返らなかった。
暮れかかる空の下、エルツは優しい気持ちをいっぱいに抱え歩いていった。
「ねえエルツ、いつもどこに行くの?」
振り返るとお下げの彼女が少しおびえた仕草でたっていた。
「何でそんなことを聞くのユーロス」
そんなことあなたには関係ないでしょ、前のエルツならきっとこう言ったはずなのに、何故か違う言葉を返していた。
「えっ、なんでって・・・」
何故かこの子だけはいつも私に声をかけてくれる。そんな彼女が今までうっとうしく思えた。
ユーロスはそんなエルツにとぎれとぎれに言葉をつなぐ。
「だってね、帰ってくるときいつも微笑んでいるんですもの」
この時、自分自身をここまで見ていてくれる人がいることにエルツは気づいた。
でも、素直になれきれずこんな事をいってしまう。
「放っておいてちょうだい、私がどうしようと勝手じゃない」
また思い出すたび自分を悔やむ言葉、自分が一番嫌いな自分の言葉。
「そうね、ごめんなさい・・・」
ユーロスはそう言って寂しそうに去っていった。
ごめんなさい?誰にいってるの、なぜあやまるの? そんな思いだけがその場に残った。
その場から少しでも早く立ち去りたかった、その時目の前に浮かぶあの風景、あの丘のあの風景。
エルツは何も持たず、その場からあの丘に向かった。
丘の上、あの木の下、いつものように包んでくれる柔らかなあの風。
自分を忘れたくて、この木の下、エルツはいつか演じてみたいすみれ姫のセリフを奏で始めた。
「王子様、王子様は私を助けてどこに連れていってくれるの」
観客はあのひまわり、静かに私を見つめてくれる。舞台の上エルツはひとときすみれ姫になった。
「それはあなたの望む所、あなたの行きたい所に」
思いがけないセリフ、あの人の声が次のセリフを奏でる。
突然の王子様の出現に、エルツははセリフを忘れてしまった。
「何でお姉さんはこのお話を知っているの?」
忘れたセリフの代わりに出たのはこの言葉、この言葉にあの人はこう答える。
「私もね、ここに来て本や台本を読んで一人で芝居の稽古をしたことがあるのよ、夏だったら・・そうね、あのひまわりが観客たち、そしてこの丘が舞台、いろいろな人を演じていって自分以外の誰かになって、新たな人生を作り出していくの、これが楽しくていまだに演劇なんかやってるのよね。」
あのひまわりが観客たち、自分と同じ思いに何故か嬉しくなる。
大きくなったらこの人のようになれるかもしれない、エルツはこれが現実になればいい、とそう思った。エルツはこのように言葉をつなぐ。
「お姉さんも?私もよ、演じるって素敵なことよね、でも演じ方によってはいい子にも悪い子にもなれるのに、本当の自分を演じてみようとすると必ず悪い女の子になっちゃうんだよね。」
今まで思ってはいたが言葉にしたことはなかった、でも何故かこの人の前では素直に言うことが出来る。不思議な感覚がエルツをおそう。
「お姉さん、もし良かったらでいいんだけど・・私にお芝居教えてくれないかな・・だめ?それともいい?」
またこの人に会ってみたかった、逢って話を聞いてほしかった。返事が返るまでの時間、押しつぶされそうな不安がおそう。
でもあの人は目線を私まで会わせて微笑みいっぱいにこう言ってくれた。
「私あなたに教わったことがあるのよ、だからそのお礼に何でも教えてあげるわ。」
私から教わったこと?そのお礼?この辺がエルツには理解できなかった。でも何でも教えてあげる、この言葉で不安が喜びに変わった。
きっとこれはあの人の魔法、微笑みの魔法。 そんな魔法が心地よかった。
朝からなま暖かい雨が降り続く、エルツは雨傘を差さずにあの丘にむかった。傘を差さないわけはこの涙を誰にも見られたくないから。
素直になれない自分、あの子にあんな事をいってしまった自分がとても小さく写った。
喧嘩のわけは些細なこと、誤解から泥棒呼ばわりされた私、誰も振り向いてくれなかった私にあの子はかばってこう言ってくれた。
「エルツ、私信じてるから」
信じてる?ユーロスのこの言葉に引っかかる物があった。
あなたも私のことを疑ってるのね、信じてくれるだけでも嬉しいはずなのに、不安感からだれも寄せ付けたくなかったのかもしれない。
「私たちまだ子供なんだから、こんな事で悩むこと無いわ」
ユーロスはこんな私の手を握り、不安そうな顔でエルツを見つめる。
エルツはその手を乱暴に払い、怒りと不安をユーロスに投げつけた。
「子供?私は世間一般で言う子供だなんて思ったことはないわ、子供って言うのはね・・・・愛されて・・信じてもらって・・・でも私にはそんな人なんか一人もいなかった、あなたとは違うの、いつも一人なの!」
この時「トキン!」と心に痛みを感じた。瞼がおさえたくなるほど痛かった。
雨の中、エルツはそのまま走ってその場を離れていった。残してきたユーロスのことが気になった、そしてそのことで涙が流れた。
信じてくれるといったユーロス、それを素直に受け取らず仇ではねつけてしまった事に悩むエルツ、悪かったのは私なのに。
いつものひまわりの小道、ひまわりは首を傾げ微笑むことをしなかった。そんなひまわりがいっそう悲しさに拍車をかけた。
丘の上、木にもたれかかりあのときのユーロスの顔を思い浮かべる。
悲しそうな顔、不安に押しつぶされそうな瞳、まるで自分を見てるみたいで悲しかった。
そんな彼女に投げつけた言葉、自分が言われてるようで悲しかった。
涙は冷たく頬をつたう、この木の下では声を上げて泣きたかった。こんな私消えて無くなってしまえばいいのに、本気でそう思った。
「どうしたの?こんなになって・・・」
優しい言葉がエルツを包む、あの人だ。彼女はハンカチでエルツの顔を拭くと、エルツの脇に座り肩をそっと抱きしめてくれた。
「なんでもないの・・なんでも・・」
エルツには、この人に見せた涙が恥ずかしかった。
「でもなんでもないのに泣くことはないでしょ」
「いいのほうっておいてちょうだい」
エルツは泣くことをやめず、声をかみ殺すようにしてこういった。
「私はね、あなたの味方だから・・あなたの力になれたらって・・」
彼女はエルツを抱きしめ言葉を続ける。とめどなく流れるエルツの涙、今まで冷たく感じていたのに今は柔らかな暖かさで頬をつたう。
その涙は抱きしめてくれるあの人の首筋に、線を描きながら流れていった。
「もう何があったかなんて聞かない、だから私にあなたの悲しみを半分分けてね、それで私は嬉しくなれるから」
自分の悲しみを受け取ってくれる、この言葉で何かが優しく溶けていくような気がした。
「あり・・が・・とう」
素直に出たこの言葉、優しくこの言葉を受け取ってくれたこの人。懐かしさをはらんだ、かすかな香水の香りが、今のエルツには心が温められるようだった。
そして抱きしめてくれるこの人に何でもいってしまいたかった。
自分がどれだけ悪い女の子で、あなたのように優しくなれないって事を。少しでも言葉にしたかった、でもうまく言葉にならなかった。
「今度も私が悪かったの、でもね、素直になれないの・・いつも」
エルツはは必死にとぎれとぎれに言葉をつなぐ。
「いいのよ、もういいから黙って泣きなさい、女の子にはね、女の子にしか流せない涙があるのよ、だから、ね。」
エルツは黙って彼女の言葉を受け取り「うん」と頷いた。
二人は雨の中ひととき抱き合って過ごした。
あの日から余りあの丘には行かなくなった。あのころの、悪い女の子だった自分を思いだしてしまうから。
あの人と抱き合った日、エルツはユーロスに会いに行った。ユーロスに謝るために。
びしょぬれのエルツを見て驚くユーロス、でも彼女は今までのことが何もなかったかのようにエルツを迎えてくれた。
エルツは勇気を振り絞ってユーロスに魔法のあの言葉を言うことが出来た。
「ごめんなさい・・・」
頬笑むユーロス、この時本当に信じあえる人がここにいることに気づいた。エルツはこの時とても嬉しかった。
なぜだかこの日、あの丘に行ってみたくなった。特に理由があるわけではなかった。
「なぜだか」が本当の答え、エルツはあの丘に向かって歩き出した。
空はあじさい色、優しい風もいつも同じ、いつもと違うのはあの人がこの丘に来ていることだった。
あの人の後ろ姿を見るとなんだか嬉しくなり足取りが速くなる。
「こんにちは、お姉さん」
少し驚いたあの人の顔、でもエルツにはとても美しく見える。
「あら、気づかなかったわ」
彼女にも笑顔が開いた。
エルツはこの人に聞いてみたいことがあった、どうしたらこの人のようになれるかと。
「お姉さんに質問があるの」
「しつもん?」
「あのね、私もお姉さんみたいに綺麗になれるかな・・って」
こんな事を聞く自分を、この人はどのように思っているだろうか。そう考えるとなんだか恥ずかしくなった。
「私みたいに?そうね、あなただったら私よりももっと綺麗になれるわよ」
「お姉さんみたいな口紅、私にも似合うかな?」
彼女はポケットからルージュを取り出し、エルツの唇にひいてみる。
小さな鏡の中の、エルツにひかれた真っ赤なルージュ、それを見たエルツはあの人に一歩近づいたような気がした。
「ほら、今でもこんなに似合うわよ」
少し照れながら鏡の中の自分を見つめるエルツ、顔の角度を何回も変え、今まで見たこともなかった大人に近づいた自分に、自分自身驚いた。
「早く大人になりたいわ」
「焦らなくても大丈夫よ、あなたなら素敵な大人になれるから」
「本当!」
彼女は微笑みながらエルツにうなずいた。彼女の微笑みの魔法が自分にも使えたら、エルツはそんなことを思った。
「そうだ、私もう帰らなくっちゃ!」
帰りの時間が近づく、こんな時、時の速さを恨んでしまう。
エルツははあわてて帰り支度を始めた。
「口紅落とさないとね」
エルツは残念そうに唇を拭き始めた、彼女はエルツのポケットに自分のルージュをそっと入れる。
「これ、あなたにあげるわ、あなたにはかけがえのない物をいくつももらってるから、こんな物じゃ足りないくらいだけど」
エルツはかけがいのない物をもらったのは私なのに、と思い一瞬不思議そうな仕草をしたが、ポケットのルージュを手に取り嬉しそうにこういった。
「ありがとう、大事にするね!」
エルツは手を振りながら丘を下っていった。
「ねえ、あなたの名前教えてくれる」
あの人は小走りに丘を下るエルツにこう叫んだ。
「私は、エルツって言うの、それじゃまたね」
エルツはこう言うと、ひまわり畑の小道に向かって丘を下った。
エルツは振り返りあじさい色の空に顔を向けた。柔らかな風が彼女を包み、今まで忘れていた「何か」を見つけたような気がした。
早く大人になりたい、そんな想いがエルツを包んだ。
いつかきっとあの人のように、優しくそして美しくなりたい。 もしかしたらなれるかも、そう思い見上げるとひまわりが微笑んだ。
「きっとなれるよ」
そんな言葉をこの時聞いた。
エルツは両手をいっぱいに広げ、向こうに広がる青い海に向かって歩いていった。
風は向かい風、彼女を包み、そして去っていった。
空はあじさい色、彼女は歩いていった。
大きな希望を胸に、大きな空を体に受けて。
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