Wind Dance・・・君と出会う場所



                              photo:garland


彼女は捨てようとしているのは夢?希望?それとも・・・・・
きっとそれは今までの私、私の影



 歩いていくと足下にからみつきそうな高さで草は茂っていた。
 その中の川のような小道をヘレンは歩いていた。草は水面のように波打ち、風の形を作っている。
 ヘレンはピンクの麦わら帽子を片手でおさえ、緩やかな坂の小道を風に身を任せながら、初夏を思わせるあの白い雲に向かって歩く。
 見える範囲すべて草原のこの場所、あるのはただ言葉なしに広がる退屈な荒野と、空のかなたから聞こえてくる大気の移動音、そしてそれによって奏でられる草のすれる悲しげな声だけだった。
 なんの目的のないまま足を進めるヘレン、でもあの雲の向こうまで歩けばきっと自分の求めている何かがあるような気がした。言葉のないまま丘の頂点を見つめ足を進める。 
 突然の突風、彼女を包みその頬を抜けていった。

 風が彼女の帽子をさらっていった。

 彼女がこの場所に来たのには、とくに理由という理由はなかったように思われる。
 トリフェルズ校を卒業した後、絵の勉強を続けるために王立芸術院に進んだヘレン、彼女自体競争心の弱い性格だったためか、学内での競争に疲れ、いつの間にか与えられた課題のみ提出するだけになっていた。
 自分自身絵を描かなくなった彼女、でもけして絵への情熱が冷めたわけではなかった。ただ、自分自身描きたい物が見つからないジレンマに疲れて、この世界から少しの間身をとうざけたかったというのが一番近いだろうか。
 街のざわめきから離れ、叔父の経営するペンションに身を移して2ヶ月、丘以外何もないが何故か観光地として知られているこの土地。
 こんな所でも彼女には、別の価値観を見つけるのには、あの街よりも良いように思えた。
 もしかしたら絵を忘れるため? 彼女自身、このもしかしたら、と言う心にこの時正直に向かい合おうとしていたのだろう。
 白いエプロンドレス調の服に身を包んだヘレン、行きと違うのはお気に入りのピンクの麦わら帽子がないこと、そして何故かうつむいて遠い目をしていることだった。
 「ただいま」と小さな声を立て扉をぬける彼女、そんな彼女を見て叔父は心配そうに彼女に話しかけた。
 ヘレンは叔父のそんな顔を見ると、なんだかいたたまれない気分になる。彼女はそんな叔父に向かって「心配しないで」と言葉にはならなかったが心の中でこう答えた。彼女の表情はその心を素直に写し、かすかな微笑みに変わった。
 叔父の表情にも軟らかさが戻る、彼女はそれを見ると叔父にこういった。
「風がね、風が、帽子をさらって行ってしまったの」
 叔父はお気に入りだったのにね、と彼女に言葉を返す。
「でもね、青い空に吸い込まれていくピンクの麦わら帽子、なんだかとっても素敵だったのよ、無くなってしまったのは寂しいけれどね」

 ヘレンは自室に戻り窓際の椅子にゆっくりとかけた。
 その彼女の目の前には、ずっと白紙のままのスケッチブック、外に持ち出すことが無くなってどれくらいの時がたっただろうか。彼女は白紙のスケッチブックを手に取り数枚めくる。何か見えてきたら、でも何も見えないままでいてほしい。そんな心を彼女は抱えている。でもここにあるスケッチブックはそんな彼女のかすかな希望、描く動機が心の底からこみ上げてくるのを彼女は待っていたのかもしれない。
 いつ訪れるか見当もつかないこの瞬間、その瞬間すぐに真っ白なもう一つの心に描き写すことが出来るようにと、手元には数本の鉛筆と、スケッチブックをおいていたのだろう。
 彼女は持っていた絵の道具、そのほとんどをこの土地に来る前に処分してしまった。残ったのはここにある鉛筆とスケッチブックだけ。
 すべて捨ててしまおう、最初はそう想った。でも何故か、今手元に残ったこれまで捨ててしまうとすると、今までの自分をすべて否定してしまっているようで怖かった。一時期は絵は私のすべてだと想ったときもあったから。
 白紙のスケッチブックを抱え、ヘレンは窓にもたれかかるようにして少し眠った。初夏を想わせる陽は窓の斜め向こうまで下がり、碧から朱色のグラデーションを作り時とともにその明るさを失っていった。

 翌日、ヘレンは昨日と同じ川のような小道を歩いていた。
 昨日と同じ風景が丘の向こうまで続いている。ヘレンは帽子をかぶらずに小道を進んでいる。
 目線をあげると、丘の向こうの白い雲を背に、麦わら帽子をかぶった人影が見えた。立ち止まってよく見ると、昨日無くしたあのピンクの麦わら帽子と同じシルエット。彼女は少し早足でその影を追うことにした。
 麦わら帽子のことよりも、ただそのシルエットにむしょうにひかれる物があったから。
 さっき人影のあったあの場所に着く、そこでヘレンは周りを見回した。すると左手の方に、さっきの人影が大きな切り株にもたれかかるのが見えた。
 ヘレンは元の速度で足を進め、その人影に近づいていく。ヘレンは切り株の後ろに回り人影の後ろにつくようなかっこうになる。それに気づかない麦わらのその人は、少し小さめのスケッチブックを開き、碧に染まった筆を大きく踊らせていた。
 そんな人影に「こんにちは」と彼女の一言。
 ピンクの麦わら帽子が彼女のその声を聞くとすっと振り返る。帽子の下に影になって見えたその顔は、褐色の肌の十二、三歳くらいの少年だった。
 少年は帽子の下の長い黒髪を風になびかせ、不思議そうにヘレンを見ていた。
「こ・・こんにちは・・」
 とまどいのある返事がヘレンに返ってくる。ヘレンはその少年の脇に座ると、スケッチブックをのぞき込み少年に話しかけた。
「綺麗な空ね、でもなんで空と地平線しか描かないの」
 少年は考えるまもなくこう答える。
「空と丘が描きたかったから・・・」
「でも空と丘以外何も描かないの?」
「今は空と丘が描きたいんだよ」
 そんな少年の答えに、ヘレンは言葉を失った。今の彼女にとって「描きたいから描きたい」こんな感覚は心の中から消えていたから。
 少年は、まるで彼女の存在が無いかのごとく筆をはしらせ始める。丘の上にかたどられた、青い影でその存在感を大きくしている雲を、少年はためらいもなく描き始めた。
 ひとときそれに見とれているヘレン、しかしふとしたことで目線は、少年の麦わら帽子へ。それは昨日風がさらっていった、あのピンクの麦わら帽子だった。ヘレンは好奇心から少年とこの帽子との出会いを聞いてみたかった。
「ねえ、その帽子どうしたの?」
「これかい、これは昨日この場所で絵を描いていたら足下に落ちてきたのさ、かぶってればきっともとの持ち主が声をかけてくれると想ってね・・・・ってことは、もしかしたらこれ、お姉さんの?」
「昨日ね、昨日風にさらわれてしまったの、でも良かったわあなたのような人に拾ってもらって。」
 その言葉のあとのなぜか素直な笑顔、自分でも不思議なくらいの。
「よかった?」
「だってあなたにとっても似合ってるのですもの、私よりさまになってるわ」
 その言葉を聞くと少年は恥ずかしそうに少しうつむく、帽子を手に取りヘレンに差し出した。
「でも返さなくちゃ」
「あのね、もし良かったらあなたにかぶっていてほしいの、いいかな?」
 少年はとまどった表情でヘレンを見る、ヘレンの微笑みは少年のとまどいを無くし、少年じたいも真っ白な歯を見せ微笑む。
「大事にするね!」
 そういった少年の褐色の顔がとても印象に残った、真っ白な歯がまぶしく見えた。

 その日から数日間、寂しげな雲があたりを覆い、灰色の雨であたりを濡らしていた。ヘレンは窓から見える波を描くような地平線を見つめて、小さなため息をついた。
 窓ガラスには彼女の吐息でその部分だけ曇りガラスになる。そして一言。
「私、雨って嫌いよ」
 誰に言ったわけでなく、自分自身の言葉。その言葉のあとなぜかあの少年のことが心に浮かんだ。
「今頃なにをしてるんだろう、まだあの場所で絵を描いているのかしら」
 別に心配する理由なんて無いはずなのになぜか気になる。
 ヘレンは向かい合う窓ガラスに息を吹きかけガラスを曇らせる。曇らせたガラスに人差し指で描く麦わら帽子のシルエット。何だかちょっと描いてみたかった。そしてそのことが何だか少しおかしかった。
 その日の夜、叔父に呼ばれ外にでると、今までの天気とは裏腹に夏の星座が目前に横たわるように広がっていた。叔父は自慢げにこの空について話し続ける。
 町中で見る空との違いに驚き、まるで真実をかいま見たような衝撃が体を貫く。この土地に来てもう2ヶ月もたったというのに、叔父に言われるまで夜空を眺める余裕さえ持てなかった自分が、何だかとても小さく思えた。
「おじさま、空にこんなに星があるなんて私今まで気づかなかった。」
 叔父は笑顔で彼女の言葉にこたえる。
「今まで私が眺めてきた夜空は、ここに比べるとまるでたわいない作り物に思えるわ。」
 そこまでヘレンが言うと叔父は嬉しそうに星座たちをつなぎ始めた。
 ヘレン自身、星座たちの神話はよく知っていたが、改めて聞いてみると新たな感動を心に感じた、それと同時になぜか悲しみも感じた。
 この悲しみはなに?
 自分の心にといてみた、きっとそれは知りすぎたことの悲しみ。知ってしまったときになくす、なにも知らなかった頃の自分。ヘレンは子供の頃の自分を思いだした。
 子供の頃からヘレンは、自分の部屋の窓から見える星たちを眺めてきた。そして自分で星たちをそれぞれつなぎ、数々の物語をつむいでいた。
 ある日の夜空は鳥たちが羽ばたき、そしてある日は魔物たちが行き交う、そして次の日もヘレンの思いつく物全てが彼女の物語で眠りについた。そしていつの日か大人になり、多くの物を知り、星座たちは決まった形にしか見なくなってしまった。そしてあの日の物語はもう帰らないものに。
「ねえ、おじさま、なにも知らなかった頃の自分を取り戻してみたいとこの星たちを見て思ったこと・・・あります・・か」
 突然のこの言葉に叔父は言葉を飲み込む、そして少し考えゆっくりと首を縦に振った。叔父はその瞳を夜空に戻し、黙ったまま星たちを眺めていた。
 ヘレンも黙ったまま夜空を眺めた。
 天の川を横切るように、星が一つ流れた。

 次の日、彼女はあの少年と会ったあの場所に足早で向かった。
 あの少年にどうしても聞いてみたいことがあったから。 きっとそれは些細なこと、あの少年にとっては些細なこと。ヘレンはあの少年の答えを聞いてみたかった。
 あの場所に着くと前と同じ場所に少年は座っていた。あの時と同じように小さなスケッチブックを抱えて。
「こんにちは」
 あの日と同じ挨拶、帰ってくるのも同じ言葉、あの時と同じようにとまどいをはらんで。
「こ・・こんにちは・・」
 ヘレンは彼の横に腰を下ろし、彼のスケッチブックをのぞき込む。すると描かれているのは前と同じ風景、前出会ったときと同じ風景。
 完成しない風景画にヘレンは少しとまどった。
「前と同じ風景なのね・・・」
 少年は不思議そうにヘレンを見つめこう答えた。
「前と同じ風景だよ」
 帰ってきたのは予想外の言葉、でも少年の抱えるその風景画は、ヘレンにやさしく入り込んでいきそうなくらい、柔らかな色調で描かれている。いつまでも未完成かもしれないけども。
 でもそれを眺めているだけで、少年の気持ちが簡単に理解できそうだった。だから聞いてみたかった。
「ねえ、あなたに聞いてみたいことがあるの」
 少年はなにも聞こえていないかのように筆を動かしている。ヘレンはそれでも言葉を続けた。
「あなたはいつも描きたい物があるの?」
 少年は黙って首をを縦に振る、ヘレンは質問をくり返す。
「あなたの絵を描く目的ってあなたにとって・・・」
 ヘレンはここまで言うと言葉のトーンが下がっていった。自分自身少年に聞いているこの言葉が、よく分からなくなっていたから。
 少年はひととき考えるように筆を止めたが、また筆を動かし始めた。
「・・・目的なんて・・ないよ、ただ描きたいだけ、ただそれだけ。」
 前逢った時と同じような答え、きっとこれが少年の偽りのない答え。
 これを聞くとヘレンは少年の見るあの丘のラインを一緒に見ていた。
 いつもの場所で逢って、何となく交わすとぎれとぎれの心地よい会話。 それがヘレンと少年の全て、こんな日が何日続いただろうか、ヘレンはいつものようにあの場所に向かった。
 そしていつもの場所、あの切り株の脇、少年はスケッチブックを開く。とぎれとぎれの会話はいつものように続き、少年の筆は止まることを知らない。
 ヘレンがいつも不思議に思うのは、いつまでたっても完成を知らない少年の描く絵。少年と別れる時まで描かれていたはずの場所、次にあったときにはその場所はなぜか空白となっていることがよくあった。
 このことについて少年に何回か聞いたことがあったが、少年は微笑むだけでなにも答えない、ただ言えることはほんの少しずつだけれども前逢ったときよりも必ず進んでいることだけだった。
 いつか完成する絵、でもこのまま完成してしまうともうこの少年とは会えなくなるかもしれない、そんな不安が日に日にヘレンの心を襲っていった。つまらない思いこみかもしれない、でもなぜかそんな予感がした。
 
 あくる日、ヘレンは思い切って自分のスケッチブックを、あの場所、少年のいるあの場所に持ってでた。少年と並んで描くあの地平線、こうすることで昔ヘレンの心の中にあった何かが戻ってくるような気がした。
 何だか懐かしくて暖かくて、そして心地よいこの感覚、まるで少年とスケッチブックが無言のまま教えてくれているようだった。
 今までなにを描いても心の中は空白で埋められていた、それが怖くて描くことを忘れようとさえ考えていたのに。でも今は違う、今までと違う何かが心を満たしていき、新たな何かが自分の中で生まれようとしてる。そんな気分だった。
 その日別れるとき、少年と一つの約束をした。それは、お互いの絵が完成したら交換することを。
 この約束を交わしてからは、少年の絵の完成度は加速度的に進んでいった。ヘレン自身の絵も鉛筆で納得できるだけ線を描き、少年にささげる事だけを考え完成を夢見た。
 ヘレンの描く久しぶりの絵、彼女はこの絵になぜか色を付けたくなかった。もしかしたらこれは、彼女の心を描いた結果だからかもしれない。
 彼女の心を満たしていた白と黒の何かが、マーブル模様のように解け合い、自分の手を通じてスケッチブックに移されていく。彼女はそう感じていくようになった。
 そして描き進むたび広がる色の付いた幸福感、今まで満ちていた霧が晴れて満天の星空が目の前に現れた、そんな晴れ晴れした幸福感だった。

 数日後、ヘレンの絵が完成した。
 そして次の日、少年の絵が完成した。
 初めてあった日のような、心地よい風の吹くいつもの場所。二人はスケッチブックからその絵をはがし、お互いの絵を手に取り交換した。
 ヘレンの手はなぜかかすかに震えていた。その理由は彼女にはよく分からない。ただ何かを失いそうで怖かった。
 その色をどんどん赤くしている西の空をバックに、少年はさよならを告げた。ヘレンには少年がシルエットに隠れて空の中の黒い影にしか見えない。麦藁帽子のシルエットがとても印象的だった。
「ねえ、また一緒に絵が描けるかしら、また会えるかしら・・・」
 すると少年は少し首を傾げこう答える。
「今の僕はもう、これからのお姉さんとは会えないんだ」
 突然のこの言葉にぎゅっと胸が締め付けられる。のどにこみ上げる痛みを感じた。
「今なんて・・・」
 嘘だと信じたかった、きっと嘘だと。
「僕は・・僕はね、お姉さんの心にすむ悲しみの影、寂しさという冷たい心、もうおねえさんからでて行かなくちゃならないんだ、だから悲しまないで。」
 少年はそこまで言うと、砂のように風にさらわれ、その姿を消していった。
「さよなら・・・」の一言を残して。
「待って、行かないで!」
 きっとこの言葉はあの少年には届かない、少年が消えたあとその場に残ったのはヘレンの手にする少年の絵と、少年のかぶっていたピンクの麦わら帽子だった。
 麦わら帽子は風とともにワルツを踊り、ヘレンの足元に落ちてくる。
 ヘレンはその麦わら帽子を手に取り、そっと頭に載せた。少年のぬくもりがかすかに残っていた。

 そして数日後、ヘレンはあの川のような小道を歩いていた。
 お気に入りの白い服、お気に入りのピンクの麦わら帽子。
 目前に広がるのは、彼女の夢のように透きとおり、果てしなく続く空。
 彼女は進む、両手を大きく広げ、体いっぱいに風を受けて。
 突然の突風、彼女を優しく包み、その頬を抜けていった。

 風が彼女の帽子をさらっていった。




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