第5講 準備作業で、すべてが決まる!

 本学にテニス同好会というのがありますね。メンバーの何人かの人が、ぼくのこの「文章表現法」の講義を受けてます。つい2日前でした。彼女たちの練習に参加させてもらいました。無謀ですよね。
 ぼくたちは仲間とテニスコートに出るときは、もう、いきなりネットをはさんで打ち合うのですが、同好会とはいえ、本格的にやってる人たちというのは、やっぱり、ちょっと、ちがうんですね。
 まず最初にストレッチを十分にやる。そして次にはコートの周りを10周ぐらい走ります。それからネットをはさんで軽くボレー、ボレーで肩慣らしをする……。手順というのがちゃんとあるんですね。準備運動がけっこうキツかったけれど、躯の起ちあがりは、ものすごくスムーズでした。ひさしぶりに不思議と躯が動いて、たいへん爽快でしたよ。

 何でも手順というか、準備作業というものが大事なんだなあ……と、つくづく思いました。そんなわけで今日は、文章を書くうえでの「手順」プロセスについて考えてみようと思います。
 文章を書くことを仕事にしている人たちは、みんな自分なりの「手順」というものを持ってるんだね。ひとりでにそれが頭のなかにキチッと入ってる。つまり自分なりのノウハウを持っているわけです。だから材料さえあれば、いきなり書き出しても、それなりに文章は書けます。
 けれども、みなさんのように、あまり文章というものを書き慣れてない人が、いきなり原稿用紙に向かっても、なかなか書くことができません。書き出すまでに、それなりの準備運動が要るように思います。つまり「文章を書く」ために、どのようにして頭を起ちあげてゆくかという話を、これからやろうというわけです。

 あんまり理屈ばっかりならべたら、きっと居眠りするだろう。それにやっぱり判りにくいだろうから、具体例でお話しましょう。ぼく自身が原稿を書くまでに、いったい、どのような準備運動をしているのだろうか。今日のこの時間に話をするのを機会に、あらためて、ちょっと考えてみました。
 だいぶまえの話ですが、ある雑誌の編集部から「新島襄と私」というテーマで原稿を依頼されたことがあります。あれ、あれ、みんな、新島襄って誰?……というような顔をしてますね。詳しく説明する時間はありませんが、同志社大学の創立者です。江戸末期に北海道の函館から密航してアメリカに渡ってます。ボート・ピープルの走りとでも言っておきましょうか。ほぼ1年かかってボストンに到着、明治になってから帰国して、日本で初めてキリスト教主義の学校をつくりました。そういう人です。もっと詳しく知りたい人は、図書館にでも行って、ぼくの書いた『新島襄とその妻』を拾い読みしてください。
 「新島襄と私」というテーマですから、ぼく自身との関わりで新島襄について何か書け……というのが依頼の主旨です。枚数は3枚半ですから、約1400字見当です。だから執筆者のぼくは、その二つの条件を頭にいれて、何を書くかを決めなければならない立場におかれたというわけです。

 まず最初に考えたことは、〈新島襄という人物のどこに焦点をしぼって、何を書こうか……〉ということ、つまり〈執筆者であるぼく自身〉との関わりで、どんなテーマを選ぶかということでした。それも3枚半という分量にふさわしいテーマを見つけなければならないわけです。
 ぼくは今までに「新島襄」について、本を2冊も書いています。だから、よけいにやっかいなんだよね。何かあるようですが、いざ……となると、何を書いていいのか、まるで見当がつかない。なぜかと言いますとね、こういう場合、ぼく自身が興味を持てる内容をみつけなくては、書こうという気がおこってこないんです。そんなわけで、しばらく何を書こうかと考えこんでいました。
 そんなある日、たまたま関西から学生時代の友だちがやってきたんです。実は酒を飲むことも、麻雀もラブレターの書き方も、そいつが教えてくれたんです。今ではある中堅会社の取締役になっております。とつぜん電話がかかってきて、東京勤務になったというんです。神田の赤提灯を待ち合わせ場所にしたのですが、なんと運転手つきの社用のクルマを乗り付けましたよ。東京の地理はさっぱり判らんから、しゃあないやろ……と、平然としてるんです。とんでもないやつです。かれと会って、久しぶりに酒を飲んだのですが、そのとき、ふいと頭をかすめるものがあったんです。
 神田界隈にはよく出かけるのですが、一ツ橋に新島襄の生誕碑があるんです。学士会館の南側ですが、そこに〈新島襄先生生誕の地〉と彫り込んだ石碑がある。ぼくは機会があるたびに、いろんな人をそこに連れてゆきました。ところが、ほとんどの人は新島襄が東京生まれだということを知らないんですね。えっ……というふうに不思議そうな顔をするんです。安中藩士だったから、とうぜん群馬県だと思っている。ところが、どっこい、世の中はそんなに甘くはありませんよ。安中藩士だからといって、みんなが安中に住んでいるわけではない。
 江戸時代には参勤交代という制度があった。みんな知ってるよね。大名の女・こどもはみんな江戸に住むように幕府から命じられていた。お殿さまは1年ごとに国元と江戸とを行き来するけれども、奥さん、こどもは江戸から離れてはいけない……と。つまり人質にとられていたわけ。だから、全国の大名という大名はすべて江戸に屋敷をもっていたわけです。
 新島襄の父親はその江戸屋敷詰の武士だったんですよ。だから、息子の襄は東京生まれの東京育ちなんです。神田の生まれ……だから生粋の江戸っ子だというわけです。みなさんが知らないのは無理もないけど、同志社出身の人でも、あんがい知らない人が多いんです。
 そんなわけで、重役さんになっているぼくの友だち、かれを新島襄の生誕碑まで連れていってみたんです。だいぶ酒がはいってましたがね。酔い覚ましにちょうどいいや……と、いうわけで、夜ふけの街をふらふらと歩いていったんです。あれ、新島襄は、こんなところで生まれとったんか? かれは不思議そうな顔をして、しばらくボケッと考えこんでいましたね。そのときに、ぼくは「よし、生誕碑のことを書いてやろう」と心にきめました。

 それでは、具体的に、どういう準備をしたか。順を追ってお話しましょう。いいですか。モノを書くうえでもノウハウみたいなものを明らかにするのだから、よく聞いてください。いいですね。こんな話は学者先生からは聞けないかれね。
 最初に何をやったか。まずそれから何日か後に神田に出かけたとき、コンパクトカメラで「生誕碑」の写真をとってきました。ついでに近くの古本屋さんで、江戸の古地図の複製版を買いました。1500円ぐらいでしたかね。安中藩の江戸屋敷の位置とか、周囲にはどんな武家屋敷があったのか、地図のうえで再確認しておきたかったんです。江戸城の一ツ橋門に近いその周辺は武家屋敷町です。登城する武士たちが毎日、はげしく往来していたはずです。地図をみていると、そういうことが分かってくるわけです。
 それから書庫をひっかきまわしました。安中藩江戸屋敷の見取り図が書庫のどこかにしまってあるのですが、どの段ボールケースなのかさっぱり憶えていない。探すのにほとんど半日かかりました。
 こういう材料をそろえて、まず判ったことを全部メモに書きました。同志社出身者でも〈生誕碑〉を知らないこと。不思議そうな顔をしたぼくの友だちのエピソードも、きっちりとメモに書きました。もちろん調べたことの全部は書けません。撮影してきた写真とメモをながめながら、何を書いて何を捨てるか……。考えながら、またメモをつくったんです。ほとんど落書みたいなものですがね。「考えたこと」「発見したこと」は、どんなことでもメモに書きました。
 そんなことを繰り返してますとね、だいた書くことがみえてくるんです。不思議なものですね。もちろんそれまでに下準備を十分やっています。地図を買ったりで経費もつかってます。
 いよいよ執筆にかかるわけですが、そのときには、おおまかに構想がかたまっています。全文までは見通せないけれども、文章のだいたいのプロットや流れが見えてきている。ここまできたら、あとは写真とか地図、メモなんかをみながら書きすすんでゆくだけになります。
 たったの3枚半なんだから、そんなものは準備なんかしなくても、すぐに書けるだろうと思うかもしれないけど、「書く」仕事をしているぼくでさえも、そんなにかんたんではないんです。3枚半の原稿でも20枚ぐらい書けるだけの中身を用意している。そのうち作品として読者にみせるのは6分の1ぐらいですから、いわば氷山の一角をみせるというわけです。だから水面下に沈んでいる部分のほうがはるかに多い。つまり水面のうえに現れている3枚半の作品は、全体で20枚になるぐらいの情報量に支えられているというわけです。情報量が多いほど作品には厚みが生まれてくる。3枚半の作品を書くときに、3枚半の情報量しかなければ、きっと作品は痩せたみすぼらしいものになるでしょうね。そういうものなのです。
 それはともかくとして、3枚半の雑文でも、これだけのプロセスを経て、原稿はできあがる。ぼくが言いたかったのは、まさにそういうことなんです。

 参考までに、ぼくがそのとき書いた原稿の全文を例文としてプリントしておきました。作品としてのデキの良し悪しともかく、今日の講義の内容を理解してもらうには、ふさわしいのではないかと思って選び出しました。
 自分の作品を眼のまえで読まれるのは、何か「サラシもの」になっているようで、気色が悪い。だから、ぼくは退散します。だけど、みなさんは、今日のぼくが喋った内容を思い出しながら、ゆっくり読んでください。そして、読み終えた人から退出してもらってけっこうです。質問カードは誰か後でまとめて、室までとどけてください。



新 島 襄 と 私
福本 武久

 明治の先覚者であり、同志社をつくった新島襄は神田一ツ橋で生まれている。学士会館の南側に〈新島襄先生生誕の地〉と記された自然石の碑がひっそりと息づいている。かってそこには安中藩江戸屋敷があった。江戸の古地図をみると、その界隈は一橋御門にほど近く、武家屋敷が建ちならんでいたことがわかる。
 安中藩といえばいまの群馬県だが、新島襄の父親は江戸藩邸詰の家臣だった。襄は藩邸内の武家長屋に生まれているのである。身分のひくい武士の子だった襄は、いつも肩身がせまかった。身分の高い武士が通りかかるたびに道をあけ、ひたすら頭をさげていたという。
 新島襄が生まれてからすでに150年がすぎた。かつての武家屋敷町はオフィス・ビル街になった。現代に生きる武士たちは、裃のかわりにダーク・スーツを着用、太刀のかわりに携帯電話とモバイルパソコンをもって、ひっきりなしに往来するクルマに神経をつかいながら、やたらせかせかと歩いている。それが一世紀半という時のへだたりというものだろうが、なんだか奇妙な感じがする。

            ☆

 私はこれまでに同志社をつくった新島襄と山本八重、そして近代京都の父・山本覚馬をテーマにした小説・評伝を四作ほど書いている。最初はあの戊辰戦争のとき、女性ながら大砲と洋銃で戦いぬいた八重を主人公にした『会津おんな戦記』、そして襄と八重をめぐる『新島襄とその妻』がつづく。二つの作品はテレビドラマになるというオマケまでついた。
 作品成立の順序からみても分かると思うが、私の興味はもっぱら八重のほうにあった。『新島襄とその妻』のストーリーも八重の視点でなりたっている。なぜか? 襄は小説書き泣かせの人物であるからだ。
 新島襄は全体像をとらえにくい人物である。いわゆる眼から鼻にぬけるような〈切れ者〉ではない。現存する史料からみるかぎり、どうもマジメすぎて人間の奥行きがとぼしいのである。こういう人物に真正面からぶつかれば、まちがいなしにはねとばされる。そこで妻の八重を鏡にみたてて、そこに映る襄を描くという仕掛けをつくった。つまり八重を仲立ちとして襄を描くというかたちとったのである。
 作品のなかで新島襄はつねに〈ジョセフ〉として登場している。〈新島襄は……〉と書かずに〈ジョセフは……〉という記述になっている。違和感がある……と、何人もの読者から指摘された。けれども作者の私は、新島襄を〈ジョセフ〉ととらえることによって、初めて作品を書きあげられたのである。
 当時の新島襄はアメリカ帰り、さらに耶蘇と白い眼でみられたキリスト教者である。襄と結婚するまえから英語を学び、洋装洋髪の女性として知られていた八重の眼からみても、襄の思考回路と行動パターンは外国人そのものだった。〈ジョセフ〉という表現は、そういう違和感の形象化なのである。
 さらに、もう一つ。それは作者である私が襄に感じる距離感である。新島襄は人間として〈はみだす〉ところがないままに自己完結してしまっている。小説書きとして、とても太刀打ちできない人物なのである。そういう一種の畏怖みたいなものが、ごく自然に〈ジョセフ〉と呼ばせたといっていい。

             ☆

 神田一橋の生誕碑……。界隈を通りかかるたびに、私は同行者をかならずそこまで引っ張ってゆく。
「ほおう、こんなところに……」
 誰もが意外そうな顔をする。
 新島襄を知っていても、どこで生まれたのか知らない人が多い。同志社出身者も例外ではない。道ゆく人たちも立ちどまることもなく足早にゆきすぎる。明治の先覚者も今は忘れられようとしている。私も研究者でないから、あの小説を書いたあと、興味はほかに移っている。
 けれども気がめいったり、精神が疲れたとき、ふと意識の底に影をおとすものがある。いったい何なのか。すぐには像を結ばない。心の眼をこらしつづけるうちに、やっとそれが新島襄だと気づくのである。きっとそれは、ケタはずれにはげしい情熱と他者に寄り添うような温かさをあわせ持つかれの人間性によるものだろう。
 表通りでなく横道にたたずんで、植え込みの蔭からひっそりと歩道をゆく者たちをみまもっている。そういう生誕碑のたたずまいは、いかにも新島襄らしいなと思う。


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(C)Takehisa Fukumoto 2001