第9講 プラス 思いやり と やさしさ!

 みなさんがたの中には、ボランティア活動をしておられる人がたくさんおられるようですね。老人ホームや障害児の施設でお手伝いしたり……。さすがはキリスト教主義の短大ですね。提出していただいた課題作品の多くには、そのときに〈感じたこと〉や〈考えたこと〉がテーマにとりあげられています。本当の「やさしさ」とは何なのか……ということですね。そういう気遣いといいますか、社会的弱者に対する気配り……みたいなものが、文章を書くうえでも非常に大事になってくるんです。

 はい、それでは、黒板をみてください。ここに2つ文がありますでしょう。実はね、これこそが今日の講義のテーマなのです。何の変哲もない2つの文で、ぼくはいったい何を言いたいのか……考えながら読んでおいてください。実は二日酔いで頭が割れそうに痛いんですよ。ちょっと、ぼくは水を飲みに行ってきますから……。

【例文 A】

 私は久しぶりにアメリカを訪れた。

【例文 B】

 高齢化社会が進むにつれて、定年退職者の再就職が大きな問題となりつつある。そこで今号では、××市ハローワークの〇〇課長に、高齢者再就職の現状について解説いただきました。

 はい。どうしてぼくがこの2つを例文としてとりあげたのか。誰か分かりますか? 実は、その例文をまな板のうえにのせて、言いたいことがあるんです。見当もつかないって! そうでしょうね。それじゃ、ひとつだけヒントをさしあげましょう。今日の講義のテーマは「いい文章の条件」です。あとは、みなさん、自分で考えてください。いいですか。それぞれ自分で考えながら、今日の話を聴いてください。

 いい文章……って、何だろう? いい文章であるためには、どういう条件が必要とされているか。「文章の書き方」とかの本では、「簡潔さ」「正確さ」「分かりやすさ」「おもしろさ」なんかがあげられております。その通りだと思いますが、ぼくは、もうひとつ加えておきましょう。それは何かと言いますと「思いやり」です。「やさしさ」と言い換えてもいいのですが、最近のみなさんは「やさしさ」というものと「頼りなさ」というものをゴッチャにして考えるクセがるからね。やっぱり、ここでは「思いやり」あるいは「相手に対する気遣い」と言っておきましょう。

 まず最初に「簡潔」であること。これはとくに説明する必要もありませんよね。文章というものは、できるだけ短いほうがいいんです。接続詞とか指示代名詞とかをできるだけ使わないで、短い文をつないでゆく。いいですか。前回と前々回の講義を思い出してください。短い文にするために1つの文では一つのことしか言わない。1つのことを言い表すのに、2つの言い方があったら、できるだけ短くて簡潔なほうを選んでください。そうして誰にでもわかる、やさしい言葉で、文脈が混乱していない文を書くことです。これが実用文として「いい文章」を書く条件のひとつです。小説とか詩など芸術的な文章ではありませんよ。あくまで実用文としての「いい文章」を問題にして、お話してますから、誤解しないようでにしてくださいよ。

 2番目は「正確さ」です。正確であること。これは相手に対する思いやりにも通じます。正確であるためには、まず分かりにくい、独りよがりな表現を避けることです。自分だけ分かっているような表現ではダメなんです。文章にはかならず相手があります。相手に通じなければ、全然意味がないわけですからね。次には、間違いが少ないこと。文章には間違いがつきものです。こちらが完璧だと思っていても、間違いだと解釈されるケースもあります。間違いではなくても、他の表現のほうがベターだと言われることもあります。でも、間違いはできるだけ少なくしなければなりません。いいですか。辞書を引けば、明らかにまちがいだと思われる用語や用法が2つも3つもで出てきたら、これではとても〈いい文章〉だとは言えません。

 3番目には「分かりやすさ」をあげましたね。分かりやすい……ことです。ここでいう「分かりやすさ」というのは、たとえば小学生でも理解できることばで書いてあるかどうか……という意味ではありません。言葉の選び方がやさしいとか、そういうものとは無関係です。書こうとする対象を適切にとらえ、相手に応じてふさわしい用語が選択されているかどうかということなんです。分からないのは相手が悪いんだ。頭が悪いヤツには分からないんだ……。こういう姿勢ではダメだと言いたいわけです。だから、ある意味では謙虚さにも通じます。そういう意味で、「あいまいな文章」「独りよがりな文章」「読みにくい文章」「難しすぎる文章」、こういうのは全部失格、悪文です。

 困ったことに、世の中には、わざと「分かりにくい」文章を書く人たちがいるんです。教養のある人ほど、そういうワナに落ちてしまうから困るんです。やたら難しく書いたものが名文だと思っている。とんでもない勘違いですよ。むしろ難しい内容なんだけれども、それを誰にでも理解できるように分かりやすく書く。それが名文なんです。ところが分かりやすく書いてあるのは、ツマラナイことなんだ……という考えがどこかにあるから、問題がややこしくなる。やさいしい言葉より、わざと難しい言葉を選んで、しかもストレートに表現したらいいものを、わざと持って回った表現にする。こんなのは失格です。ところがこのタイプは教授という肩書きのある学者先生とか、〇〇省の偉いお役人とかに多いんですよね。いくら偉い大先生でも、そういう文章を書いたら、まちがいなしに悪文だと断言しておきましょう。

 4番目には「おもしろさ」というのをあげました。おもしろい……文章であること。これは、読み手が読んで〈おもしろい〉と同時に、読む人がわかってくれるだろうか……というようにたえず気を配っているかどうかがポイントになります。つまり読み手を念頭においた文章という意味でもあります。
 最後に私は「思いやり」というのをあげておきました。とくに社会的弱者に対する思いやりです。いくら分かりやすくて、間違いのない文章を書いたとしても、社会的弱者を見下ろしていたり、愚弄していたり、あるいは差別意識が根底にあったら、それは、もう、救いがたい悪文というべきです。

 そんなわけで、いくら文法的に正しくても、あるいは短い分かりやすい文を書いたとしても、トータルで見て「いい文章」とはいえない。むしろ「悪文」でしかない文章もあるのです。はい。それでは、長らくお待たせしました。最初に読んでもらった黒板の【例文01】と【例文02】を、もういちど見て、よく読んでください。

 文章的に何か問題ありますか? どこか、おかしいと思うところはありませんか? ヒッカケ問題じゃないから、あまり警戒せずに素直に考えてください。何も問題はないでしょう。言葉づかいも句読点の打ち方もいい。主語と述語のよじれなんかもありません。文法的には何の問題もありませんよね。ところがギッチョンチョン。ぼくは2つとも大変な悪文だと言いたいわけです。この2つの文章には致命的な欠陥があるんです。誰か分かる人いますか?

 それでは【例文01】から、いきましょうか。問題は〈……アメリカを訪れた〉という部分です。どうして問題なのか分かりますか? おや、みんな変な顔してますね。みなさんの中には短期留学で西海岸あたりへ行く人もいますよね。それじゃ訊きましょう。「アメリカを訪れた……」なんて言い方が、果たしてできるかどうか……。いちどよく考えてみてください。アメリカは巨大な国ですよ。1つの洲だけでも日本の何倍もの面積をもつところが、たくさんあります。洲そのものが国みたいなものです。州によって法律もちがいます。あまりにも巨大であるために、アメリカには日本でいうところの全国紙というような新聞はありません。アメリカの新聞はみんな州単位、あるいは一定の都市地域を対象にした地方紙ばかりです。天気予報のページだけでも見開きで2ページぐらいありますよ。

 だから、ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸などを見ただけでは、アメリカを見たとはいえない。同じように東海岸のニューヨークはボストンをみただけでも、アメリカを語ることはできません。たかがひとつの都市だけを見て、〈アメリカを訪れた〉という書き出しで、最近のアメリカは、ああ……だ、こう……だ、偉そうなことを言っている。まったくお笑いですよね。感覚が非常に雑で荒っぽい。最悪のケースです。感受性、つまりモノの感じかたが、救いがたいほどお粗末です。みなさんも短期留学が終わったら、レポートなんか書かされるんでしょうけど、まちがっても〈アメリカを訪れた〉なんて書かないでくださいよ。

 次に【例文02】はどうでしょうか。これはある地方の公民館が自主的に発行している雑誌に掲載されていた企画記事の前文です。これも、ひどい悪文ですよ。なぜかといいますとね、読者に対して、ものすごく高飛車なのですよ。高圧的な書き方をしております。この記事を読むであろう読者は定年を迎えたり、あるいはリストラで、心ならずも失職した高齢者でしょう。つまり社会的弱者だといえます。「解説していただきました」という物言いは、頭越しですよ。これは、いったいどういうこっちゃ……と、言いたいわけです。そうでしょう。お上が解説してくださるのだから、謹んで承るように……。こういう意味がはっきりと読みとれます。傲慢なうえに思いやりというをまったくない。やさしい心づかいというものが感じられないというわけで、とんでもない悪文なのです。

 そんなわけで、今日は「いい文章」とは何か。「悪文」とは何か……についてお話しました。文法的に正しくても、それだけでは、いい文章とはいえない。ハートがなければ、つまり〈心〉がなければ「いい文章」は書けない。ああ、今日も超「マジメ」なオチになってしまったな。まあ、いいか。次回は、その「ハート」の問題について、詳しくお話しします。

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