第10講 ハートがなけりゃ、ダメなのさ!

 文章を書くのに「向き」「不向き」というのがあるのか? さっき駐車場で会ったMさんという人、今も教室のどこかにいるはずですが、そのMさんから、たまたまたずねられました。今日はズバリその問題について、お話ししようと思います。いい文章が書ける資質というものがあるのだろうか? 

 最初の講義で、〈文章は誰にでも書ける!〉と、ぼくは言いました。憶えてますか? ちょっとした文章ぐらい、誰だって書けます。書けなくても、書けるようになります。そのために、ぼくは毎週お話ししているんですからね。ぜひとも書けるようになってもらわなくて、こまるんですね。でも、〈いい文章〉が書ける資質みたいなものは、あるか?……と、たずねられると、やっぱりあります。

 それは「向き」「不向き」というのではなくて、こういう人は上達が早いだろうな……という条件みたいなものです。それには3つあります。まず第1は「集中力」です。第2は「感受性が豊かなこと」、そして最後の3つ目は「細かい作業を持続してやれる性格」であること。それにもうひとつ、そこそこの「読書量」があれば完璧ですね。日常の文章はもちろん、ちょっとシャレたエッセイぐらいは十分に書けます。

 それでは次に〈文章を書くのはちょっとシンドイな〉というのは、どういう人なのか。これは、かんたんでしょう。いまの逆を考えればいいわけですから……。まず第1は独りよがりな人。自己陶酔型の人でもあります。文章を書くときに、自分が酔っていてはダメなんですねえ。書き慣れてないと〈自己陶酔〉してしまう人が、けっこう多いんです。カラオケに行ったら、マイクを離さないアナタ、いいですか、書く場合はとくに気をつけてくだっさいよ。いいですねえ。

 第2は感受性にとぼしい人です。いやゆる鈍感な人です。どういうのがドンカンだって? そこまで言わせるかねえ。でも、これ以上言うと、誰かが傷つくかもしれない。差し障りがありますから、やめておきましょう。最後の第3は細かい手仕事が苦手で、飽きっぽい人です。こういう人は上達が遅いかもしれません。でも、こういうタイプは、社会のどこにいても,はみ出すでしょう。みなさんのように、ちゃんと試験を受けて、本学に入ってこられたような人は、少なくとも該当しません。授業は出席せずに、私のHomePageだけで受講している人も同じです。どうか安心してください。

 文章は誰にでも書けます。少なくとも、この場におられるみなさんは、自信を持ってもらっていいでしょう。もし書けない。苦手なんだ……という人がいたら、今まで「書く」能力を開発するような訓練を受けてこなかっただけです。そういう人は、これを機会に大いに技術をみがいてください。

 「書く」という行為は理屈ではない。いくら理論を憶えても、それで文章が書けるわけじゃない。最初の講義のときに言いましたよね。理屈よりも練習だ……とも、言いましたよ。じゃあ、原稿用紙に向かって、毎日、毎日、練習をしていたら、うまくなるのか? 残念ながら答えは「ノー」なんですねえ。

 文は人なり……。昔の人はうまいことを言ってますね。「心」というものがなければならない。そういう意味で「文は心」と言い換えることもできます。ハートがなけりゃ、ダメなのさ……というわけです。ハートがないから、前回とりあげた「アメリカを訪れた」とか「……解説していただいた」なんて、ひどい文章を書いてしまうんですよ。

 緻密にものごとを観察する訓練をしていない人が、緻密に組み立てた文章を書けるでしょうか。書けるわけがないでしょう。自然破壊ばかりしている人が、大自然の美しさを描写できますか。わがままで、独りよがりな人が、気配りのある文章を書けるでしょうか。表面上は何とか繕えるかもしれないけど、文章のどこかに、そういうねじくれた心がかならず現れてきます。文章というのは、ごまかしがきかない。書き手であるその人の人間性と密接な関係があります。だから、文章を他人に見せるということは、自分の心を他人にみせるというのと同じことなのです。

 だから、文章の練習というのは、机に座って、キーボードをぶったたくことから始まるのではないのです。「見る」「感じる」「考える」、この3つの力を同時に起動させる、そういう能力を先ず磨く必要があります。なかでも「ものの見かた」「ものの感じかた」をどのように鍛えるか。感受性のアンテナをどのように鋭くしてゆくかが大事なんです。これは何も文章を書くときだけにかぎりません。人生も同じでしょう。学問を究めるにも、感受性が鋭くなければ成果があがらないでしょう。

 何かを見て、何かを感じる。そういう力をつけることが出発点だろうと思います。よくねえ、こんな人がいるんです。何か書きたいんだけれども、何を書いていいのか、よく分からない……。このなかにも思い当たる人がいるでしょう。いいですか。一言でガツンと言っちゃいますよ。それは、感受性が鈍感だからです。

 書く材料というのは、ぼくたちの周りにいっぱい転がっているんです。電車のなかの光景にもあるし、街の雑踏のなかにもあります。でも、感受性のアンテナが錆び付いていたら、そういうものは捕らえられない。何かを見て感動する。驚いたり、怒りを覚えたりする……そういうものがあって、ぼくたちは何かを書いて、誰かに訴えようという気が起こってくるんです。だから何かを見て、激しく心が揺れる。街でひどいめに合っている人をみて、なんでみんな助けないのだろうと思う。新聞やテレビのとんでもない事件報道を見て、神経がピリピリしてくる。これらがすべての出発点になります。

 だから、まずモノを自分の眼でよく見ることですね。現場で直に見るということが大事なのです。旅行するのも、街をあるくのも、アルバイトするのも、映画や芝居をみるのも、みんな現場です。人に合うのもそうですよ。いろんな現実に出会って、異質なものに触れることです。異質なものに出会うと驚きがありますよね。いままでの自分の考えがひっくりがえされるかもしれない。そういう経験が何かを書く肥やしになってゆきます。

 雑談もいいですよ。自分とはちがう世界に生きている人たちと雑談してますとね、不思議と何かひらめくものがあるんです。はい。雑談はいいといいましたが、講義中はやめてください。そんなところで、今日はお終いです。


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