第13講 「事実」と「意見」をはっくり区別!


「 レポートとかは、どういうふうに書けばいいのでしょうか? 」

 はい……。「レポートの書き方」についての質問がたくさんとどいております。レポート、あるいは小論文なんかの書き方というのは、やっぱり〈躾け〉の問題なんですよね。最初の時に言ったと思いますが、この講義では「躾けの問題」は採りあげません。「手紙の書き方」なんかと同じで、そういう出版物がたくさん出ております。どれかを読んで、自分で勉強してください。

 まあ、そう言ってしまえば、身も蓋もありませんからね。ここでは、基本的な問題というか心構えみたいなものを少しだけお話しておきましょう。

 ところで、ぼくたちが、いま、問題にしている「レポート」って、何なのだろう? 辞書にはこんなふうに書いてあります。(1)研究・調査などの報告書。(2)学生が提出する研究結果の小論文。(3)新聞・雑誌などの報告記事。…

 ふつうは(1)と(2)をいう場合が多いでしょうね。「レポート」というものは相手というものがある。あらかじめ読む人を想定して書く。誰かさん(企業ならば上司、大学ならば教師)も要求に応じて書くケースが多いのです。

 だから、みなさんがたが書かされるであろうレポートというものは、ただの報告書ではなくて研究レポートなのです。教師から与えられたテーマにもとずいて、学生のみなさんが主体的に調査・研究する。その結果にもとずいて、多少なりとも自分独自の見解をみつけだす。そういうふうな内容が期待されておる。だからレポートといっても、内容的には研究論文だと考えたほうがいいでしょう。だから「レポート提出」というのは、研究論文の練習をしているんだと考えてください。

 そういうレポートとか小論文の読者は誰か? もちろん教師です。教師のほかには読者はいません。教師のほうは、どういう目で、学生が書いたレポート、あるいは小論文を読むのだろうか? これは、みなさんがたも興味があるでしょう。今日は特別に教えてあげましょう。いいですか。まずは「与えられた課題を、どのように受けとめて調査、研究したか」です。2番目には「そのプロセスと結果を、どれだけキチンとまとめたか」ということです。教師の関心はもっぱらそこのところにあります。

 いいですか。もういちど復習しておきますよ。レポートあるいは小論文というのは、読書、文献検索、各種調査、アンケートなどによって、事実を集めて、それらにもとづいて、自分の意見や考えをまとめるというものです。そして、そのレポートに表れた書き手、筆者の意見や考えが独創的でユニークであればあるほど、そのレポートはすぐれたものだと評価されます。
 それではレポートを書くときの基本的な姿勢というものを2つだけあげておきましょう。いいですか。ひとつは「研究・調査の結果、解ったことを客観的に筋道を立ててまとめる」ということです。客観的に……ということですからね、「好きだ」とか「嫌いだ」とかの感想はダメですよ。二つ目は「書き手の意見が要求される場合は、それが意見であることがはっきり分かるように書く」ということです。

 どういうことかといいますとね、レポートで書くべき内容というのは、客観的な事実と根拠を示した意見だけだというわけです。主観的な感想は書いてはダメです。そこのところがエッセイとか随筆とか感想文との違いなのです。

 「事実」と「意見」をはっきり区別して書くこと。事実なのか、意見なのか、さっぱり判らないという書き方はレポートや論文ではご法度です。それでは1つみなさんに聞いてみましょう。黒板をみてください。
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A.貴乃花は横綱である。
B.貴乃花は偉大な横綱である。
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 AとBの二つの文章をよく読んでください。さあ、どちらが意見で、どちらが事実ですか? あえて聞くまでもないでしょう。Aが事実、Bが意見です。貴乃花が横綱であることは相撲協会の番付表で確認するまでもなく、歴然とした事実です。ところがBの場合はまったく事情が異なってくる。Bの文はAに〈偉大な〉という形容詞がついただけです。けれども、そこには誰かさんの価値判断というものが働いていることが明らかでしょう。

 意見なのか? 事実なのか? 上記のケースでは明確に区別できます。けれども現実問題として、事実と意見がごっちゃになっているケースが多いのです。意見として書かれてきたものが、いつのまにか事実としてとりあつかわれている。そういうケースが現実にはいがいと多いのです。

 事実とは何か? 詳しく説明しますとキリがありません。ひとつ例をあげて説明しましょうか。それじゃあね、黒板をみてください。
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  福本武久は1942年生まれである。
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 こういう記載があったとしましょう。これが事実であるかどうを判断するには、どうすればいいでしょうか? 本人に確かめればいい……。はい。そういうことも含めて裏づけがなくてはならない。筆者は『文芸年鑑』をみて書いた。たしかに生年月日は1942年になっている。ならば事実であるという証明ができますから、そのときに初めて「事実の記述」だということができるわけです。このように客観的に事実であると確認できるるものは「事実」としてあつかわれるというわけです。

 事実にもいろいろあります。ひとつは直接経験した事実です。つまり自分が直接目にしたり、聞いたりして知った事実です。もうひとつは伝聞による事実です。他人の口や書いたものを通じて知った事実ですね。両者をはっきり」区分すいて書いたほうがいい。

 意見というのは何でしょう? かんたんに言えば「筆者の考え」でしょう。だから意見というのはかなり幅がひろいんですね。詳しくいうと〈推量〉〈判断〉〈意見〉に区分して考えることが出来ます。それでは黒板をみてください。
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1、巨人軍の高橋は首位打者になるだろう。
2、西武ライオンズの松坂は偉大な投手である。
3、田中真紀子も外務省官僚たちも場外乱闘ばかりしていないで、もっと本来の仕事に力をそそぐべきである。
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 例文1は推論、例文2は判断でしょう。例文3は自分なりに考えたり感じたりするものがあって、それにもとずいてたどりついた結論みたいなものです。

〈推量〉〈判断〉〈意見〉……いずれにしても、正確な認識と根拠によって導き出されたものでなければなりません。レポートや論文で意見をのべる場合は、根拠あるものであなければならない。主観的な判断だけではダメだというわけです。たとえば「巨人軍の高橋は首位打者になるだろう。」と推論する場合も、根拠をしめして言わなければならない。過去のデーターを調べて、首位打者になったケースをいろいろ調べてみる。そのうえで、第3者が「なるほど……」という論理をならべなければならない……というわけです。

「西武ライオンズの松坂は偉大な投手である。」という判断をする場合もおなじです。どうして偉大であるか。その根拠をはっきりとしめして判断をくださなければならないのです。

 だから「レポート」「小論文」というのは、事実というものにもとずいて、自分の意見をのべる。「資料」に語らせるという性質があります。あるひとつの意見を主張するのが目的であっても、やたら意見だけをならべて「絶対に……すべきである」などと、いくら書いても相手は納得しません。ポイントになるのは意見の根拠になる「事実」である。事実の裏づけがあって初めて意見に説得力がうまれてくるんだ……と、声を大にして起きましょう。


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