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【ひとくちメモ 001
なぜ、「駅伝」なのか?

 「駅伝競争」は日本で生まれ、すでに83年の歴史をもつ陸上競技である。近年では「Ekiden」として、国際的にもひろく知られるようになり、国際陸連主催の世界大会も行われている。
 駅伝にまつわるコラムを始めるのあたり、先ずは「駅伝」の由来について、かんたんにふれておきたい。『広辞苑』をひらいて、「駅伝競争」の項目を探すと、次のように書いてある。
《長距離のリレー・レース。数人で1チームをつくり、各人が所定の区間を走り、着順または総所要時間によって勝敗をきめる。》
 まちがっている……とは言わないが、あいまいで正確さを欠き、およそ広辞苑らしくない大ざっぱな記述になっている。たとえば駅伝が「ロード」の競技であることの記述が欠落している。「数人で……」というのも、表現としてふさわしくない。ならば、どのように考えたらいいのか。
《主にロードを舞台にして争うリレー式の長距離レースである。コースをいくつかの区間にわけ、それぞれの区間を受け持つ走者は、一本のタスキを順次に手渡しながら、ひたすらゴールまで運んでゆく。総所要時間によってチームの順位を争う日本独特の競技である。各区間ごとのスプリットタイムも正式に計時され、最近では「区間第一位」をめぐる個人の戦いも注目を集めている。》
 掘りさげればきりがないが、せめて、このあたりまでは書いてほしいと思うのだが、いかがなものだろうか。
 「駅伝」とは、もともとインタネットはおろか、電信・電話、航空機、汽車や汽船、自動車もなかった遠い昔の情報伝達のシステムであった。首都から地方にのびる道路網を全国にはりめぐらせ、一定の距離ごとに中継所となる「駅」がつくられた。宿泊施設もととのえた駅家には人・馬を常備し、この「駅」をつなぐかたちで築きあげられた交通、情報通信システムが「駅伝制」なのである。
 「駅伝制」は前中国において古くから発達し、アジアだけでなく古代オリエントや古代ローマにもあった。たとえば外敵の侵入や国内の反乱事件がおこったとき、「すわっ、これは一大事!」とただちに中央政府のある都に人馬を走らせる。中央と地方との連絡手段として大きな役割を果たしてきたのである。
 日本の「駅伝制」は7世紀から8世紀にかけて、唐の制度にならってつくられ、朝廷による「駅制」と国・郡のもとにあった「伝馬制」とにわけられていた。朝廷のある畿内から日本全国の国府をつなぐ東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の 7 道を駅路とし、原則として 30 里 (約 16km) ごとに駅をおき、駅ごとに4〜20 匹の駅馬を配していた。「駅」では朝廷にのぼる役人や公文書を運ぶ使者が到着すると、宿舎や乗りつぎの馬を用意し、次の駅まで案内人をつけた。たとえば日本の西の玄関であった太宰府から都のあった奈良、京都へは馬を乗りついで4〜5日で走りきるシステムができあがっていた。
 緊急の公務出張や重要文書の伝送に利用されたのがこの「駅制」で、「伝馬制」とは国府と郡家 (ぐうけ)との連絡システムであった。国司の赴任などは、この「伝馬制」が使われ、そのために各郡家には5 匹ずつの伝馬が常備されていたという。駅伝競走の「駅伝」は、この「駅伝制」にちなんで命名されたのである。
 日本最初の駅伝は「東海道」をコースにして行われている。歴史的にみて、7道のうちでも「東海道」は幹線道路として最も重要な役割を果たしてきただけに、最初の舞台にはふさわしく、あわせて「駅伝」の由来も象徴的にものがたっている。

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