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【ひとくちメモ 002
「駅伝」の名づけ親は、土岐善麿!

 日本最初の駅伝は1917年(大正6年)4月27-29日にかけて行われた「東海道駅伝徒歩競争」である。継走によるロードのレースに「駅伝」が用いられたのも、この時が初めてである。「駅伝」名付けの親は土岐善麿だといわれている。
 平安京ができた西暦794年から日本の首都であった京都にかわって、東京が名実ともに日本の中心となったのは明治維新からである。明治元年(1868年)秋に事実上の遷都(都の移転)が行われているのだが、岩倉具視ほか明治政府の主な閣僚たちは、いかにもお公家さんらしい姑息さを丸出しにして、遷都といわずに「奠都」(てんと:都をある地に定めること)ということばを使った。
 遷都というと京都では市民が騒ぎ出して、暴動が起こりかねない情勢にあったから、ひとまず口先でごまかす作戦に出たのである。
 余談ながら、京都ではいまだに「天皇さんは、ちょうと行って来る……と言うて、東京に行かはっただけや。もう、そろそろ帰ってきてもらわなあかん」と本気で言っている人たちもいる。駅伝ファンのみなさんは「そんなことは、どっちゃでもええ」、つまり駅伝とは何の関係もない……と、お思いかもしれないが、実はほんのちょこっと関係があるのである。
 遷都か奠都の議論はひとまず措くとして、日本の中心が東京になった1968年から50年目にあたる大正6年(1917年)に、「奠都50周年」を記念して、東京では上野で記念大博覧会が開かれることになった。このとき読売新聞社は博覧会をもりあげようとして、京都から東京までのリレー・マラソンを企画したのである。
 日本最初の駅伝である「東海道駅伝徒歩競争」を思いついたのが当時、読売新聞社の社会部部長にあった土岐善麿で、土岐が陸上競技の関係者と相談のうえ、「駅伝」の名を使うことを決めたらしい。
 歌人として知られる土岐は当時32歳だった。後に東京朝日新聞社に転じてからも、短歌を中心にして革新的な文学活動を展開している。国語表記の問題やローマ字の普及にも熱心で、自らローマ字の3行書きの短歌をつくって、石川啄木に強い影響を与えた。大杉栄や荒畑寒村とも親しく、社会主義文学や労働者文学の育成にも大きな役割を果たしている。先進的な文学者でありながら、古典にも興味を持ち、自ら「能楽」の新作を発表するほどであった。
 土岐の脳裏に「駅伝」という語句が浮かんだのは、きっと中国古典に通じた博学の徒だったからだろうと思う。

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