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【ひとくちメモ 003
駅伝の始まりは「東海道」!

 駅伝競争の始まりといわれる「東海道駅伝徒歩競争」は、1917年(大正6年)の4月27日から3日間にわたって行われている。東京上野で開かれる奠都50周年記念大博覧会と呼応したものだったから、スタート地点は京都・三条大橋、ゴール地点は東京・上野不忍池のかたわらにある博覧会場である。
 50年まえ……。屋根に鳳凰の飾りがある輿が中心にして、長い行列が三条大橋を出立した。きっと雅楽の前奏にみちびかれて橋を渡っていったのだろう。一行は東海道をしずしずと進み、二一日後に江戸城・和田倉門をくぐった。日本最初の駅伝は、ほぼ同じコースを3日間で行くというのであった。
 コースの総距離数23区間、508キロとあるが、島田輝夫著『日本列島駅伝史』によると、実際は516キロあったという。区間距離をみると20キロ前後が多く、最長区間は22区の33キロ(藤沢ー川崎)、最短区間は19区の13キロ(三島ー箱根)であった。
 最初の計画では〈東京〉〈名古屋・京都〉〈大阪〉という3団体による地域対抗で行われる予定だったが、大阪はチーム編成できなかった。その結果、関東組(東京)と関西組(名古屋・京都)の東西対抗になってしまった。『日本列島駅伝史』によって両チームのメンバー構成をみると、関東組は第一高等学校、東京高等師範、早稲田の学生が占めていた。関西組は名古屋の愛知第一中学が中心になっている。中学2年から5年までの生徒が大半で、あとは卒業、職員たちが名を連ねている。15歳の生徒から52歳の校長までが走った。いわば「オール・愛知第一中学」という感じであった。中学生と高校・大学生の争いだったから勝負は明らかで、最終成績では関東組が1時間24分ほど先んじている。
 日本最初の駅伝は大会が始まって日を追うにつれて、世の大きな反響を呼んだ。八ツ山からトップで東京に入った最終走者の金栗四三(高等師範在学中 27歳)は、大きな歓声で迎えられ、日本橋あたりでは、三越や白木屋の窓から身を乗り出した人たちが帽子やハンカチを振って喝采した。上野の静養軒から池之端界隈は見物客でごった返していたという。広小路を駈けてきた金栗は、そんな大観衆を縫うようにして走り、不忍池を一周して博覧会場内のゴールにとびこんだ。
 駅伝の最終日は博覧会の入場者数も平日の五割増しとなり、主催者側の狙いどおりに大当たりをとったが、「駅伝」創始者の土岐善麿は、この「駅伝」がゆえに読売新聞社を翌年退職している。大会の経費が予算をはるかにオーバーして、土岐は責任を負わされるはめになったのである。2日目、3日目と駅伝競争の一行が東海道をのぼって来るにつれて応援者も増えた。走り終えた選手たちも帯同して、かれらがみんな宿舎で食事をとった。飲み食いのツケが後に読売新聞社にまわってきたのというである。
 それはともかく、この「東海道駅伝徒歩競争」の成功があって、3年後の箱根駅伝誕生につながってゆく。そういう意味で、土岐の企画したこの大会は文字通り先駆的な役割を果たした。日本の陸上競技界の指導者や実力者がこぞって参画したという点でも、大きな意味をもつ大会であったということができるだろう。

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