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【ひとくちメモ 004
金栗四三のどでかい夢!


「さて、こんどは、どこを走りますかね」
「そうだな、日本列島はぼくとキミで走破したからな」
「それじゃ、満州ー東京間というのは、どうですかね?」
「なるほど、そういう手もあるな」
 上野に向かう汽車のなか、窓側の席で向かい合う二人がなにやらひそひそと話しこんでいた。
 マラソンの父・金栗四三(当時、東京女子師範教諭)と明治大学の学生だった沢田英一である。ふたりは奇しくもその年(1919)の夏に超長距離走に挑んでいた。沢田英一は札幌ー東京間を22日(6/15-7/6)、金栗は下関ー東京間を20日(7/23-8/10)かけて走破している。
「いっそのことアメリカ大陸横断というのはどうだい」
 横から口をはんさんだのが、高等師範の教授だった野口源三郎であった。
 三人はその日、招かれて埼玉県鴻巣の小学校の運動会で審判員をつとめた。その帰途の車中で思いがけない話がもちあがったのである。
「アメリカ……ですか?」
「そうだ。アメリカ人とても、徒歩で横断した者はまだひとりもいない」
「そいつは、すごい!」
「アメリカはひろい。大陸横断は何人かのランナーでやればいい」
「きっとアメリカ人は驚くでしょうね」
「アメリカ人だけじゃない。世界の陸上界があっと驚くよ」
 アメリカ大陸横断駅伝、この壮大な夢に向かって金栗は一気に突っ走った。経費は五万円と算定、新聞社に支援をもとめることにした。準備期間を一年とみて、さっそく選手選考にのりだした。東京の13大学と専門学校による駅伝大会をひらき、金栗はそれを選考会にしようと考えた。
 当時28歳だった金栗四三(1891‐1983)は熊本県出身、本名は池部四三である。玉名中学から東京高等師範にすすみ、当時の校長・嘉納治五郎に素質を見いだされて陸上の長距離選手になったという。
 1911年(明治44)、ストックホルム・オリンピックの国内予選として行われた日本最初のマラソンで優勝、オリンピック選手第1号となった。短距離の三島弥彦(東大)とともに翌1912年ストックホルムの第五回オリンピックに出場したが、18km付近で疲労のため倒れて棄権した。オリンピック出場を機会にマラソンに一生を捧げることを決意、マラソンの普及につとめながら、選手としてもみずから20年(アントワープ)、24年(パリ)のオリンピックに連続出場している。
金栗の動きは素早かった。持ち前の熱意で報知新聞社の寺田瑛(企画課長)をやすやすと説得してしまい、10月末には各大学の代表から賛同を得て、マラソン連盟を結成している。東京ー箱根間往復のコースを一校10人で2日かけて走破するという「箱根駅伝」のフレームもこのときに決められている。
 箱根ー東京間にコースが落ち着くまでには若干の紆余曲折があったらしい。水戸ー東京間、宇都宮ー東京間などいくつかの候補もあった。最終的に箱根コースが選ばれたのは、景勝地が多いうえ、山登りのあるコースのようがトレーニング効果があがる。レースとしてのおもろさからは往復コースのほうがのぞましい……などという理由からであった。第1回大会は2月に行われているが、これは「長距離のトレーニングは酷暑か厳寒がいい」という金栗の持論にもとづいていた。
 後に箱根駅伝へと発展するアメリカ大陸横断駅伝の予選会、その実現に向かって奔走していたころの金栗は自身の惨敗経験から日本選手の強化・育成に心血をそそいでいた。とくに関東の学生選手の強化が念頭にあったから、東京の13大学と専門学校による駅伝大会の開催はまさにうってつけというわけであった。
 現在ではすっかり正月の風物詩となった「箱根駅伝」は、日ごろあまり陸上競技と縁のない人にも深い感動をあたえる。それはマラソンの父・金栗四三の熱い想いが脈打っているからだろうと思う。

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