反省とまとめ(あくまで坂本事件を念頭において)
1 弁護団の活動について
(1) 坂本事件発生以降、10日〜2週間に1回のペースでコンスタントに弁護団会議を開いて、状況報告を行いつつ、そのときに応じた対処・訴訟方針などを討議した。その回数は、約150回になる。また、半年に1回程度の割合で、95年以降は約2ヶ月に1回の割合で全国会議を持っている。
(2) 90年の4月8日,6月17日の2回、集団的呼びかけ行動を行ったほか、92年4月8日から約半年間、被害者の会とともに月に3回の「8の日行動」を行った。その行動によるオウムへの影響・効果については疑問はあったものの、弁護士自身が富士宮や上九一色村に実際に足を運び、、信者の様子などを目の当たりにすることによって認識を新たにすると効果はあった。少なくとも、当時の「覆面行進」などを見ているだけでも、何とかしなければという気持ちを強くさせた効果はあった。
(3) その間、常時、オウムに関する相談は続いていた。特に激増したのは、94年2月以降である。現在に至るまでの相談件数総数は、おそらく延べで3000回を超えるであろう。
(4) 93年夏頃から、滝本弁護士は、家族や上九一色村村民からの要請に応えて、信者・元信者に対するカウンセリング活動を行うようになった。その結果として、オンタイムに近い状況で、オウム真理教の様々な状況がつかめるようになった。そして、その中で数々の重大な犯罪行為が教団ないで行われていた事実を把握することになる。
(5) 95年3月21日、強制捜査に先立ち、これを見通して、4月1日に「オウム110番」を行うことを決定した。これは、坂本事件の直後に提起されたこともあった企画であったが、やっと実現にこぎつけ、4月1日と4月8日の2回の横浜での110番の外、6月24日の東京オウム110番、7月15日サリン110番を行った。その間、110番に寄せられた信者の家族に対する説明会を6月3日に実施することができた。
(6) 滝本団員を中心として、元信者の会である「カナリヤの会」が結成され、毎月1回の会合とニュースの発行を定期的に行っている。また、弁護団も協力し、カウンセラー等の研究団体として、「日本脱カルト研究会 (JDCC)」が結成されるに至った。
(7) 95年9月から、弁護団が中心となって、オウム真理教に対して早期の解散命令を求める署名活動を行った。その反響は著しいものであり、96年2月の最高裁決定までのわずか半年間に、総計50万を越える署名が集まった。そのためもあってか、早期の解散命令=清算業務の開始ということにつながった。協力していただいた皆様に、この場を借りて、厚く御礼申し上げたい。
2 坂本事件発生について
(1) 事件発生前の体制と警戒が極めて不十分であった。少なくとも、統一協会を相手にしようとした時に比べて、危険性の認識において甘かったことは否めない。坂本・小野・本庄の3人だけで相手にできる団体ではなかった。事件受任当時すでにリンチ殺人事件が起きていたことが判明している現在、結果論として、現在そういえることは間違いないが、このような狂信的カルト宗教を相手にするときは心する必要がある。ただ、現実問題として坂本氏が気にしていたことは、弁護士費用の問題(1人当たりの収入)と、宗教問題というものに関する弁護士等の忌避感である。事件直前に弁護団拡充を図ったが、反応はよくなかった。
(2) 直裁的な問題として、教団に対して顕名をしていたのが、坂本1人であった。連名での内容証明も出しておらず、8月・10月の直接交渉も坂本1人に任せる結果となってしまった。他の者が同席していたら事件を防げた結果になっていたかもしれない。
3 弁護団体制について
(1) 事件直後の呼びかけに対して、全国から180名を越える応募があったのにも関わらず、その後、その弁護団を意地・拡充していくことができなかった。全国的にみた場合でも、横浜をはじめとして、大阪・福岡・和歌山・山梨・松本・水戸という程度であった。静岡に組織できなかったのは残念である。また、東京では個々の事件単位でできた者はあったものの、東京としての連絡体制あるいは全国弁護団体制への位置づけが必ずしも十分ではなかった。
(2) そのようになってしまった要因は、「事件」がなければ弁護士は動かないということである。従って、「事件」が存在したり、活動家がいる場合には弁護団が活性化する。その面では活動家・事件を掘り起こしていった大阪弁護団の活動は特筆に値する。
(3) 活動の中心的部分は、「事件」ではなく、家族等からの相談活動・カウンセリング活動と、それに伴う情報収集活動であった。それを基本において、弁護団活動を進めていくためには、<坂本事件の解決のためには、オウム真理教を壊滅させることが必要不可欠>という、位置づけであった。このことを「救う会」でも、弁護団でも、必ずしも表面立てて主張していくことはできなかったかもしれないが、不断に確認し続けていく必要があったが、少なくとも弁護団からの働きかけは、95年1月の全国会議時点までは極めて不十分であったと思う。
(4) 事実調査の関係でも、坂本事件前後というところに重点が置かれすぎており、その後の状況という点についての調査・関心が著しく低かったことが残念でならない。このことは、神奈川県警においても同様に写った。
(5) 神奈川弁護団においても、93年頃から「中だるみ」となってしまい、会議を開いても2〜3名という状況となってしまっていた。そのために、94年からのオウム真理教の状況の激変についていけなくなったことが残念である。94年からは、少数者が余りにも忙しくなりすぎていたために、組織的に状況を分析し、対処していくという余裕がないままに動かざるを得なくなっていた。それを周囲に十分に理解させ、拡充していこうとする余裕もなかった。そのために、95年1月の「救う会」全国会議での爆弾発言という形になってしまった。
(6) 結局そのために、滝本の活動を組織的にすることができずに突出させ、4度も襲撃を受けるという事件まで起こさせてしまった。幸いにして生命には危害が及ばなかったものの、第2の坂本事件となるところであった。
(7) 弁護団の最大の弱点は、過去においても現在においても財政問題である。 収入は月額5万円の被害者の会からの顧問収入しかない。94年3月からは恒常的に5万円の支出が発生しているために収入ゼロと同じである。早期解散命令獲得運動でのカンパにより一息ついたものの、保全執行にほとんど使い切ってしまっている。殆どの活動は、各弁護団員の手弁当 ・持出しとなっており、憂慮すべき事態である。
4 坂本事件を早期解決に導くために必要だったこと
(1) 事件当時坂本が問題としていた血のイニシエーションに関し、強要罪での刑事告訴のみに止まってしまい、民事提訴を行わなかったこと。必ずしも裁判の行方は楽観的ではなかったが、世論にオウムの問題を問う良い機会ではなかったか。
(2) 住民票移動の選挙違反告発に関して、告発自身が選挙日以降になってしまったこと。技術的側面で遅れてしまったが、数人であっても、早期に行う必要があった。
(3) 90年に行った4・8行動では、坂本事件の実行犯の1人を確保し、親との話し合いの機会を持っていた。その際に、本人を説得するなどして連れ帰ることができていたならば、早期解決につなげることができたかもしれないと思うと残念である。
5 警察との関係について
(1) 神奈川県警としては、第2の坂本事件を発生させないために、95年10月からだが、我々に対して、十分な警備を行ってくれた。滝本事件が未遂に終わったのは、この警備と、再び弁護士をドラスティックに襲えば世論が許さない、という坂本救出活動の盛り上がりがあったからだと思われる。それが、オウム真理教も遠慮した犯行しかできなかったものと言えるのではないか。その意味で、警察と坂本救出運動に、大変に感謝している。
(2) ただ、神奈川県警の捜査姿勢は、坂本事件の解決という点にのみ重点が置かれており、オウムを全般的に監視するという姿勢が弱かったように思われる。各地で様々な事件が起こっても、神奈川県警が収集・保持していた情報が、他県警に十分に連絡されていないために、有機的に情報が結合し、的確な捜査が行われなかった。例えば、盗聴器の事件について見れば、91年8月には茨城県勝田署管内で、93年12月には3鷹署管内で起きており、警察にも被害届が出されていた。しかし、それらの捜査が不十分であった上、情報が有機的に結びつかなかったために、94年9〜10月に上九一色村富士ケ地区内での数カ所の盗聴器事件が発覚しても、有効に対処できなかった。このようなところから、次第に異常性の一端を表面化させてきたオウム真理教であったのに、このような事態の把握ができなかったのである。 縦割組織の壁、管轄区域の壁の問題である。
(3) また、宗教団体の壁、家族不介入の壁の問題もある。 当初から各所で怒っていた事件の多くは、「出家」や「イニシエーション」にまつわるもので、宗教と家族にかかわる問題であった。そのために、被害を受けた家族が警察に相談に行っても、ほとんど相手にされないというような状態が続いていた。例えば、95年2月には、都内の小学校にオウム信者が乱入し小学生を拉致するという事件が起き、直ちに警察は出動したものの、母親が関係しているということがわかるや、父親や学校の要請にも係わらず、直ちに捜査を打ち切るなどということも行われ、被害は放置された。また、宮崎資産家拉致事件について、94年4月からの再3のはたらきかけにも、宮崎県警・警視庁は全く動かず、逆に、8月に父親が帰還したときには、宮崎県警は、捜査を終結させるための動きを行っているかのようであった。
(4) このような警察に厳然と存在した、いくつかの「壁」のために、94年に次々と発覚した宮崎資産家拉致事件や看護婦監禁事件等があっても、捜査当局は事態の重大性を十分に認識せず、オウム真理教に対する大規模な捜査を行うことができなかった。また、松本サリン事件に関する捜査も誤った方向へと向いていってしまった。そのような状況であったがために、95年1月の永岡殺人未遂事件でも、警視庁の徹底的な科学捜査が遅れることにつながり、假谷さん事件、地下鉄サリン事件にまで至ってしまったように思われてならない。
(5) 以上のようなことから、我々が反省すべき点は、このような「壁」の存在を十分に認識した、組織的な分析・対応が不十分であったということである。その「壁」を打破するために、どうすれば良いのかという組織的検討と、具体的行動が不足していたことは否めない。
6 サリン事件について
松本サリン事件が、94年6月27日夜に起き、7月には上九一色村でQ度にわたる悪臭騒動が起きていた。既に、それ以前に、当弁護団では、麻原が「毒ガス説法」を行ったことは覚知していた。しかし、私たちは、この説法が単に信者の不安感をかき立て、出家・内部団結等を促す等のものとしか考えず、「サリン」という特別な言葉に反応しなかった。なかんずく、上九一色村でおこっていた悪臭騒動にさえ、格別の対応をしなかったことは、深く反省をしなければならないことである。
7 その他
このような事態になってから現れた、公安調査庁の動きには、遺憾という外はない。同庁が95年3月以前に、オウム問題で少しでも動いていた気配は全くない。現在でも、オウム真理教についても、「カルト」についても、あるいは「マインドコントロール」ということについても極めて不十分な認識しか持っていないようである。そして、その状態のままで調査し、誤った現状認識しか有していないまま、敢えて、破壊活動防止法の適用を進めようとしている。 「破壊的カルト集団」であるオウム真理教を完全につぶすためには、このような方法は、何の利益もなく、却って有害ですらある。我々は、このような手段ではなく、真に有効な対応を検討し、実施していく必要がある。