松本智津夫被告第79回公判
1998/5/21
(毎日新聞より)
オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(43)の第79回公判は21日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で開かれ、松本サリン事件の捜査にかかわった長野県警の警察官4人、科学警察研究所職員1人に対する証人尋問が行われた。傍聴希望者は138人だった。
午前9時59分、松本被告が入廷。紺色の襟なしシャツに、同色のズボン姿。髪やひげが伸び、ボサボサに乱れている。
長野県警本部鑑識課の樋口伸夫氏が証言を始めた。樋口氏は松本サリン事件発生(1994年6月27日)当時、松本署の鑑識係に所属していた。
弁護人「上司から指示を受けたのは何時ごろか」
証人「(6月28日)午前5時ごろと記憶している」
松本被告が「だから、これ以上……」と大声でつぶやく。後ろの席の弁護人が松本被告の肩をつつく。
弁護人は捜査体制や指揮命令系統に関する質問を繰り返した。
弁護人「午前5時25分ごろ、県警本部の捜査1課長が到着したと新聞にあるが……」
「異議あり」。検察官が割って入った。「関連性がありません」。「裁判所も認めます」と、裁判長。弁護人は無視して「指揮関係について聞きます」と続けた。「止めて下さい」と裁判長が繰り返した。
弁護人「作業で注意すべき点を指示したか」
証人「ものには素手で触るな、むやみに近づくな、と話した」
弁護人「有毒ガスが原因と認識があったからか」
証人「はっきり覚えていないがそうだと思う」
事件直後に採取したもの、ほかの捜査員とのやりとり……。弁護人から細かい質問が続く。松本被告は目を閉じたまま。時々、ふうっとため息をつく。
弁護人「6月27日の天候はどうでしたか」
証人「昼間は晴れていましたが、夜は家で休んでいたので記憶がない」
弁護人「新聞によると、夜は雨がぱらついたとあるが、どうでしたか」
「記憶にない」という答えに、弁護人が重ねて尋問したため、検察官が「尋問が重複ている」と異議を唱えた。阿部裁判長も「検分の時の状況を聞けばいいじゃないですか。夜のことは関係ないでしょ」と、注意する。弁護人は「いや、尋問の前提が……」と小声で弁解しながら、もう一度記憶を尋ねた。しかし、証人の答えは「記憶にない」だった。
弁護人「捜査を進めるうえで、識者の話とかを聞いて参考にしたことは?」
証人「捜査本部がそういうことをしたかどうか、はっきり分かりません」
弁護人と裁判長が、言い合いを始める。「だから、どういう情報が伝わったのか聞きたいだけですよ」「もういいじゃないですか」「あと少しです」「もうやめて下さい」……。押し問答に終止符を打って、弁護人は証人席を向いた。
弁護人「当時、新聞でさえ識者や学者に、原因のガスについて聞いている。警察でも聞いただろう?」
証人「実況見分の前にガス検知器をやったが、検知できるガスではなかった。都市ガスも使っていない。しかし、有機リン系とかの先入観はなかった」
松本被告は左手で顔をおおい、ひじをついている。裁判長が「被告人、聞いてなさい」と声をかけた。松本被告は顔を上げ、「被告人じゃないよ、私は」と怒鳴る。「被告人ですよ」と裁判長。被告は「1996年12月に保釈されてる」と、意味不明な返事をした。
弁護人が、犠牲者が出た三つのマンション相互を行き来する経路を詳細に聞く。裁判長がしびれを切らしたように口をはさんだ。「そういうことを根掘り葉掘り聞いて、何になるんですか」。弁護人がかまわずに尋問を続けようとしたため、裁判長が再度「裁判所が質問してるんですけど」と、割って入る。弁護人は「もう終わったことですから」と、取り合わない。
弁護人「検索の後、次に何をしましたか」
証人「遺留物がないかどうか。普通の事件と違い、何をしたらいいか分からない状況でしたので、その『何』を探すのが検分でした」
弁護人はさらに水の採取について細かい質問を続ける。松本被告は手を机上で組み、じっとしている。
事件前日の雨にもかかわらず、現場近くの駐車場に水たまりはなかったと、樋口氏は証言した。それを受けて弁護人が「もし水たまりがあれば、採取していたか」と尋ね、裁判長がまた口をはさんだ。「ないと言っているんだから。そんなこと聞く必要ないでしょ」。さすがに弁護人も質問を変えた。
弁護人「駐車場フェンス下部の白色付着物はいつ現認したのですか」
証人「6月29日だと記憶しています」
弁護人「上部の付着は28日に採取していますね。下部のも、かなりはっきりしたものだが、28日には気づかなかった?」
証人「1日目は心にゆとりがなく見落としたのかも。2、3日すると冷静になって気付いたのでは」
午後0時3分、休廷。
1時15分、再開。
弁護人は、現場周辺の見取り図を示しながら、裁判官宿舎が駐車場から見通せるかどうかを聞いた。証人は「西駐車場では、北東の隅に立つと見通せない。南東の隅からなら見えた。東駐車場では、北東の隅では明治生命寮にさえぎられて見えない」と答えた。
弁護人「ブロック塀でも場所により、付着物を採取したところと採取してないところがありますね」
証人「西駐車場付近は建物がなく塀しかなかったので採取したが、開智ハイツの辺ではハイツの窓などからすでに採取していたので必要ないかと」
弁護人「駐車場付近の植物を採取した理由は?」
証人「28日は事件の概要がわからないまま思いつくところで水や植物を採取しましたが、日を追って採取物を変えたと感じます」
弁護人「土砂を29日に採取した理由は?」
証人「29日は金網フェンスに白色付着物を見つけたので、周りの土砂も採取した方がいいだろうと」
弁護人「土砂に変色はありましたか」
証人「目で見る限り確認できませんでした」
弁護人「新たに土砂を採取したのはいつ?」
証人「7月1日に、白くわずかに変色した部分を発見し、上司と相談のうえで採取しました」
弁護人「29日の採取場所と、7月1日の場所はどれだけ離れていますか」
証人「1〜2メートルだったと思います」
松本被告は、右手でさかんにひげをなでる。
弁護人「まかれたのがサリンらしい、と聞いたのはいつですか」
証人「記者会見の前、7月3日か、2日だったと思います」
弁護人「実況見分の途中でサリンらしいと分かったのか」
証人「その通りです」
弁護人「その時点の情報では、サリンはいかなる物質だったか」
証人「有毒と聞いていた」
弁護人「例えば水に分解しやすいとかは?」
証人「当時はいろいろなことを言う人がいて、どれが本当か決めつけての現場鑑識はしていない」
樋口氏への尋問が終わり、2時15分、同県警豊科署総務課留置管理係長、寺沢澄雄氏が入る。事件当時、大町署刑事課鑑識係長として、犠牲者の阿部裕太さん、室岡憲二さんの血液などを採取した状況を証言する。
検察官「どういう経緯で採取しましたか」
証人「原因となる物質が血液などに含まれていないか、犯人が遺留した手掛かりを得るため、採取を指示されました。立ち会い医師に依頼して、心臓血を注射器で吸引しました」
弁護側の反対尋問に移って間もなく、松本被告が低い声でブツブツ言い始める。裁判長が注意すると、しばらくはおとなしくしていたが、手を頭上にかざしたり落ち着かない。
弁護人「心臓から血液を採取することになったのはどうしてですか」
証人「検分が始まる直前、『毒物が含まれているかもしれない。心臓血を採れ』と指示があったから」
弁護人は、実況見分と並行して遺体から血液を採取した点を問題視する。
弁護人「血液を押収する、ということになれば、令状が必要ですね。令状は取ったのですか」
証人「いえ」
弁護人「実況見分の一環として行ったということですか?」
証人「そうです」
弁護人「心臓に注射器を刺して血液を取るということが、実況見分として許されるのか、と思う。これまで証人が扱った殺人事件で血液を採取する時、どのような手続きを取った経験がありますか?」
証人「任意提出、という形です。家族や医師に提出してもらっています」
弁護人「この検分の時は、(血液採取が)はたしていいのか、という議論はなかったのですか?」
証人「遺族の了解は得ている、と聞いていましたので」
弁護人「阿部裕太さんのお父さんの検面調書を見ますと、『6月28日午前6時23分ごろ、裕太さんの友人から、阿部さんが亡くなったとテレビに名前が出ている、という電話があった。松本署に電話をしたら、遺体を確認に来てくれと言われ、あずさ7号に乗り、道場に着いたら、遺体が白木の箱に安置されていた』となっています。代行検視、実況見分の時に、遺族は到着していないんですよ。遺族の了解があったというのは間違いありませんか」
証人「間違いありません」
3時2分、休廷。
3時23分、再開。阿部裁判長が「予定している残りの証人、林(泰男被告)証人はともかくとして、ほかの証人はすべてやっていただきますから、要領よくやってください」と弁護人に注意する。
弁護人「実況検分を始めた時間は? 調書では8時40分に阿部さんが終わり、室岡さんは8時45分から9時半となっていますが」
証人「調書にあれば間違いないと思います」
3時45分、寺島氏への尋問が終わった。
3人目の証人として、当時同県警豊科署刑事課鑑識係だった堀江伸治氏が入る。現在は伊那署留置管理係に所属している。犠牲者の一人、小林豊さんの遺体の実況見分を行った。
主尋問は5分ほどで終了し、弁護側の反対尋問が行われる。再び、遺体からの血液採取手続きについて、弁護人は質問する。
弁護人「遺留物領置という手続きを取ったのは、上司の指示か」
証人「そうです」
弁護人「血液を採取する時、遺族の了解を得るべき、という議論は?」
証人「了解を得ているという話を聞いた。そうでなければ行いません」
弁護人が立ち会い医師の助言内容をただすと、検察官が「主尋問の範囲でない」と異議を唱える。裁判長が異議を認めながら、「でも聴き始めたんだから、どうしても聴きたかったらどうぞ。それ以上はだめですよ」と珍しく柔軟な姿勢を見せ、弁護団から笑い声が漏れる。だが、信者や事件関係者らで埋まった傍聴席は、場違いな笑いに対し、こわばった顔が並ぶ。
4時3分、堀江氏に対する尋問が終了。担当の裁判所職員が法廷におらず、その職員を呼び戻し、次の証人を呼びに行くのに時間がかかる。松本被告はうつむいて眠っているようだ。
4時8分、同県警臼田署刑事課鑑識係長の島田信司氏が証言を始める。松本サリン事件当時は岡谷署鑑識係主任として、犠牲者の安元三井さんの検視などにかかわった。検察官が血液採取の方法などをただし、弁護人が反対尋問に立つ。裁判長が「被告人は背を伸ばして聞いてなさい」と注意する。だが、弁護人が話し始めても、松本被告はうつむいたまま。たまらず裁判長が声を荒らげる。「被告人、寝てんじゃないですよ」。松本被告は「寝てませんよ」とただちに反論する。「それに私は被告人じゃない。私は無罪です」。弁護人が苦笑いしながら、質問をやり直す。
弁護人「遺留品発見報告書を作成したというが、遺留品とは血液のことか、それとも毒物のことか」
証人「毒物です」
弁護人「毒物が含まれているかどうかはわからないでしょ」
証人「医師が、『遺体に縮瞳(しゅくどう)が見られる』と。『病院に運ばれた負傷者の血液中のコリンエステラーゼ値が下がっている。これは有機リン系の毒物だ』とも医師は言っていた」
弁護人「毒物は目にみえないでしょ」
証人「血液と分けるのは不可能です」
4時30分、この日5人目の証人として、科学警察研究所の角田紀子氏が入る。66年に入所以来、毛髪から個人を識別する方法や、有機リン系農薬や激毒物の分析に取り組んできた経歴を話す。今回、鑑定した付着物11点を確認した後、ガスクロマトグラフィー質量分析で、サリンとサリン分解物質を鑑定した手順などについて、説明していく。
検察官「水から抽出された物質は?」
証人「メチルホスホン酸モノイソプロピルと、メチルホスホン酸です」
検察官「サリンとの関連は?」
証人「サリンの分解物質と考えられます」
検察側主尋問が終了したのが4時50分。角田氏が退廷したのに続いて、最後に証言する予定だった林被告がグレーのスーツ姿で入廷した。阿部裁判長が「何度も来てもらって申し訳ないけれど、明日、また来て下さい」と声をかけた。
4時54分、閉廷。