林郁夫被告に対する判決の理由要旨
1998/5/26
(毎日新聞より)


 地下鉄サリン事件は、麻原彰晃らがこともあろうに、化学兵器であるサリンを使い、朝の通勤ラッシュの時間帯を狙って、閉鎖された地下空間で、かつ、混雑した地下鉄の電車内において、同時多発的に敢行した無差別テロであり、日本はもとより世界の犯罪史上でも類を見ない非人道的な犯行である。治療に当たった医師の適切な措置がなければ、より大規模な殺戮(さつりく)の事態を招きかねない状況にあったのであり、人間の尊厳をおよそ無視した犯行である。
 被告は、医師として、誰にも増して人命の貴さを理解していたはずであるのに、このような卑劣な行為に及んで悲惨な結果を招来させたことについては、厳しく非難されなければならない。
 また、被告は、東京・目黒公証役場事務長の仮谷清志逮捕監禁致死事件や松本剛に関する犯人蔵匿・隠避事件では、麻酔薬を投与して「自白」を促したり、頭部に電流を流して記憶を消去する「ニューナルコ」と称するイニシエーションを実施するなど、医師でありながら医療を悪用し、医師の名を汚したのであり、この点も看過できない事情である。

 以上のとおり各犯行の罪質、動機、態様、結果、なかんずく地下鉄サリン事件における残虐性、結果の重大性、遺族の処罰感情、社会的影響等からすれば、被告の刑事責任はまことに重大であって、これを償うには極刑をもって臨むのが当然であると思われる。

 死刑は、犯行の罪質、動機、態様、結果の重大性、殊に殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響のほか、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責がまことに重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からもやむを得ない場合に科することが許される究極の刑罰であるから、これを科するには慎重の上にも慎重を期さなければならない。このような観点から、被告の情状について更に検討する。
 被告は、地下鉄サリン事件について自首し、この自首は、被告の真摯な反省、悔悟の念に基づくものと認められる。
 被告は、自首を決意したきっかけについて、自分達の卑劣な行為によって生命を奪われた被害者、その遺族、いまだに心や身体に傷を負っている被害者につらい苦しみを与えたことに思いを致し、中でも、乗客の安全や電車の正常な運行の確保という強い使命感から、文字通り身を挺(てい)して殉じた地下鉄職員の崇高な行動と、本来医師として人の生命や健康を守るべき使命を与えられていたはずの自分が引き起こしたおぞましい無差別殺人行為とを比べ、あまりの落差の大きさに雷に打たれたような強い衝撃を受け、その結果、麻原のまやかしに気付き、自らのとった行動が誤っていたと確信し、この取り返しのつかない大きな過ちは、自分の生命を懸けても償えるものではないと胸が張り裂けるような思いがし、せめて自分にできることは、教団の犯罪行為がすべて明らかになるように、何よりも麻原をはじめ逃走している信徒らが早く逮捕されるように、また、教団による悲惨な事件がこれ以上発生しないように、自分の知る限りを明確に述べることであると考えて、自首することとしたと供述している。

 供述状況をみると、その言葉どおり、地下鉄サリン事件について自首したのを皮切りに、その後も、捜査、公判を通じ、一貫して、被告の関与した犯罪のみならず、教団の行った他の犯罪、教団の組織形態、活動内容等に関し、自己の知る限りを詳細に供述し、教団の行った犯罪の解明に多大な貢献をしている。
 加えて、被告の供述が突破口となって、麻原をはじめ教団上層部の検挙につながったことがうかがわれ、このことは、教団の組織解体と教団による将来の凶悪犯罪の未然防止に貢献したと評価することができる。殊に、教団の武装化が相当程度進展していた当時の状況に照らせば、その意義は決して小さくない。
 供述を更に子細にみると、被告は、捜査段階から公判に至るまで、記憶違い等による若干の変遷を除いては、一貫して、自己の記憶に徒い、ありのままを供述していることが認められる。被告は、極刑が予想される中、何ら臆することなく供述を続け、しかも、その内容は被告人にとって決定的に不利な事項にまで及んでいるのであり、包み隠さず、すべてを供述しようとする姿勢は被告の反省、悔悟の念の深さを示している。真実を明らかにすることだけが自分に課せられた最後の使命であり、かつ、人間として当然の責任であるとし、自らの公判や共犯者の法廷において、真実を語り続け、悔悟、改悛の念、麻原を盲信して犯行に及んでしまった悔しさ、情けなさ、さらには、被害者や遺族に対する申し訳なさから、嗚咽しながら供述し、時には号泣する被告人の姿に胸に迫るものを感じた者も少なくないであろう。「私は……やっぱり生きていちゃいけないと……思います」という被告人の言葉には、自己の刑責を軽減してもらおうなどという自己保身の意図は一片も窺われないのであって、まさに極刑を覚悟した上での胸中の吐露であって、被告の反省、悔悟の情は顕著である。

 被告らの犯行により死亡した被害者の遺族、重篤な傷害を負った被害者の家族ら多数の者の被害感情は峻烈である。被告が発散させたサリンによって死亡した被害者2名の妻も、当初は、被告らに対し極刑を望んでいたが、公判を傍聴するうち、証拠調べ手続きの終了間際の段階で、1名は、公判廷において、「本当に罪を悔いて、本当に謝罪してくれている気持ちがあるなら、一生刑務所の中で罪を償い、主人に謝罪していってほしいと思います」と証言するに至り、もう1名は、「林郁夫被告の公判の殆どを傍聴して……少くとも法廷に於ける被告の態度は、私の怒りや悲しみを増大させるものではありませんでした。……様々な想いに心を乱され、言葉で気持ちを表現出来ない状態で証言することは、私の意に反します」と書いた上申書を検察側に提出して、証人として出廷することを辞退しているところ、両名が胸の内に去来する複雑な思いのすべてを語っているわけではないものの、少なくとも、現段階で、被告に対して極刑を望んでいると断ずることはできない。そして、このことは、被告の公判廷における供述内容と供述態度が真摯な反省、悔悟に基づくものであることの証左といい得るのである。

 被告は、麻原が最終解脱者で、絶対的な存在であると信じ、麻原の説くところを盲信した結果、地下鉄サリン事件の実行役となることを決意したが、その際、教団と反対勢力との間で既に戦争が始まっていて、唯一真理を実践している教団が存亡の危機に瀕しており、教団が潰されれば人類の救済は不可能になると考え、さらに、殺害される者は麻原により「ポア」されて魂は救済されるなどと考え、サリンの撤布がやむを得ない措置であると思い込んだのである。麻原の説く内容は、倫理性も論理性も欠如し、まともな宗教家の説くところとは程遠いものであるのに、これを鵜呑みにしたことは愚かとしかいいようがない。しかし、被告の入信と出家の経緯、教団内での活動状況、犯行前に被告の置かれていた状況等に照らせば、被告がなまじ純粋な気持ちと善意の心を持っていただけに、かえって「真理」や「救済」の美名に惑わされ、視野狭さくに陥って、麻原の欺まん性、虚偽性を見抜けなかったとみることができる。そうすると、被告が村井秀夫を介して麻原からサリン撤布の実行役になるように指示された際に、いわゆる期待可能性がなかったとはいえないものの、被告の心理としてはこれに抗し難かったというべきである。そして、この点は、その限度ではあるにせよ、考慮してよい事情である。

 また、被告が地下鉄サリン事件の実行役に選ばれた経緯をみると、村井が実行役として「科学技術省」所属の4名を提案したのに対し、麻原が被告をも実行役に加えるように指示したのである。麻原の意図は必ずしも明らかではないが、当時の教団の組織形態、被告の教団内における活動状況等からして、医療技術を必要とする役割ならばまだしも、サリン撤布の実行役を割り当てられるのは、いささか不自然の感がある上、被告自身にとっても予想外の指示であったことに照らすと、麻原が被告の信仰心に付け入って被告を利用したものと認められ、麻原の指示がなければ、被告が地下鉄サリン事件の実行役にはならなかったということができる。そして、この点についても、その限りにおいて評価すべき事情である。

 さらに、被告は、仮谷に対する逮捕監禁致死の事件において、犯行の発案、計画に参画したわけではなく、仮谷を拉致して「第2サテアン」に連行するまでの行為にも関与していなかった上、仮谷を受け取ってからは、違法な監禁を継続する手段として身体を管理していたものの、心肺機能、代謝活動、意識状態等に十分配慮し、別の幹部に引き継いだ時点では、仮谷の身体に異状は認められなかったのであって、被告人の管理状況が死因と直接結び付いているとは考えにくい。
 加えて、被告は、医療技術を悪用したことを深く反省し、自ら95年12月7日付で医籍の抹消を申請し、同月22日右申請が受理されたこと、発散させたサリンによって死亡した地下鉄職員の遺族に対し、謝罪の意をしたためた手紙を送るなどして、慰籍の努力をしていること、既に教団を脱会していること、教団に入信するまでは、心臓外科を専門とする医師として、国立病院等に勤務し、数多くの患者の生命を救い、それなりに社会に貢献していたこと、業務上過失傷害の罰金前科2犯があるだけで、懲役前科はないことなどの事情も認められる。
 以上要するに、本件はあまりにも重大であり、被告の行った犯罪自体に着目するならば、極刑以外の結論はあろうはずがないが、他方、被告の真しな反省の態度、地下鉄サリン事件に関する自首、その後の供述態度、供述内容、教団の行った犯罪の解明に対する貢献、教団による将来の犯罪の防止に対する貢献その他叙上の諸事情が存在し、これらの事情に鑑みると、死刑だけが本件における正当な結論とはいい難く、無期懲役刑をもって臨むことも刑事司法の一つのあり方として許されないわけではないと考えられる。