松本智津夫被告第81回公判
1998/6/4
(毎日新聞より)



 オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(43)の第81回公判は4日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で開かれた。1994年6月27日深夜に発生した松本サリン事件に関して、長野県警の警察官3人に対する弁護側反対尋問が行われた。捜査員らは、突然襲ったサリン事件に、詳細が分からないまま「右往左往」しながら捜査に当たった様子や、犠牲者たちの悲惨な死亡状況を証言していった。傍聴希望者は124人だった。

裁判長:阿部文洋(52)
陪席裁判官:(48)
陪席裁判官:(40)
補充裁判官:(35)
検 察 官:西村 逸夫(47)=東京地検公判部副部長ら4人
弁 護 人:渡辺  脩(64)=弁護団長、大崎 康博(64)=副弁護団長ら12
被   告:松本智津夫(43)
検察側証人:上垣外勝彦(40)、戸田 俊邦(50)、小笠原吉晴(46)=長野県警警察官      (敬称・呼称略)


 午前10時開廷。松本被告は紺のポロシャツ姿。髪が伸び、長髪に戻りつつある。開廷早々、それまで法廷内に分散して座っていた刑務官4人が、松本被告と傍聴席を遮るように壁を作って座り直した。法廷での松本被告の姿はこれまで2度、写真週刊誌などに掲載された。「もう撮らせたくない」という裁判所の意思が感じられる。
 3人が死亡した開智ハイツの実況見分を担当した長野県警鑑識課の上垣外(かみがいと)勝彦氏に対する弁護側反対尋問が始まる。
 弁護人「実況見分調書をみると、あなたは窓が開いているかどうかに注意を払っている。窓が2カ所とも開いていても負傷者がいない場合もありますね」
 証人「風の向きもあるし、救急隊員が窓を開けた可能性もあります」
 弁護人は作成された見分調書の矛盾点を突くつもりのようだ。傍聴席の最前列、2列目は若い男女で占められた。松本被告をじっと見つめている。松本被告は半そでのポロシャツからのぞかせた真っ白な腕を机に置き、動かない。
 弁護人「あなたの調書では、4階の住人は電話の近くで倒れ、そこで亡くなった、とあります」
 証人「ベッドで病理学の本を読んでいて気分が悪くなり、電話をかけようとはって行って、その前で亡くなったと」
 弁護人「ところが、その犠牲者はベッドで、うつぶせになって倒れていたという調書がある。救急隊員のものですが、あなたの調書と違うが」
 証人「そうですか……。発見者がそう言っているのなら、それが正しいのでしょう」 窓ガラスに付着した「資料」を採取するために使ったガーゼの数、吐しゃ物の採取方法など、細かい確認作業が続く。やり取りの間、松本被告は頭を右側にかしげ、目を閉じ、手を組み合わせてじっとしている。
 弁護人「実況見分の後、検証したでしょう。どうしてですか」
 証人「被害者が亡くなった部屋で重要ですので」
 弁護人「検証しなければ見ることができなかったものがあるのか」
 証人「特にありません」
 弁護人「必要はあったのか」
 証人「私に聞かれても分かりません」
 弁護人「検証はあなた方の心を引き締めるためにやったのではないか」
 証人「違います」。怒ったように答えた。
 弁護人「男性被害者の部屋に入った時、電話はどうなっていましたか」
 証人「使える状態だったと思う」
 弁護人「第一発見者は電話のコードが引き抜かれていたと言っている。検証調書と違う。発見者が誤っているのか」
 証人「最初の人がそう見たのなら、その通りでしょう」
 証人は不機嫌そうに返事をした。


 2人目の証人に代わった。松本署の警察官、戸田俊邦氏。3人が亡くなった松本レックスハイツの実況見分を担当した。尋問者も渡辺脩弁護団長に交代する。
 弁護人「あなたが事件の連絡を受けたのは」
 証人「(1994年6月28日)午前1時ごろ、自宅でです。『松本市の北深志で大勢の人間が倒れて病院に運ばれている。現場に行くように』と言われました」
 事件の概要を尋ねる質問が延々と続く。「どうしてこういうことを聞くかと言うと、毒ガスが発生して一番危険な目に遭うのは現場に行った人だから、情報は徹底して伝えられなければいけない。その実態がどうだったかを確かめるためですよ」。弁護人が説明すると戸田氏は「ああ、そうですか」とうなずき「警察の装備の中には当時、酸素マスクや防毒マスクはなくて、せいぜい防塵(ぼうじん)マスク。消防隊員は酸素ボンベを担いでいました。でも我々は自分のことはともかく、事件の原因究明が最優先と思っていました」と答えた。
 「それはなかなか立派なことで」。弁護人が驚いた風でもなく答えると、傍聴席から笑いが漏れた。
 戸田氏は、1階の建設会社社員2人の立ち会いを求めて、死亡した3人の部屋を検分した様子を証言していく。
 検分は救急隊の死亡確認作業の後に行われた。「(建設会社から)ビルの図面を出してもらい、居住者の名前を確認」した後、写真担当、図面担当、計測担当の補助者3人とともに、3部屋を「行ったり来たりしながら」検分を続けたという。検分の指示をする立場にあった戸田氏も、同ハイツの検分が終わった後は「解剖の補助」に回ったという。
 渡辺弁護団長は、死者が出た部屋と出なかった部屋の違いを警察が検討したかどうか、を何度も尋ねる。
 弁護人「2階より3階の方が被害が大きかったようだが、どうしてか今考えて分かるか」
 証人「特別にない」
 松本被告が何ごとかをつぶやき始めた。「……ベリー・インポータント・ファクト……」。英語が低く聞こえる。
 弁護人「郵便受けを壊したのは」
 証人「救急隊員です」
 弁護人「どうして」
 証人「ドアの施錠とチェーンを外し、救助するため」。緊迫した救出の状況をうかがわせるやりとりだ。
 「……ソー・ユー・ネバー……」。傍聴席の信者らしい女性は、身を乗り出すようにして松本被告の不規則発言をメモしていた。
 正午、休廷。



午後1時15分、再開。戸田氏への反対尋問が続く。サマースーツ姿の戸田氏の顔は、緊張しているように見える。弁護側の細かい質問に時折、戸惑いの色も浮かぶ。弁護人は松本レックスハイツ3階で死亡した35歳の女性について尋ねた。検察側によると、この女性は発生直後の6月28日午前0時15分ごろ、自室玄関付近でサリン中毒により亡くなっている。
 弁護人「遺体の上には何がありましたか」
 証人「カーテンが腹部から脚の上にかけて体の上にありました」
 弁護人「かかっていたということですね」
 証人「はい」
 弁護人「(そのカーテンは)部屋に初めからあったものかどうか分かりますか。それについてだれかから聴取しましたか」
 証人「いえ。玄関ドアの内側についていたものだろうとは思いましたが……」
 弁護人「それを確認するために玄関の内側などを計測しましたか」
 証人「計測は記憶がありません。カーテンについていた棒の長さについては(調書に)記載がありますが、どこについていたものかは分かりません」
 弁護人「本人が苦しみのあまり、むしり取ったか、ほかの人がかけたものかについては」
 証人「むしり取ったのではないかという気もしますが……」
 松本被告はいつもの独り言もなく、ずっと聞き入ったまま。時折、紺の半そでポロシャツから、日に当たらない白い腕を上げ、腕を組み直す。


 1時28分、証人が交代する。やはり現場で鑑識活動に当たった長野県警鑑識課の小笠原吉晴氏。松本被告は前を向き、目を閉じて黙ったままだ。
 弁護人「(松本サリン事件の)現場に着いたのは何時ごろ」
 証人「(6月28日の)午前3時半前後だと思う」
 弁護人「午前6時ごろに実況見分を始めるまでは何を」
 証人「松本署で死体の検視をするよう指示があり、その準備をしている段階で、また現場へ行くように、と。結果的に右往左往した」
 弁護人「再び現場へ行ったのは何時ごろ」
 証人「午前5時過ぎだった。その後5時半前後に事件概要の説明を受けた」
 弁護人「どういう点に注意してほしいという指示は」
 証人「個々の指示はなかった」
 弁護人「指示の説明を受けた時、原因は想定した?」
 証人「広範囲にわたっていることから、先入観からではなく経験則上、ガスのようなものが一番あり得ると考えた」
 予想もしない事態に、戸惑いながら捜査が続いた様子が、証言からうかがえる。
 2時前、松本被告は全く聞いている様子はなく、頭をぐったりと下げたままだ。裁判長が「被告人、ちゃんと聞いていなさい。寝てるんじゃないよ」と厳しい口調でたしなめる。松本被告は何やらぶつぶつ言いながら頭を上げた。
 弁護人「写真を写す場所はあなたが指示したのですか」
 証人「写真を撮れと指示すれば、ちゃんと撮ってくれる。特別な場合を除き、その都度の指示はしない」 弁護人「特別な指示はしたか」
 証人「部屋の状態や窓の開閉状態が分かるような写真をということで、一般論的な指示でした」
 松本被告は再び頭を下げ、寝ている様子。見兼ねた裁判長が「被告人、ちゃんと背筋を伸ばして聞いていなさい」と叱責(しっせき)。松本被告はしかたなさそうに目を閉じたまま、頭を上げた。
 弁護人「亡くなられた3人の部屋の検証作業も、実況見分と同じ手順で行ったのですか」
 証人「はい、資料採取ですね」
 上を向き、ひげをなでる松本被告。「被告人、ちゃんと聞いてなさい」と、また裁判長の声が飛ぶ。質問が一段落し、弁護人が交代する。
 被害者が出た松本レックスハイツの見取り図を証人に見せながら、弁護人は問いかける。
 弁護人「調書を見ると、208号室には吐しゃ物のようなものがカーペットの上にあり、これを採取しているということですね」
 証人「取った事実はあります」
 弁護人「黄褐色の、粘着が残るが乾燥が進んだもの、という記述があるが」
 証人「はい」
 弁護人「この検分をした時刻は」
 証人「この部屋は何時から何時、という形で記録は取っていません。大ざっぱにいえば、検分は部屋番号の順に、というのが原則です」
 弁護人「おう吐が仮にあったとして、何時間ぐらいたったものですか」
 証人「見た目で時間を求められても……分かりません」
 弁護人「部屋の電話の受話器が外れていた、という記述もあるが」
 証人「記憶にはないが、そう書いてあれば事実です」
 弁護人「この部屋の窓ガラスは閉めてあったという記載があるが、この部屋は密閉状態といっていいのですか」
 証人「風が入らない、ということではそうだが、空気の流通という点では、密閉状態という言葉が適当かどうか……」
 弁護人は「終わります」と尋問の終了を告げる。

 裁判長が弁護、検察側双方に公判を進めるうえでの要望を告げている間、松本被告は大きく頭を後ろに反らし、背筋を伸ばす。
 「明日は青山吉伸証人、鈴木順証人、藤永孝三証人……午前10時からです」。裁判長は5日に尋問予定の証人の名前を読み上げて確認した。

 2時10分、閉廷。立ち上がった松本被告は何かつぶやき、体の前で軽く手を組んだ。