松本智津夫被告第83回公判
1998/6/18]
(毎日新聞より)


 オウム真理教の松本智津夫被告(43)の第83回公判は18日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で開かれ、地下鉄サリン事件の遺体を解剖した法医学者と、松本サリン事件で押収物である金属性のサリン加熱容器の鑑定に当たった警視庁職員に対する弁護側反対尋問が行われた。傍聴希望者は132人だった。


裁 判 長:阿部 文洋(53)
陪席裁判官:(48)
陪席裁判官:(40)
補充裁判官:(35)
検 察 官:西村 逸夫(47)=東京地裁公判部副部長ら6人
弁 護 人:渡辺  脩(64)=弁護団長
      大崎 康博(64)=副弁護団ら12人
被   告:松本智津夫(43)
検察側証人:石山 ●夫(67)=帝京大学法医学教室教授
      杉本 良一(45)=警視庁科学捜査研究所職員
      (敬称・呼称略)

 <編注>●は「日」の下に「立」


 午前10時開廷。松本被告は紺のポロシャツ姿だ。着席するなり、透き通るような白い手でひげをさすり、つぶやき始めた。地下鉄事件の犠牲者、伊藤愛さんの解剖に当たった帝京大学の石山●夫(いくお)教授が、第68回公判(今年2月)以来の弁護側反対尋問に臨む。
 「鑑定書の記述と、前回の法廷での証言で若干異なる点がありますので確かめたいと思います」。弁護人が質問を始めた。「そして薬物が……」。松本被告のつぶやきが大きくなる。傍聴席最前列に座った、髪の長い女性が身を乗り出す。「静かにしなさい」。阿部裁判長が頭をたたくような仕草をしながら松本被告をたしなめる。

 弁護人「『写真15』について。鑑定書では『軸索が太くなっており、はっきりしない』とあります。異常があるのは中心部ですか、周囲ですか」
 証人「全体です」
 神経細胞から伸びる長い繊維状の突起が「軸索」、短いものが「樹状突起」と呼ばれる。伊藤さんの死因がサリンによるものかどうかをめぐり、鑑定書に添付された顕微鏡写真についての専門的なやりとりが続く。
 傍聴席の中ほどでは、カーキ色のシャツを着た青年が、両指を絡ませる祈りに似たポーズで口を真一文字に結び、天井を見上げ続けている。
 弁護人「次の図2を見て下さい」
 弁護士が図を見せると、石山教授は「天眼鏡はありますか?」。石山氏は古風な言い回しで虫眼鏡を欲しがった。しかし、用意されておらず、法廷職員が取りに行く。
 突然、松本被告が立ち上がろうとして隣に座った刑務官に制止された。「座りなさい」。阿部裁判長がたしなめると、松本被告は「いや、いや」という風に顔の前で手を切った。
 弁護人が図を示して石山教授に質問を続ける。
 弁護人「これが異常であるか、正常であるか分かりますか」
 証人「はっきりしたことは診断できない。ちょっと異常があるな、と思うが、拡大したものではないので」
 用意された虫眼鏡で、図をじっくり見る。
 証人「異常がある、と思います」
 弁護人と石山教授との間で、図や写真のどの部分が軸索かどうか、という点でやりとりが続く。
 松本被告がノソッと立ち上がる。裁判長が「座ってなさい」と注意する。ブツブツと傍聴席に向かって小さな声で「証拠は押収された中にあると思います」とつぶやく。また、目を閉じて、しかめっ面に戻る。
 弁護人が「図5を示します」と、カラーコピーを証人に示そうとした。検察官が「ちょっと、見てません」と異議。弁護人が慌てて検察官にコピーを見せ、石山教授が座る陳述席のテーブルに置いた。
 弁護人「これは(神経繊維の)髄鞘(ずいしょう)(=軸索を囲んで管状をなす被膜)を写したものですが、正常ですか。それとも異常ですか」
 証人「正常か異常かは分からないが、(神経の周りに髄層がある)ラメラ構造が残ってる。正常かどうかは病気がなんであるかを加味しないと判断できない」
 専門的な話に、多くの傍聴人が目を閉じている。うなだれている人もいる。
 続いて弁護人はアルコール性疾患患者の神経繊維のコピーを示した。被害者の写真との違いをただした。
 弁護人「先生は前回の証言で、軸索収縮型の化学物質としてアルコールと言われた。本件はサリンということですが、同じように見えてもいいのではないかと思うのですが」
 証人「質問の意味が分からない。もっと端的に」
 かみ合わないやり取りに弁護人はうんざりした表情を浮かべ、質問を繰り返した。
 証人「常に同じでなくてはならないということはないんですよ」

 「OK? アイ・キャン・……ロング・タイム……」。松本被告の意味不明の英語が法廷に響く。

 弁護人「斜めに切られた軸索は見えにくくなる、と」
 証人「その通りです」
 弁護人「『写真28』は『軸索がない』とおっしゃったが、単に斜めに切られて見えないだけじゃないのですか」
 証人「いやっ、違います。私は、これは軸索がないんだと思います」。専門家の自負がのぞく。
 弁護人「『ダイイングバック』についてお聞きします。神経が先端部分から死んでいくことですよね」
 証人「症例などからそういう報告を受けてます」
 弁護人「神経の先端部分から死んでいることが確認できないとダイイングバックと言えないのではないでしょうか」
 証人「はい」
 弁護人「でも、前回の証言でも、そういう部分はないのですが……」
 証人「神経が強い衝撃を受けて死んでいるんです。ダイイングバックです」
 弁護人「末しょう神経と本幹を比較していないけれども、ダイイングバックだと。神経自身が破壊されているということですか」
 石山氏は「助けてくれ」とばかりに検察官席を見やり、「ですから、神経線維は口腔(こうくう)にもあるんです。それは全部見ているんだから」
 弁護人「一本の神経を細かく診ているわけではないと」
 証人「我々もプロですから。広く変性があると広範囲にみなければいけないのはお分かりでしょう。脊髄(せきずい)、口腔、末しょう神経と診れば十分だと言うのはお分かり頂けますでしょうかっ」
 石山氏のいらだちが募ってきたようだ。
 弁護人「神経の先端から死んでいると」
 証人「先端という質問はやめてほしい。神経繊維とちゃんと言ってほしい」
 弁護人「神経繊維の方から死んでいるということが、ダイイングバックということは言えるのか」
 証人「神経繊維の方に病原が存在した、ということの類推は可能でしょう」
 弁護人「ダイイングバックの確認としては……」
 証人「ダイイングバックは断定します」
 裁判長が「同じことを聞かないでください」「前回と重複しているので」と弁護人に注意する。
 弁護人「脊髄にも異常が出るということは、動物実験だけではないのですか」
 証人「何を根拠にそう言うのですか」
 石山教授は、ついに裁判長に向かい「弁護人の質問はアンフェアだと思います。前回、文献を調べますと言っていたのに。これでは正当にお答えできない」と語気を強めた。
 弁護人「調べようと思ったが、できなかったわけで……」
 裁判長「調べ足りなかった、と」
 サリンによる死亡、に疑義を呈する弁護人と証人との専門的なやりとりがさらに続く。弁護人が戸惑いを見せ、押し黙る場面もある。傍聴人の腕時計が「ピッ、ピッ」と音をたてた。正午。裁判長が休廷を告げた。

 <編注>●は「日」の下に「立」


 午後1時15分開廷。弁護側反対尋問が引き続き行われる。現れた症状に対するアルコールの影響など、被害者の死亡がサリン以外によるものではないのか――を弁護人は繰り返しただしていく。
 被害者の死について、弁護人がこだわる。
 弁護人「コリンエステラーゼ値が実際にどうかとか、瞳孔(どうこう)が何ミリ開いたとか細かな確認をしないと判断できないのでは」
 証人「そんなことないです。いちいち比べることは無意味ですよ。瞳孔が開いてくる、これで十分です」
 語気の強さに弁護人が軽くせき払いをし、質問を続ける。
 弁護人「呼吸が止まると心臓に阻害が起きるのはどうして」
 証人「さっきから、申し上げている。小学校のレベルですよ。ガス欠で自動車が止まるように」
 弁護人「別な原因で止まることがないかと思ってお聞きしているんです」
 証人「そうですか」
 松本被告の独り言が段々大きくなる。右隣の刑務官が腰のあたりをつつくと、不機嫌な顔をして黙った。
 脳死の場合にせき髄に与える所見についての弁護人の執ような質問に、証人は専門知識を背景に自信たっぷりに答える。
 証人「それで、あと何を知りたいのですか」
 いらだちからか、まくしたてるような石山教授の声に対し、弁護人の声は小さく聞こえる。
 弁護人「鑑定書について。サリンがまかれているということと、本件の症状を結びつけたのではないですか」
 証人「全くの誤解だ。サリンをまかれた患者だ、とは言われ、サリンについて予備知識もありましたよ。しかし、所見によって『硬直がない』などという症状があったので、組織の変化を見たところ、なるほどサリンと結びついているな、ということ。初めからサリンがあって、それに鑑定書を結びつけたという言い方は、非常に不快である」
 弁護人「最初にサリンがあって、鑑定書に結びつけたのかと思ったわけですから」
 証人「それはあなたの見解でしょう。これ以上は、もう話せない」
 石山教授は、怒りを強めて言い放った。弁護人は、話を変えるしかない。
 弁護人「結論として脳死であることは言えても、原因としては何かは言えない、と」
 証人「解剖としてはね」
 弁護人「終わります」


 2時10分、石山教授が退廷。警視庁科学捜査研究所の杉本良一氏が入廷する。杉本氏は電気関係鑑定の専門家だ。松本事件で押収された金属製のサリン加熱容器の鑑定を担当した。80回公判(今年5月)で、検察側の主尋問を受けている。
 弁護人「鑑定書について、期間の記載がありませんが」
 証人「嘱託日から日付があるまで」
 弁護人「(95年)6月28日作成となっていますが、その日まで?」
 証人「はい」
 弁護人「実験はいつから?」
 証人「持ってきた当日と次の日です」
 弁護人「平成7(95)年6月21日に返却済みとなっていますね」
 証人「6月21日午後に返却しております」
 弁護人「6月20日に嘱託され、その日もやったのですか」
 証人「はい」
 弁護人「シーズヒーターとは何ですか」
 証人「発熱体が隠されたヒーターのことです」
 弁護人「『100ボルト400ワット』と『100ボルト800ワット』と記載があったということですが、そのほかには」
 証人「商品名の記載はありませんでした。会社名はあったように記憶していますが」
 弁護人「メーカーは覚えていますか」
 証人「カタログは捜査員にコピーをもらったんですが、メーカー名までは記憶していません」 弁護人「容器の底面にヒーターの跡があったというが、三つともあったのですか」
 証人「A容器にはなかったと思う。B容器にはあったと思う」
 弁護人「C容器には顕著にあった」
 証人「はい」
 松本被告はじっと目をつぶって下を向いたままだ。時折あごひげや鼻に手をやり、居眠りしているのではないのが分かる。
 弁護人は、容器の仕組みについて杉本氏に細かく尋ねていき、2時40分、「質問を終わります」と言って席に戻った。
 再質問があるかとの裁判長の問い掛けに、検察官は「いいです」とあっさり。裁判長は「それではどうも」と杉本氏をねぎらった後、弁護人に時計を指さして小声で注意した。
 裁判長「こんなに早く終わるんだったら、ちゃんと言って下さいよ」。予定の審理時間は普段通り午後5時まで。それが大幅に繰り上がり、阿部裁判長は苦々しげな顔付きで弁護側に告げた。弁護人は黙ってうなずくだけだった。
 裁判長は弁護側が新たに同意した証拠の採用可否を、左右に座る3人の裁判官に諮り、続いて検察官がその証拠を読み上げた。地下鉄電車のドア位置を記した捜査報告書、駅構内の平面図、井上嘉浩被告が供述した地下鉄最新ガイドマップ購入店への照会による捜査報告書などが読み上げられていく。
 さらに、コンビニで買い物した日時・商品名を記録したレシートや、山梨県上九一色村でサリン残留物が検出されたことを報じる新聞記事、目黒公証役場事務長の拉致(らち)事件に関する95年3月の新聞記事なども読み上げられる。裁判長が「松本サリンのはないの」と聞き、検察官が「それは今ちょっと」と答えた。
 2時51分閉廷。