1998/10/21
坂本事件民事訴訟
原告 坂本良雄他
被告 新實智光
早川証人出張尋問 東京地裁527号法廷
新實被告本人は、出廷を希望する旨の書類を出さず、不出頭。
13時26分 早川被告入廷
手錠に腰縄で3人の看守に連れられ、白っぽいグレーの上着にズボン。髪には白髪が目立つ。
傍聴席に一瞥して証人席に着席。
**今日の法廷は、早川被告の刑事公判ではなく、新實被告の民事裁判にわざわざ来てもらった「証人」であって、いわばお客様。そのため、裁判官から説明や宣誓の指示も敬語を使って丁寧に言っている。看守に挟まれた様子など刑事裁判の雰囲気だけに、何となく違和感を覚える。
<岡田弁護士>
(岡田)1989年当時の教団内での地位は?
(証人)大師です。
(岡田)麻原の次の位ですか?
(証人)ひょっとしたら石井久子の方が上だったかもしれない。
(岡田)対外的に「総務部長」として、被害者付近住民との交渉を担当していたのか。
(証人)「総務部」は一般的でわかりやすいので、麻原からそういわれた。実際には「特別総本部」に所属していた。対外交渉は指示されて単発でやっただけ。あらかじめ担当と決まっていただけでない。自分は20人いた大師の一人にすぎない。新實も特総部の大師だった。
(証人)坂本弁護士の名前は、89年夏頃初めて教団施設内で聞いた。その場に大勢はいなかった。
(証人)89年8月3のサマナとの面会に坂本弁護士が同行して来た。場所は、富士市文化センターだったと思う。場所の設定は、よくわからないが、青山がやったのかもしれない・・。それに出席するように麻原から指示された。その場には新實と別所がいた。杉浦がいたかどうかは解らない。自分の役割としては、青山は当時まだ「信徒」であり、教団のことよく解らないので、私が説明ことであった。面会するサマナの護衛という役割もあった。そのときの話の内容についてははっきりとした記憶ない。青山と坂本弁護士がにこやかに話をしていたという記憶である。サマナと面会は一般的に認めているものではなく、このときは例外的措置であった。
(岡田)その理由は?
(証人)麻原から急にいわれたので理由は解らない。記憶あまりない。その日の終わり方としては、喧嘩別れということはない。次回どうするかということについては記憶がない。
(岡田)坂本弁護士の印象は?
(証人)非常に熱心ということ。青山は静かであるが、坂本弁護士はは活動的。静と動という感じ。坂本弁護士は、特に宗教に反発するという感じはなかった。特に変な印象は持たなかった。教団にとって障害になるという印象も持たなかった。
(岡田)その後、教団内で坂本弁護士のことが話題になったことはあるか?
(証人)その年の10月中頃、文化放送のラジオインタビューのことが話題になった。10人から20人集められ、番組の録音テープを聞かされた。話している内容は、サンデー毎日の記事と同じ内容であったという記憶。新實被告がその場にいたかどうかははっきり記憶内が、いてもおかしくない。文化放送の録音テープは誰が持ってきたか覚えていない。
(岡田)それに対してどんな措置を講じることになったのか?
(証人)麻原は「どうだ?」と言っていたが、具体的措置については記憶ない。サンデー毎日の時には大勢で毎日新聞社に押し掛けて行ったが、坂本弁護士に対する行動についてはあまり記憶がない。文化放送に対しては、麻原がその後番組に出たと思う。
甲25号証(中傷ビラ)示す
(証人)記憶ない。作成名義が「シッシャの会」となっているが、出家修行者(サマナ)のことであり、このようなビラを作ることはあり得る。
マスコミ対応策担当としては、外報部長の上祐。文章作成は杉浦か松本知子がやっていた。
(岡田)その後のマスコミ関係での問題は?
(証人)10月下旬頃、TBSのビデオが問題になった。これは、TBSが水中クンバカの取材をしていた時に、番組では「被害者の会」のインタビューも一緒に流すといことを聞いた。それを聞いて麻原は「それはまずい、内容確認して、まずければ止めてもらえ」と言うことになり、自分と上祐と青山と3人でTBSに出向いた。どこに行ったかははっきり記憶ない。対応した相手は、ディレクター2名、途中で何回か変わった。TBSの責任者は不明。
(岡田)ビデオを見せてくれと要求したのか。
(証人)いや、見せてもらう約束で行ったので、その場では全くもめなかった。行く前に話があった。TBSから「見てくださいよ」とすんなりと見せてもらったという記憶がある。ビデオを見ながらメモとった。ビデオを見ているとき、メモを止められたことはない。見た後、麻原に電話で報告した。3人で話した。麻原は「そういう内容であれば番組を中止してもらうしかないだろう」と言っていた。中止を求め、それがダメならば水中クンバカのビデオも使わせないと言った。翌日放映予定であったと思う。こちらの中止要求に対してTBSは長い時間協議していた。結局、全体について放映を止めますということになった。
(岡田)TBSから、ビデオを見せたことについて、黙っていてくれと要望はなかったか?
(証人)記憶ない。
甲17号証 夕刊フジ記事 検面調書スクープ
(証人)TBSからビデオを見せたことを言わないで、といわれた記憶ない。見返りとして取材の便宜を図ったことはない。こちらとしてもクンバカを放映してもらいたかった。TBSについて、ボンの共同記者会見の前に単独インタビューに応じてスクープさせてあげたのは、麻原が特に気に入っていた西野さんのルートによるもので、ビデオの見返りではない。TBSから戻って麻原に放映中止になったことの報告をした。坂本に対する評価は、その時は特に話題になっていない。しかし「被害者の会」の設立のことが会議で話題になったことはある。それに対する教団の対応については、自分は参加してない。自分に役割が当てられたことはない。「被害者の会」は、教団にとってできて欲しくないものができたという感じだった。
(岡田)1989年10月31日の横浜法律事務所訪問について。
(証人)青山と上祐と3人で行った。当日、急に麻原の指示があり行くことになった。自分は週刊大衆に抗議に行く担当、そのついでに横浜法律事務所へも回った。その担当は青山と上祐。一台の車で動いていたので同行しただけ。
(岡田)訪問の目的は、ビデオ発言についてか?
(証人)記憶ではそうではない。自分は目的は聞かされていなかった。自分の担当は週刊大衆の方。青山に聞いたらDNAのことを説明に行かなくてならないと言っていた。
坂本弁護士との交渉の際、自分は待合室にいたので、話の内容は聞いていない。帰り際に、上祐が「私もなんですかねえ」と言っていたのを記憶している。信教の自由についてのやりとりは記憶がない。3人の中では上祐が1番格が上。
(岡田)関内駅で早川だけが座り、2人が立っていたのではないか?
(証人)そういうことがあったかもしれない。富士に戻って報告をした。岡崎、石井、編集の人もいた。上祐が、信仰の自由を理解していない、といっていた。
(岡田)坂本弁護士は、そのときオウムにとってじゃまになる存在だったのか?
(証人)ありがたい存在ではないが、特段その時に問題視はされなかった。その後に被害者の会から公開質問状が来た。弟子たちはそれを見て憤っていた。しかし、11月2日に麻原からポアの指示があった時には意外に思った。「え、弁護士ですか」と思わず言った。坂本弁護士は実質的には「被害者の会」のリーダーと認識していたが、そこからすぐポアというのは短絡的だと思った。しかし、「なぜ」と質問はしなかった。村井、中川、新實、岡崎と自分の前でポアの話が出た。
(岡田)坂本について一番詳しい上祐と青山がいないことはおかしいとは思わなかったのか?
(証人)特に思わなかった。
(岡田)麻原の供述調書に「弟子たちの方から、競ってやらせてくれと言ってきた」との記載があるが。
(証人)そのような事実はない。しかし、弟子の間で競って麻原の信認を得ようという感情はあった。犯行方法については、一発で気絶させられる自信がないので、端本に話をした。住所は岡崎が電話で九州の信徒だった弁護士から聞いた。
(岡田)なぜ青山から聞かなかったのか?
(証人)岡崎が聞こうとしたが、麻原が止めた。麻原は「青山はまだだめた」と言っていた。「ポア」が殺害を意味することは認識していました。新實も認識していました。
薬があるから簡単だと言う話になり、その後注射を打つという話になった。医者である中川か薬を担当していた村井が用意することになった。
(岡田)殺害準備について。
(証人)杉並区桃井の選挙事務所に立ち寄った。急に止まった。林泰男に無線のアンテナを配線してもらった。変装のための着替えをした。
(岡田)玄関の鍵の問題について。
(証人)岡崎から無線で家のカギが開いているとの連絡が入った。自分は、何でそんなことを調べたのかなと不思議に思った。岡崎が坂本弁護士を騙してカギを開けさせたという考えはなかった。
(岡田)紺谷さんの時は、自宅に行ってマスコミだと嘘をついてカギを開けさせたことがあったのではないか。
(証人)自分はその当時はそのことは知らなかった。また、林泰男の工作で事前にカギを開けておく、などということことはあり得ない。
(岡田)殺害行為について。
(証人)部屋には自分が先頭で入った。玄関からすぐの部屋に寝ていた。奥の方に弁護士。頭は押入の方に向いていた。子供は解らなかった。夫婦2人しか見えなかった。親戚の人が泊まっていれば中止という指示だったので、他の部屋も見た。座卓のある居間と台所・書斎を見たが、誰もいないので殺害することとなった。
(裁判長)当時の部屋の明るさは?
(証人)寝室は顔が見えたが、他の部屋は暗かった。自分が入ったときには既に他の誰かが坂本弁護士に組み付いていたので、自分も足の方に組み付いた。手袋を忘れたので指紋が付かないように握り拳で足を押さえた。坂本弁護士は簡単には押さえられないような状態で、自分は足で蹴られれうしろに倒れ、鏡台にぶつかった。奥さんの首は押さえていない、足は押さえた。そのときの新實の行動は覚えていないが、その部屋にいたのは間違いなく、3人を殺すための行動についていたことは間違いない。
(岡田)犯行後の状況について。
(証人)遺体を埋めることについて、麻原は「山の方に埋めろ」と言った。発見されたとき身元が分からないように3人分けて埋めた。3県にまたがることも意識してやった。石井久子が事件を知っていたかどうかは知らない。石井は総本部で出迎えたが、死体は見ていないと思う。麻原が「よくやったご苦労さん」の言葉は石井も聞いている。上祐と青山とは、坂本事件について話したことはない。2人がこの事件を知っていたかどうか、いつ聞いたかは解らない。後で、現場にプルシャが落ちていたことを聞いた。中川が自分かもしれませんと言っていた。プルシャについて弁護士から調査依頼があったことは知っているが、その対応は知らない。11月3日の行動について自分が疑われていることは知っていた。11月12日に弁護士が訪ねて来たことも知っている。11月12日は総本部にいた。修行をしていたときに弁護士が来たことを聞いた。麻原から会うなといわれていた。公開捜査後の記者会見で「事件の日には早川は本部で修行中」と発表した。麻原から、修行していたことにしろと言われていた。
(岡田)警察の事情聴取について。
(証人)90年5月頃、坂本事件について警察の事情聴取うけた。
(岡田)90年2月の龍彦ちゃんの捜索について。
(証人)2月に岡崎の手紙送られたことは知っている。岡崎のものだと言うことを知ったのは、テレビで現場捜索の場面が出たとき。麻原が「佐伯が金を強請ってきたのを俺が蹴ったら、どうなっても知らないといっていたので、あれは岡崎だろう」と言っていた。捜索の場所も正確だったので岡崎だと思った。
(岡田)事件直後の警察の捜査、協力要請は。
(証人)ボンに出る直前に要請があった。それ以前に警察から要請があったかどうかは、自分は集中修行していたので情報は入ってきていない。
ボンに行く理由は、当時は、ボン支部の契約更新なので、みんなで行って見てみようということだった。コンサートの予定が入っていたが急に決まった。今考えれば、捜査を逃れる目的だったと思う。
(岡田)5月の事情聴取について。
(証人)東京のオウム施設内で行われた。青山と上祐が立ち会った。聴取に応じることも立会人のことも麻原が決めた。警察からプルシャの写真を見せられたが、事件には無関係と回答した。聴取は30分くらいで短かった。自分は緊張していた。拍子抜けはしないがホッとした。警察は3名来ていた。
(岡田)教団の施設周辺に「救う会」などのビラが撒かれていたことは知っていたか?
(証人)知っていた。自分から真実を伝えたいという気持ちはなかった。「ポア」ということを信じ切っていた。しかし心の中では苦しい部分があった。さちよさんや大山さんがTVに出たり全国を回っていることは知っていた。申し訳ないと辛かった。
(岡田)民事訴訟の被告になったときの対応はどう考えたか?
(証人)正直に事実を話すことしかないと思った。
(岡田)新實被告が事実を争っていることについてどう思うか?
(証人)今でも麻原に帰依していることから来ていると思う。私もそうだったからこんなことをしたのだが・・・。早く同じ立場に立って欲しい。
(岡田)再び教団が活動を活発化していることについてはどう思うか?
(証人)実際どうかはしらない。事実をきちんと見て欲しい。
(岡田)上祐が信者を養子縁組したことについては?
(証人)自分はとやかく言えない。麻原に対する帰依を持ち続けているということ。
(岡田)麻原公判で号泣したのはどういう気持ち?
(証人)無性に悲しくなった。複雑な気持ちだった。
(岡田)「被害者の会」の弁護士は坂本の他にいたことは知らないか?
(証人)知らない。小野、本庄の名前も聞いたことはない。
しかし、坂本を殺害しても他の弁護士が来るだろうと思っていた。だから、「弁護士ですか」と疑問の言葉が出た。弁護士は頼まれてやっているのに、何で弁護士をと思った。
<小島弁護士>
(小島)90年5月の事情聴取での質問内容は?
(証人)プルシャに見覚えあるかと11月3日のアリバイ。他の質問は記憶ない。あまり突っ込んだ質問はなかったが、捜査員は「それだとアリバイにならないな」と独り言を言っていた。警察から疑われているという実感はあった。これからもマークされるのではないかという気持ちはあった。指紋がないことについては気付かれていなかった。熊本県波野村で逮捕されたときは、坂本事件については聞かれていない。坂本事件についての事情聴取は90年5月の1回だけであった。
(小島)犯行の際の一家の抵抗や言葉について。
(証人)坂本弁護士は、「うっ」と殴られたときの声を出していた。奥さんは小さな声で何か言っていたが、内容は解らなかった。
(小島)ポスターや看板や親を見たときの気持ち。
(証人)3人を殺したことが辛いということと、何も知らないで一家を捜している人を見るのが辛かった。逮捕後、坂本事件についても時々聞かれたが、自供したのは逮捕後1か月半から2ヶ月後であった。最初の頃は否認していた。それは、まだ麻原に対する帰依があり、また自分だけでなく他の関係者が逮捕されるということもあった。しらを切ることは辛いという気持ちは日に日に強くなっていった。麻原逮捕後、あきらめの気持ちになった。隠している意味がなくなった。話す以上は死刑を覚悟しなければならない。
(小島)法廷に大山さんが来ている。遺族に対して直接言いたいことは?
(証人)人間として・・・・・・人間として許されないことをしてしまいました。とにかく申し訳ないと思っています。(顔を赤くして声を詰まらせつつ)
<裁判官>
検証図面の確認、経路、台所から寝室へ、写真P
押入の方向に頭を向けて寝ていたこと
(証人)龍彦がいることを知ったのは部屋に入ってから。それまでは子供がいるであろうという推測のみであった。
(裁判官)人を殺害することに迷いはなかったのか?
(証人)いやだとは思ったが、断ることはできなかった。救済を信じていた。現世ではいけないことでも、来世では。他のメンバーからも疑問、反論は出なかった。それがないこと自体が異常という気持ちもなかった。殺害行為の分担について特に打ち合わせはなかった。
(裁判官)実行犯の間で、関与の度合いに軽重はあったか?
(証人)わからない。教団での大師とその他という違いはある。新實は4人の大師の1人。
(裁判官)再度聞くが、遺族への気持ちは?
(証人)・・・・言葉にならない。
<木村晋介弁護士>
(木村)木村宅玄関のカギが壊され開けられたことについて何か知っているか?
(証人)聞いたことない。
<武井弁護士>
(証人)指紋除去は中川の手術で成功した。警察では指紋について何も言われなかった。
<岡田弁護士>
(証人)横浜事務所パンフは持っていったが、家族欄の記載について気付かなかった。坂本弁護士がどういう弁護士かということについて何も報告はなかった。殺害前には家族に関する話は何もでていなかった。