松本智津夫被告第93回公判
98/10/2
(毎日新聞より)

 ◇まさか化学兵器とは…松本サリン事件−−科警研職員反対尋問



 オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(43)の第93回公判は2日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で開かれ、松本サリン事件で現場試料の鑑定などに当たった警察庁科学警察研究所(科警研)職員に対する弁護側反対尋問が行われた。傍聴希望者は109人だった。

 ◆出廷者◆
裁判長:阿部文洋(53)
陪席裁判官:(49)
陪席裁判官:(40)
補充裁判官:(36)
検察官:西村逸夫(47)=東京地検公判部副部長ら4人
弁護人:渡辺脩(65)=弁護団長
    大崎康博(64)=副弁護団長ら12人
被告:松本智津夫(43)
検察側証人:瀬戸康雄(41)=警察庁科学警察研究所職員
 (敬称・呼称略)


 松本被告は紺色のトレーナーにズボン姿で静かに着席。午前10時、証人の科警研科学第4研究室の瀬戸康雄室長が席につき開廷した。
 検察官が5月22日の第80回公判で行われた主尋問の訂正を確認した後、弁護人の反対尋問が始まった。
 弁護人「松本サリン事件(1994年6月)をいつ知りましたか」
 証人「事件発生の朝のテレビ報道で知りました」
 弁護人「科警研に伝わったのはいつですか」
 証人「出勤は9時半で、10時には伝えられた」
 弁護人「警察庁の科警研が関与したのは?」
 証人「規模が大きくて原因が不明。被害者も多く出ているということだと思う。
(長野)県警から警察庁に連絡があって警察庁の指示で関与することはある」
 弁護人「長野の科捜研(科学捜査研究所)とは上下関係はあるのか」
 証人「国家の機関としては上位にあると思うが、職員関係の上下はない」
 弁護人「協力して鑑定するのか」
 証人「県警の本部長から嘱託され、個々の鑑定は独立してやっている」
 松本被告は開廷と同時にぶつぶつ言い始めたが、しだいに頭を垂れ、静かになった。
 弁護人「松本の現地を訪れたのはいつですか」
 証人「連絡を受けた日の10時半か11時ごろには松本に向かっていました」
 弁護人「1人で?」
 証人「私と所長と角田(紀子)さんの3人です。松本警察署の捜査本部に行って、中毒現場の視察をしました」
 弁護人「何時ごろか」
 証人「松本到着は3時くらい。その後すぐ現場に急行して視察しました」
 弁護人「現場は簡単に見ただけですか? それとも部屋の中まで?」
 証人「現場のおおまかな状況と、一つ二つ部屋の中に入った記憶があります」
 弁護人「河野(義行)さんの家も?」
 証人「庭のあたりに立ち入った記憶があります」
 弁護人「現場には何時間くらい?」
 証人「中毒の現場には30分くらいいて、そのまま捜査本部に帰りました」
 弁護人の質問は、瀬戸氏が鑑定前に得ていた情報の内容に移った。
 弁護人「被害者の症状は知っていましたか?」
 証人「新聞報道やテレビ、ラジオなどで情報を得ていました」
 弁護人「より正確な情報は警察から得ていたということですね」
 証人「はい」
 弁護人「縮瞳(しゅくどう)があったというようなことまで?」
 証人「はい」
 弁護人「化学兵器の可能性は考えていたか」
 証人「コリンエステラーゼについて学位論文で研究したが、松本のこの現場でまさか出るとは、と。頭をかすめたが、常識外として深く考慮しなかった」
 弁護人「角田さんや所長に話はしたのか」
 証人「揮発性の有機リン系化合物、化学兵器の溶剤などを可能性として残す、ということで。サリン、シアンという話は具体的に出てきていた」
 弁護人「平成6(94)年7月2日ごろ、長野県警がサリンと発表したが、それに先立ち相談は受けたか」
 証人「確か松本から帰った翌日、現場でサリンを検出したと情報を受けた。こっちも同じ現場試料を調べており、長野科捜研が検出したのがサリンで間違いないとアドバイス的なことは言ったかもしれないが、具体的指示はない」
 弁護人「サリンの名は科警研でも挙がっていたか」
 証人「はい」
 弁護人「どの試料から?」
 証人「池の水の抽出物だと思う。7月2日の時点ではすべてわかっていた」
 検察官「異議ではありませんが、長野のサリン発表は7月3日では? 新聞報道が4日です」
 裁判長が弁護人の方を向いて、「(時期が)特に関連があるわけでないでしょ。もっと具体的に関連のある質問をして下さい」。
 弁護人「鑑定にあたって、松本サリン事件の犯人像について情報はあったか」
 証人「なかったと思うし、捜査上別の問題ですし、少なくとも私は関与しておりませんでした」
 弁護人「(山梨県)上九一色村の異臭事件と松本サリン事件の関連についての情報はあったのか」
 証人「聞いていない」
 弁護人の質問に検察官からたびたび異議が出され、裁判長が弁護人に質問を変えるよう指示する。
 弁護人「池の水の抽出物についてですが、抽出がどういう手法だったのか、詳しく聞いていますか」
 証人「聞いてません。サリンが出ていることを確認することが大事で、どんな方法でどの試料からどんな溶媒で抽出したかは問題ではありません」
 弁護人「(サリンが検出された試料を)受け取ったのは?」
 証人「6月30日です。この時点では池の水から抽出されたという程度だった」
 うつむいていた松本被告がつぶやき始める。「アイ セッド オンリー……」「ホワット イズ……」
 弁護人「鑑定試料5の水については試料6に入っていた水をプラスチック容器に分けたというが」
 証人「漬物だるにいっぱい入っていたと記憶してるが……。これだけの試料をすべて長野から車で搬送してきたが、その中にこれも入っていた」
 正午休廷。



 午後1時15分、再開。松本被告は入廷の際つまずいて体が傾き、前を行く刑務官にぶつかった。小さなつぶやきが、その時だけ一瞬大きくなった。
 弁護人「漬物だるについて確認したい。死んだ犬のそばにあったかどうかわからないということですが、(長野県警)科捜研で検査した結果、そのたるからサリンが検出されたという結果が出ましたが」
 証人「具体的にどの試料から何が出たということは知りません」
 弁護人「残った水から分解物質のメチルホスホン酸が検出されたというが、そのような鑑定手法は事件以前から確立されていたのか」
 証人「警察で扱う鑑定ではあまり対象とされていなかったが、角田さんは以前から水溶性物質の分析などで手法を確立していた。それをサリン鑑定にも適用した。化学兵器の神経ガスによる中毒事件ということが初期の段階で判明していた。角田さんの研究が大筋で合致することがわかったので、その方法を用いた」
 弁護人「科警研では同種試料の鑑定経験があったのか」
 証人「実質的には初めてです」
 弁護人「(検察側の)主尋問で、『事件の発生状況から考え毒物の特定は困難』と答えているが」
 証人「現場に行き、長野県警の鑑定結果では何も出ていないと聞いたので、特定は困難と思った。私はコリンエステラーゼの研究をしていたので、ターゲットとなる酵素の活性測定が後に重要になると思い、コリンエステラーゼの鑑定に着手した」
 弁護人「血中から毒物を検出するのは難しいのですね」
 証人「そうです。血中には毒物を分解するたんぱく質がいろいろ入っていますし、血液中から毒物検出は不可能と言われている」
 化学用語だらけの会話が進む。傍聴席にはトレーナー姿などの信者らしき若者十数人がいたが、皆眠そうだ。2人に1人は首をこくりこくりと垂れている。
 弁護人「事件が起きたのが6月27日の晩。何日か経過して毒物の影響で血に化学的変化が起きることはあるのか」
 証人「ケース・バイ・ケース。2週間以内であれば変わりない。1、2カ月すればわからない」
 弁護人「(被害者の血液が)8検体というのは少ないと思いませんでしたか」
 証人「それはもっと多い方がいいと思いました。しかし、その後の検査で標準偏差の幅は説明できることがわかりました」
 眠気をふり払うように頭を右へ振り、髪をかき上げる松本被告。目を閉じたまま、鼻のあたりをなで回す。右横の刑務官が不審そうに松本被告の方を見る。弁護人は犠牲者の一人の血液鑑定結果について尋ねる。
 弁護人「全血、右心室、左心室で血中コリンエステラーゼの数値に違いがあるのはなぜか」
 証人「それは説明がつきません。事実がそうである以上、それ以上言うことはありません」
 弁護人「普通に考えたら左右心室の平均値が全血値になりそうだが、実際は全血値が一番高くなっているのはどうしてなのか」
 証人「全血が実際にどの部位から採血されたものか私にはわからない。これ以上議論のしようがない」
 弁護人「仮定の話で全血からは平均値が出そうなものだが、そう思わないか」
 「わからない。仮定の話なんてナンセンスだ」。瀬戸氏が声を荒らげた。
 さらに弁護人は鑑定結果に疑問を投げ掛ける。瀬戸氏は専門的な説明を加えながら、「今回の場合、検出感度が低かったということです。他の資料を踏まえて、ということです。完全には含有の確認には至りませんが」と補う。弁護人はなおも「それでは鑑定の基本姿勢が問われるのではないか」と追及する。
 証人が早口で説明を続ける中、うつむきがちだった松本被告の体が大きく傾いた。眠ったようだ。
 3時6分、弁護人が裁判長に「ちょっと休憩をとりたいのですが。まだ終わらないと思うので」と声をかけた。裁判長は「終わらせようと思って午前中は(質問を)あまり制限しなかったのに」とつぶやく。正面の時計をじっとにらみ「証人もお疲れですからね」と、休廷を告げる。

 3時24分、再開。
 弁護人はサリンの分解物質であるメチルホスホン酸ジイソプロピルの2通りの検出方法のうち、瀬戸氏が一方しか行っていないことに疑問を投げ掛けた。
 証人「含有量が非常に少ない場合、試料中に含まれているかどうか完全に証明できないことはありますが、検査結果から含有を示唆することはできます」
 弁護人「ということは、鑑定書の記述を訂正するということですか。鑑定書には『メチルホスホン酸ジイソプロピルが含有されていることが認められた』と書かれていますが」
 証人「いいえ、鑑定人として含有を認めています。完全な含有は証明できなかったが、鑑定書作成の段階では認めるに足る結果が得られたということです」
 松本被告はうつむいたまま鼻を触り、正面を向いて頭の両側をなで回した後、一瞬目を開いた。
 弁護人「鑑定書の考察ではサリンの副作用について書かれていますね。エージングというのはどういう現象か」
 証人「(サリンの解毒剤の)PAMなどによる作用が全く無効になります」
 弁護人「(サリンは)短時間で消えるというが、少し残ることもあるのか」
 証人「1日たてば検出できなくなる」
 弁護人「水抽出物の鑑定によると、2週間たってサリンが出た例もある。水では1週間後に検出することはあり得ないのか」
 証人「濃度が高ければ検出の可能性は十分ある」
 松本被告はしきりに額に手をやり、長く伸びた前髪を気にしている。被告席の机の上にたまったフケが白く光って見えた。
 弁護人「河野さんの池の水を抽出した試料は、送られて来たものをそのままガスクロマトグラフィーにかけたわけではないのか」
 証人「抽出量が少なく、希釈して量を増やしてあります。(抽出量は)0・1CC以下だと思います」
 弁護人「一応の目安にはなるのか」
 証人「一概には言えないが、量が多くなれば高くなることは示唆されます」
 松本被告は突然上を見上げ、ぶつぶつとつぶやき始めるが聞き取れない。最前列で傍聴する若者たちも身を乗り出して松本被告の言葉を聞き取ろうとする。
 5時を過ぎ、裁判長が「今日はもう終わる約束でしたね」と弁護人を見る。「もう少し」と粘る弁護人に、「あとどのくらい?」と尋ねる裁判長。「3時間程度です」の答えに、法廷の空気が重くなる。検察側は「立証趣旨に即し、鑑定内容にずばり入ってほしい」と求める。裁判長も「1日で終わると言った以上、有効に使うよう努力してください」と弁護人にクギを刺し、5時4分閉廷した。