松本智津夫被告第96回公判
98/11/05
(毎日新聞より)



 オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(43)の第96回公判は5日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で開かれ、松本サリン事件の犠牲者の遺体を解剖した福島弘文・信州大医学部法医学教室教授に対する弁護側の反対尋問が行われた。鑑定の細部にわたって尋問する弁護側に、福島教授は丁寧に説明を続けたが、時にいら立ちの表情も見せた。松本被告は関心もなさそうに目を閉じて押し黙り、あるいは独り言をつぶやいていた。傍聴希望者は117人だった。

 ◇出廷者◇
裁判長:阿部文洋(53)
陪席裁判官:(49)
陪席裁判官:(40)
補充裁判官:(36)
検察官:西村逸夫(47)=東京地検公判部副部長ら5人
弁護人:渡辺脩(65)=弁護団長ら10人
被告:松本智津夫(43)
検察側証人:福島弘文(51)=信州大法医学教室教授
 (敬称・呼称略)


 午前9時59分、青色トレーナー姿の松本被告が小さな歩幅で入廷した。
傍聴席の信者が身を乗り出す。松本被告は席に着くなり、何ごとか言い始める。
 松本サリン事件で3人の遺体を司法解剖した福島教授に対し、弁護側の反対尋問が始まった。
 弁護人「鑑定嘱託に至る経緯についてうかがいます。1994(平成6)年6月28日午後2時58分に榎田哲二さんを解剖したことになっているが、解剖依頼の打診があったのは」
 証人「同じ日の午前中だったと思います」
 弁護人「事件は知っていましたか」
 証人「松本で大騒ぎしていると、知り合いから連絡がありました」
 弁護人「打診はどこから」
 証人「警察です」
 弁護人「事件概要は説明されましたか」
 証人「現場は大学の近くで、多数の人が被害に遭ったと。病院に運ばれた人も多数あった」
 弁護人「原因はお聞きになりましたか」
 証人「全く分かりません。警察も分からなかったのでは。ただ、あの地域で十数年前にガス漏れがあり、亡くなったおばあさんを解剖した経験がある。ガスが関連するのかなと思いました。広域にわたって短時間で被害が出たということで推測したわけです」
 弁護人「解剖前、サリンについての知識は」
 証人「ほとんどありません。ガス性のものと推測はしましたが、文献がないんですね。死因は肉眼的所見と科学分析を試みました」
 弁護人「解剖中に心臓血を採取したわけは」
 証人「一酸化炭素中毒のことが考えられましたので。右心室、左心室、別々に血を採って、それから心臓を摘出して」
 生々しいやり取りにも、松本被告は彫像のように動かず、うつむき加減で黙っている。尋問は意見書や鑑定書の細部に入る。
 弁護人「鑑定書の提出に2年8カ月以上経過しているが」
 証人「公判で必要になった時に、警察の要請に応じて提出した」
 弁護人「作成前に結論は出ていたのか」
 証人「どういうことか。意見書ができる前に結論を出したと聞きたいのか」
 「最初に結論ありき」とも取れる尋問に、証人が語気を強める。
 弁護人「提出前に内容を報告することはあるか」。微妙に質問を変える。
 証人「提出前にいろんなディスカッションはする。結論は書面に書かれている通りだ」。証人の言葉に不快感が交じった。
 弁護人「血しょうブチリルコリンエステラーゼと赤血球アセチルコリンエステラーゼとはどう違うのか。片方だけ検査すればいいものではないのか」
 証人「私は両方必ずやるようにしている。ブチリルコリンエステラーゼの方は簡単にできるが、アセチルコリンエステラーゼはすぐに測れるものではない」
 弁護人「先生の証言では(被害者の)3人とも正常値よりはるかに低かったと表現されているが、異常の目安は」
 証人「例えばブチリルコリンエステラーゼの正常値のうち、1・84という下限値を取ると、榎田さんの場合1・28ですから2割ぐらいの低さですが、アセチルコリンエステラーゼは極めて低い。下限の5分の1ですから、異常値と言うしかないわけです」
 弁護人「正常値1・84に対し1・28ではそんなに異常ではないと思うが」
 証人「アセチルコリンエステラーゼの方が非常に低く、そちらの方に注目すべきだ。
2分の1から5分の1というのは異常です」
 弁護人「鑑定書がサリンによる中毒死とされているが、理由についてうかがう。まず、血液からメチルホスホン酸、メチルホスホン酸モノイソプロピル、メチルホスホン酸ジイソプロピルが検出されていることはどのように確認しましたか」
 証人「科警研(警察庁科学警察研究所)の鑑定書です」
 弁護人「それだけですか」
 証人「その通りです。矛盾はない」
 弁護人「長野県警の科学捜査研究所の鑑定結果を使っていないのか」
 証人「使っていません」
 弁護人「矛盾するものだから使わなかった?」
 証人「機械の違いではないでしょうか」
 弁護人「長野はたいした機械ではないと」
 証人「ではないでしょうかね」
 弁護人「科警研の方が信用できると」
 証人「高額な機械の方が信頼できる。あくまでも私の印象ですが」
 傍聴席で居眠りしている信者らしい男女が、裁判所の職員に「寝ないで。姿勢を正して下さい」と注意された。
 弁護人「(サリンの判断は)急死を根拠の一つにしていますが、前回の証言では各臓器、肺や肝臓にうっ血があり、血液が暗赤色。また調書では眼球結膜にうっ血があると」
 証人「その通りです」
 弁護人「急死とはどういうものを」
 証人「非常に短時間で死亡すること、心筋こうそくや窒息死もそうですね」
 鑑定書の用語について細かい質疑が続く傍らで、松本被告の呪文(じゅもん)のような独り言が出始めた。時折、首を左右にふるが、目は相変わらずつぶったままだ。
 弁護人が鑑定資料を示しながら尋問を続ける。
 弁護人「急死に結びつく3点の所見について」
 証人「何度も説明しましたが」と言いながら、いら立ちを隠せないように(1)還元ヘモグロビン(2)血液の流動性(3)うっ血の強さ――について説明する。
 弁護人「目の瞳孔(どうこう)について直径0・3センチとあるが。実況見分調書では『0・4センチ』となっているが」
 証人「私が診た時は0・4センチでした」
 裁判長「午前はこのくらいで」。松本被告が閉じ続けていた右目を開け、顔を上げて笑う。正午、休廷。


午後1時15分、再開。
 弁護人が鑑定書について細かい質問を続行する。
 弁護人「瞳孔ですが。(検視時には)やや縮瞳し、直径4ミリとあるが、解剖時には瞳孔がどうして大きくなっているのか」
 証人「死後変化があると思う。瀬島(民子)さんは夜9時ぐらいから解剖した。死んだのは前日で、ほぼまる1日たっており、最初の段階で縮瞳があるので、死後変化で緩んできたと解釈してよいと思う」
 弁護人「次に頚部(けいぶ)器官。器官内に食物残渣(ざんさ)(かす)があるというのは」
 証人「胃の内容物ですね。嘔吐(おうと)し、そこに残っていたと読める」
 弁護人は縮瞳の幅が3ミリか5ミリかにこだわり、延々と質問を続けた。
 弁護人「文献を読むと、3ミリ程度では縮瞳と言わない、というものもある」
 証人「死後変化も考慮する必要がある。死亡直後にかなりの縮瞳がみられても、徐々に緩んで開く。5ミリくらいは普通でしょう。私はそう解釈している」
 弁護人「サリンでなくても縮瞳が起きることは」
 証人「それはあるでしょう」
 弁護人「サリンを吸っても縮瞳が出ないことは」
 証人「ないと思います」
 体を揺らしながら分からない言葉をつぶやいていた松本被告が、突然静かになり、動きも止まった。BGMが消えたように、廷内には証人と弁護人のゆっくりしたやり取りだけが響く。
 弁護人が交代する。
 弁護人「亡くなった3人については、実際に嘔吐を確認していないのでは」
 証人「亡くなられた所では確認していない。ただ気管の一部に付着が見られるので、嘔吐などいろいろな症状が一気に出たのではないかと」
 弁護人「死因の根拠は、外観的に急性死であることや、外傷が見られないということのほかに、血液中にコリンエステラーゼやサリン関連物質があったという検査結果を受けて判断したのか」
 証人「そうです」
 弁護人「血液検査の結果は大きな根拠か」
 証人「そうです。重要です」
 弁護人「科警研の鑑定書では、榎田さんに関しては、血液からメチルホスホン酸とメチルホスホン酸ジイソプロピルは出ているが、メチルホスホン酸モノイソプロピルは出ていない。鼻汁からはモノイソプロピルが出ている。このため同様にサリンと推測したということか」
 証人「そういうことです。午前中の説明に追加しておきますと、血液からはサリンは検出されなかったと訂正します」
 弁護人「榎田さんの血液からモノイソプロピルは検出されていないが」
 証人「ですから、鼻汁からはモノイソプロピルが出ている。サリン関係の物質がある。これはサリン中毒の判断になる」
 弁護人「ただね、(サリンを)吸入したのであれば、血液の中に入ることが前提になっていると思うが、血液から出ないで鼻汁から出たのはなぜか」
 証人「サリンにさらされた時の条件による」
 弁護人「一定量以上のサリンにさらされないと死なないのに、モノイソプロピルはなぜ検出されなかったんでしょうか」
 検視など一連の作業の過程に誤りがあったと言わせたい弁護人の口ぶりに、検察官が立ち上がって「尋問が重複です」と異議を唱えた。遮るように、福島証人は「検出されなかっただけですよ。モノイソプロピルの検出限界まではいかないが、致死量を吸い込んだということでしょう」と答える。弁護人は「それじゃ矛盾が……」と、食い下がるそぶりを見せたが、証人は「矛盾なんかしませんよ」と、切って捨てるように応じた。
 弁護人が交代し、尋問はまた、縮瞳の話に戻った。
 弁護人「縮瞳で、ピンホールの大きさとは」
 証人「針の穴くらいでしょう」
 弁護人「見たことはありますか」
 証人「あります」
 同じようなことを延々と聞かれるためか、証人の言葉には怒気が交じるようになった。裁判長は2時58分、尋問の切れ目で休廷を宣言した。


 3時20分、再開。
 弁護人「サリンは安定していない物質だが、モノイソプロピルは安定している」
 証人「だから検出されたんじゃないですか」。証人の答えがぶっきらぼうになり、しばしば声を荒らげる。
 弁護人「体内に入ったサリンは、どういう流れで神経に届くのか」
 証人「だから血液で運ばれるわけでしょ」
 弁護人「解剖所見だけで死因を推定すると、どういう死因が想定できるのか」
 証人「愚問ですね」
 弁護人「え」
 「愚問ですね。仮定の話でしょ」。やり取りがけんか腰になる。松本被告はうすら笑いを浮かべ、ぶつぶつつぶやきを続ける。
 弁護人が交代する。
 弁護人「心臓血の鑑定書を受け取ったのはいつですか」
 証人「そこに書いてあると思いますが」
 弁護人「なるほど。受け取った資料は死体の解剖結果、心臓血の鑑定、捜査報告書の写しなどですね」
 証人「そうです」
 弁護人「鑑定書と意見書の内容は」
 証人「全く同じ内容を書いたつもりですが」
 弁護人「解剖していない人まで鑑定結果が同じになったのは」
 証人「十分な証拠がありましたから。意見をつけても矛盾はないと判断した」
 弁護人「解剖結果はさほど重要な資料ではない、ということか」
 証人「そんなことはないが、死因について特定できる科学的な鑑定結果などもある」
 弁護側の尋問をはねつけるように証人が答えると、弁護側は予定より約1時間早く尋問終了を告げた。検察官が福島教授の鑑定書の証拠採用を求め、弁護団は「検討します」と答えた。裁判長は「これだけ早く終わるなら、明日の分を入れておけば……」
とつぶやいた。3時52分、閉廷。