松本智津夫被告第99回公判
98.11.20
(毎日新聞より)



 オウム真理教の松本智津夫(麻原彰晃)被告(43)の第99回公判は20日、東京地裁(阿部文洋裁判長)で開かれ、地下鉄サリン事件で犠牲者を解剖した医師に対する弁護側反対尋問が行われた。1996年4月から始まった「教祖の公判」も、次回12月3日で100回を数える。傍聴希望者は106人だった。

裁判長:阿部文洋(53)
陪席裁判官:(49)
陪席裁判官:(40)
補充裁判官:(36)
検察官:西村逸夫(47)=東京地検公判部副部長ら4人
弁護人:渡辺脩(65)=弁護団長
    大崎康博(64)=副弁護団長ら12人
被告:松本智津夫(43)
検察側証人:高取健彦(59)=東京大法医学教室教授
 (敬称・呼称略)


 初冬の冷気が裁判所周辺を包み、傍聴する信者らの服装もパーカーや厚手のシャツが目立つ。午前9時59分、松本被告が入廷。こちらも青の厚手のスエットパーカーを羽織っている。着席した松本被告は早速、何ごとかつぶやき始める。
 阿部裁判長が開廷を宣言し、まず検察側が証人の東大法医学教室教授、高取健彦氏に肩書の確認をした。続いて弁護人の反対尋問が始まる。
 法医学の分野や、証人の経歴などを弁護人は細かく確認していく。質問が一段落し、短い沈黙が流れる。証人のせき払いが法廷に響く。松本被告は無言になり、背筋を伸ばしている。

 弁護人「主尋問で、『農薬など有機リン化合物の中毒の鑑定例は2件』と証言した
が、証人の経歴からみると少ないのでは?」
 証人「農薬で死ぬ例には自殺のケースが多い。東京23区は自殺か事件かあいまいな場合は大塚の監察医務院に持ち込まれる」
 弁護人「どのような種類の有機リン化合物か」
 証人「2件ともパラチオン中毒だと思う。有機リン系のチャンピオンというか、ポピュラーなものです」
 弁護人は鑑定依頼書と鑑定書を示して聞く。「この鑑定書には、執刀者の助教授と、補助で証人が執刀に立ち会っているが、見ていますよね」
 証人「もちろん見ています。3月21日の午前中に2体、私と助教授でやりました。解剖台が2台平行にあって同時にやるわけで、見ようと思えば(もう1体も)見られるということです」
 弁護人は各検査項目にだれが関与して、どういうことをやったかなどを聞いていく。
松本被告は目をつぶりうつむいたままだ。
 弁護人「鑑定書の作成が平成7(1995)年3月21日から9(97)年1月29日と、2年近くもかかっているのはどうして」
 証人「リン酸化合物を検出した経験がなかったので、予備検査をしなくてはならなかった。例えばサリンを使うのは非常に危険で、実験も厳しく規制されていて容易に手に入らなかった。同じような薬理学的な性格を持ったものをまず作成しなくちゃならない。はたして同じような作用をするのかも検証しなくちゃならない。それだけで1年、1年半、もっとかかったと思う。多少作成に至るまで時間がかかった」
 弁護人「リン酸化合物の検出に1年くらいかかったということか」
 証人「そういうことです」
 弁護人は、地下鉄サリン事件で亡くなった営団地下鉄職員、高橋一正さんの遺体解剖について聞いていく。「高橋さんの鑑定書について。血液の採取はどのようにしたのか」
 証人「心臓血を採っている」
 弁護人「解剖時に、被害を受けた状況についての報告書はご覧になりましたか」
 証人「あると思います。事件の概要については、所轄の警察署からファクスで送られてくる。またご遺体と一緒に、医療行為が施されたのであれば、そのカルテが持参されるのが通常です」
 弁護人「証人が書いた意見書の基礎になったのは、病院の担当医の情報か」
 証人「それだけではなかったですね。警視庁の事件概要を書いた書類とか、科学警察研究所のデータもあったと思いますが……。正確には覚えていません」
 弁護人「事件の概要のファクスはいつ届いたか」
 証人「通常は解剖の2〜3時間前で、本件もそうだと思う」
 弁護人「内容は?」
 証人「この方は地下鉄で倒れて、聖路加(国際病院)に運ばれて……」
 「カルテを見たのはいつですか?」。続けて弁護人は尋ねる。
 証人「解剖の前か、解剖中に手を休めて見るということもある。少なくとも解剖を終える前には見ていたと思う」
 弁護人「死体にうっ血が発生するのは急死の場合以外にあるか」
 証人「ある。例えば心筋梗塞(こうそく)や一酸化炭素中毒などですね」
 裁判長が割って入った。「ちょっと待って下さい。質問と答えがかみ合っていないようですが。質問は急死以外でもうっ血が発生するかという意味ですよね」
 弁護人「そうです」
 裁判長「心筋梗塞は急死ですよね」
 証人「そうです。ああそうですね。急死以外もあります。でも、それほど死因を決めるのに重要ではない。窒息死、急死やほかの状況でもよくあります」
 弁護人「心筋梗塞で亡くなった場合は遺体のどこでわかるのか」
 証人「肉眼でわかるときもある。顕微鏡で組織学的検査で判断もする」
 弁護人「高橋さんの心筋の顕微鏡検査はしたのか」
 証人「行っております」
 弁護人「ショック症状を起こすと、皮膚は冷たく、冷や汗が出て、無気力、呼吸障害、血圧低下などとあるが、ショックで呼吸障害が起こることはあるか」
 証人「ある」
 弁護人「高橋さんの直接の死因は、心原性ショックではないか」
 証人「この場合はなかったと思う。組織学的にこのくらいの人なら、虚血の状態になるほどではない。それならここにいる人にもいくらでもいる。私はそう考えられませんし、この症例をどなたに見てもらっても同じだと思う」
 弁護人の質問が一段落。裁判長が「今日中に終わらせていただけるんですね」と念を押し、11時59分休廷。


 午後1時15分、再開。
弁護人は、犠牲者の血液の鑑定方法などについて、細かな
質問を続けた。
 弁護人「アセチルコリンエステラーゼの測定は、解剖前から予定されていたのですか」
 証人「測る必要があるとは思っていました」
 弁護人「測定に用いた血液は、凍結、融解したものだということですが、酵素活性は時間とともに低下するのでは」
 証人「アセチルコリンエステラーゼは壊れにくい特徴を持っています。冷凍しても時間をおいても、活性が下がるとは思いません」
 弁護人「24時間で活性は半減するとの資料を見たことがありますが」
 証人「私は、そうは思いません」
 弁護人「全血というのは血液のどの部分ですか」
 証人「血しょうと血清を加えた血液全体です」
 弁護人「証人が測定した全血を対象とするコリンエステラーゼの活性値だが、これがどのくらい失われたかの精度は、血しょう、血清で違うのか」
 証人「血しょうでも血清でもほとんど同じ」
 弁護人が「獣医学の技官が人間のコリンエステラーゼの鑑定をしたことはあるのか」
と、からかうように質問した。証人は「分からない」としつつ、「弁護士さんが半日もトレーニングすればできるくらい簡単だ」と皮肉っぽく答える。
 前かがみの松本被告。居眠りをしているようだ。
 弁護人「高橋さんが亡くなってから、だいぶたっての検査ですよね。温かくなっていたと思いますが」
 証人「おっしゃることは分かるが、検体はマイナス70度で保管してあるので、アセチルコリンエステラーゼの活性は落ちません」
 弁護人「外気温はどうなんですかね」
 証人は苦笑しながら「言わずもがなですが、検査は37度の恒温槽の中でやっているんです。外気の影響はありません」。強めた語気から、うんざりした様子が伝わる。
 弁護人「有機リン系化合物を疑ったということですが、アセチルコリンエステラーゼの活性値が下がる場合はほかにもありますよね」
 証人「あります。例えば肝硬変などで肝臓の機能が著しく低下した場合などです。
しかし、それは見れば分かる」
 弁護人「カーバメイト剤の可能性は除外できませんね」
 証人「そうですね。しかし、カーバメイト剤は有機リン系と比べて質的に違います。
カーバメイトだけでは亡くなりません。カーバメイトは水に溶けないので有機溶剤に溶かします。キシレンなどですが、むしろこっちの方が毒性が強く、私の経験でもカーバメイトは検出されずにキシレンだけ出たというケースが2件ほどありました」
 弁護人「カーバメイトの可能性は疑わなかったということですか」
 証人「頭には入れましたが、ないと思いました。胃の内容物から有機溶剤特有の臭気がしなかったからです」
 松本被告は一瞬目を開けるが、すぐにうつむいて目を閉じる。
 3時、休廷。
 3時21分、再開。
 弁護人「未知の物質があるかもしれないという場合、一般的に何をするのか知りたいのですが、揮発性と難揮発性のものとでは、(検査の)手順が違うのですか」
 証人「今回の件では、それは特に意識しなかった」
 弁護人「あなたが採用した方法では、アルコール以外でも揮発性の物質であれば採取できますか」
 証人「出ますよ。でも本件では出ませんでした」
 弁護人の質問の間隔が次第に長引き、法廷は、たびたび静まり返った。
 弁護人「原因物質をサリンと特定した時期はいつか」
 証人「作業を始める前にその予測はたつ。3月20日当時の地下鉄サリン事件の中で、犠牲者になった人がいたから。それを除いてとてもやれなかった。マンパワーもないし。アセチルコリンエステラーゼにくっついていたのは、サリンの分解物でないかもしれない、ということは考慮に入っていたが」
 鑑定書の分析結果の正確性、信用性を弱めようと努める弁護側。チャート図を見ながら、専門用語を交えたやり取りが続く。
 弁護人「主尋問では、中枢神経と末しょう神経を分けて、呼吸中枢障害と言っているが」
 証人「死に方としては、意識がなくなってそのままストンと亡くなる。その意味で呼吸中枢神経が生命維持に一番重要だと申し上げた」
 弁護人が交代する。
 弁護人「もう一人の鑑定についてうかがいます。岡田三夫さんは平成8(96)年6月11日に解剖されてますね。なぜ証人に鑑定の依頼が行ったのでしょう」
 証人「23区の場合、うち(東大)と慶応さんで地域を分けて担当しています。そういう地域的なことだと思います」
 弁護人「解剖のスタッフは」
 証人「(事件から)1年3カ月もたって亡くなっていますから、神経内科の先生のサジェストを受けながら行いました」
 弁護人「岡田さんのケースだけ、なぜ他の4人と違う態勢で行ったのですか」
 証人「サリンが死亡の誘因となったことが考えられ、その場合、末しょう神経が変性しているかもしれないと考えました。だから専門の先生についてもらって、必要な部分を採取することを考えました」
 弁護人「ほかの4人については必要ないと」
 証人「4人のうち2人は即死状態で、もう1人は20時間、あとの1人も48時間ぐらいで亡くなっています。変性が出てくるのはもっと時間がたってからだと判断しました。ですから脳は取りましたが、せき髄は取らなかった」
 弁護人「鑑定にあたっての資料は、遺体のほかにカルテをご覧になったということですが」
 証人「カルテは膨大で、解剖した後に見たと記憶しています」
 弁護人「解剖前には見なかったのですか」
 証人「警察からファクスで送ってもらった要約のようなものは見ました」
 弁護人「主尋問で証人は、岡田さんの症状について、カルテに基づき詳しいことを言っている。一つは日医大病院、もう一つは新松戸中央病院のもの。病名でサリン中毒が出てくるが、こうした症状は死因鑑定上参考にしたのか」
 証人「患者を実際にみての臨床的な判断であって、そういう認識があることはもちろん意識した」
 弁護人「新松戸中央病院のカルテの冒頭。転院が2月1日だが、サリン中毒、MRSA肺炎とすでに記載がある。平成8(96)年6月6日には、敗血症の記載もある。
これらは大いに参考にしたのか」
 証人「臨床判断が必ずしも解剖結果と一致しないこともある。参考にするが、そこに収束させることはない」
 弁護人「死因はカルテで敗血症となっているが、一致してると?」
 証人「はい」
 弁護人「解剖の結果、敗血症を起こして亡くなったと確認できるのか」
 証人「鑑定書に書いたような症状があれば、敗血症が直接の死因となってもおかしくない」
 検察官が「そろそろ打ち切ってほしい」と裁判長に申し出る。
裁判長が弁護人に「もっと要点をしぼって聞いて下さい」と声をかけた。
4時55分、閉廷。