岡崎被告公判傍聴記(97/2/27)
<by青ちゃん>
なぜかよく重なる松本公判と岡崎公判。2月27日も、松本被告のぼやきが104号法廷に響いていた裏では、岡崎一明被告に対する公判が429号法廷で開かれていた。
この日、坂本事件に関する平成7年5月20日付の岡崎被告の自首上申書と自首調書が証拠採用され、その自首にまつわる被告質問が行われた。
事件発生の翌年、平成2年9月1日、すでに教団から脱走していた岡崎被告は神奈川県警捜査員から直接取り調べを受けている。この時は、坂本事件については認めず、ただ龍彦ちゃんを埋めた場所を示した手紙を横浜法律事務所などに送ったことだけ認めた。そのいいわけとして、「脱走後、今後の生活に金が必要だと麻原に交渉したら、『選挙活動で違法なことをして強制捜査外はいる。お前がそれをごまかすために地図を書いて送ればいい。そうしたら金を振り込んでやる』と言われ、地図を送ったとし、それが成功したから金が払われたのだと説明した」ということであった。
確かに、実際に松本被告から岡崎に対しそのころ820万円の金が送金されている。しかしそれは、龍彦ちゃんの地図を送ったあとに、坂本事件をネタにして松本被告からゆすり取った金なのである。
しかし、神奈川県警はそのような岡崎のウソをあっさり信用してしまった。
その後岡崎被告は1〜2ヶ月に1度のペースで神奈川県警に連絡をとり続けていた。平成7年3月20日に地下鉄サリン事件がおき、3月22日に強制捜査が教団に入ったのを見て「これで教団がつぶれる」と喜んでいたら、3月30日に国松長官狙撃事件が発生。これで自分も殺される、サリンが来て終わりかな、しかしオウムをつぶすには今しかない、エスカレートする事件を止められるのはこの時しかない、と思ったとのこと。それに殺されたら終わりだと思い、警察に守って欲しかったという理由から平成7年4月5日、神奈川県警を呼び、4月7日、坂本事件・田口事件・真島事件について全てを話した。実際に自首上申書と自首調書を作成したのは、再び県警と接触した5月20日。
この間岡崎被告が何をしていたかというと、何と中国に渡って国際結婚までしていたのである。
3月20日地下鉄サリン事件発生、3月22日強制捜査を確認し、3月24日に中国へ渡航。そこで出会った中国女性と3月30日には婚約、帰国後4月7日に県警に全てを話し、ゴールデンウィークに再び中国へ、そこで結婚式を挙げている。そして帰国後5月20日、県警に連絡をとり自首の調書を作成したということである。
一体どういうことなのか。岡崎の思惑は、配偶者がいた方が刑事裁判の情状で有利になるとでも思ったのであろうか。その中国人女性は「一応いつまでも待つと言っている」そうである。
しかし、もっと解らないのは神奈川県警の対応である。
<以上、青ちゃん情報>
<以下、横浜法律事務所杉本弁護士情報>
自首上申書(平成7年5月20日付)
同日午後1時30分作成。神奈川県警志賀警部補あて。
平成元年11月4日午前3時頃発生の坂本事件について、家に侵入して一家三人を殺害したことその後の経過と遺体の処理状況、全て麻原の指示に基づくことなど。
自首調書(平成7年5月20日付)
被告人質問の内容
教団を脱走するとき段ボール2箱をもって逃げた。
中には現金2億2000万円、通帳8000万円、実印、重要書類が入っていた。
厚着の宅急便事務所から通帳と書類は教団に送り返し、現金は山口の知人宅に送った。現金は知人宅に届く前に早川によって取り戻されてしまった。
宇部のホテルから麻原に電話をして生活費の要求をしたが、そんなことができるわけがないと断られた。
麻原は(脱走のことは)側近しか知らないから、戻ろうと思えば戻れるぞと言う趣旨のことも言っていた。
平成2年2月14日、山口からレンタカーで大町に向かい、龍彦ちゃんを埋めた場所の写真を撮った。
神奈川県警と横浜法律事務所へ送り麻原に圧力をかけるつもりだった。
2月15日の夜、上越市のホテルから麻原に電話をかけ、もう一度生活費と退職金の無心をしたが、「お前が何を言おうと警察が信じるわけがない」を無視された。写真と地図を送るぞを言ったが、送るなら送れという態度だった。
電話のあと、現場の地図を書いて写真といっしょに速達で送った。
堤と都子を埋めた場所にも写真を取りに行くつもりだったが、雪深くて麓までも行けなかった。それでも写真を撮り、地図を準備した。
2月20日、東京駅前のポストから堤と都子を埋めた現場の写真土地図を県警と横浜法律事務所あてに投函。
投函したことを麻原に電話で告げると、態度が変わり、「いくらならいいんだ」という話になった。「せいぜい1000万ならわたせるが、それ以上渡すと悪運になる」といわれた(これ以前に岡崎は5000万円を要求していた)。
「今いくらもっている」と急に聞かれたので、正直に170万円と答えた。段ボールのお金をトランクに詰め込むとき200万円だけ手元にとっておいたのだがその残りであった。
麻原は「じゃあ差し引いて830万円だな」と言った。うまく値切られら感じだった。
堤と都子の埋めた場所の当初は横浜の郵便局で取り返すことができた。
平成2年9月1日に神奈川県警に取り調べられた。教団内部の事情や建物の構造など情報を与えた。
平成3年3月ころ中川と、同年6月頃新實と、それぞれ会って話をしている。こちらの様子を探るような感じ。新實は麻原が戻ってこいと言っているという話をしていた。
教団脱走後初めて警察から接触があったのは平成2年9月1日。神奈川県警の刑事4人が突然アパートにやってきた。
その1人が志賀警部補で、後に自白調書を作ることになる人物。
山口県警小野田署に連れていかれ、ポリグラフにかけられた。坂本事件について、単刀直入に、オウムは関係あるか、何人くらいでやったのか、などと聞かれたが、認めなかった。
龍彦を埋めた場所の写真と地図を送ったことは否定しきれなかった。
その点、警察は、山口でレンタカーを借りて長距離走行していること、妻のヤス子が実家に長野の郷土品を置き忘れていったことなどを知っており、追求されたからだった。
警察は麻原から830万円の振り込みがあったこと、自分が麻原に無心していることも知っていた。830万円の金については、「選挙違反の捜査をはぐらかすためインチキの手紙を出せ、成功したら金をやる」と麻原に言われ、成功したので830万円もらったと説明した。結果的に信じてくれた。
「そこ(写真に写っている場所)は何にもないですよ。行き当たりばったりとっただけ。」と説明した。
坂本事件の時については麻原にしかられて独房修行をしていたとアリバイを主張した。
この時は調書を作らなかった。2,3日坂本事件のことを聞かれ、あと9,10日間オウムの内部情報を話した。
自分は協力者と思われるような態度をとった。
その後も警察とは時々連絡を取った。
平成7年はじめ、志賀警部補に電話し、こっちに来てくださいと頼んだ。2200人の警察官の強制捜査が入ってもなお長官狙撃事件を起こすような教団には耐えられない、自分が坂本事件のことを話せば教団はつぶれると思った。
また自分を保護してもらいたかった。
4月5日に志賀警部補が来た。坂本事件のことを話せたのは4月7日の午後になってからだった。すぐに調書を作るということにはならなかった。上申書も作らなかった。志賀警部補は4月8日まで山口にいた。
5月18日、共同通信の記者が来た。夕刊に坂本事件がオウムの仕業で実行犯として名前がでるので取材に来たという話だった。その後フォーカスも来た。自分が警察に話したことがマスコミに漏れていると思い、志賀警部補に電話した。今後のことも相談しようと思った。
5月20日午前中、志賀警部補が来た。引きあたり案内をしてもらうが、こういう書類を書いてもらわないと引きあたり案内はできない、と言われ上申書と自首調書を作成した。自首調書作成場所の小野田ロッジ2階203号室というのはホテルの1室である。
5月26日から6月3日まで、長野・新潟・富山・石川を現場引き当たりに行った。
龍彦と都子を埋めた場所は確認できた。
堤の場所は一面の銀世界でどこか解らなかった。ここかここという目星を2カ所つけられた。現場の掘り起こしはしていない。
7月5日か6日に堤を埋めた場所を再度引き当たり。今度は埋めた場所を確実に確認できた。
平成7年5月2日の上申書ではまだ自分は見張りをしていたかのような説明しかしていなかった。堤に実際に手をかけたと言ったのは7月終わりか8月はじめに作った上申書。7月終わりころ志賀警部補に中に入って何かやっていないかと追及されたのでついに話した。
<この日はここで終わり>
次回は3月26日 主尋問続行
それにしても、この岡崎という男の狡猾さには驚く。そして、それにいいようにあしらわれた神奈川県警の甘さにも。
あの教団から3億円持ち逃げするは、教団を恐喝するはとやりたい放題。自分の身が危なくなると今度は警察と取引をして保護を求める。刑事裁判の法廷ではしおらしく涙を見せ、子供の頃の苦労話を蕩々と語る。しかしいざ犯行態様に関わる供述になると巧みに主要部分を他人に押しつけ、自分は従属的に手伝ったにすぎないことをさりげなく強調する。
オウム法廷をずっと追っているジャーナリストたちの間で、岡崎がもっとも評判が悪いのもうなづける。
「自首」(刑法42条)が成立すると、「その刑を減軽することができる」とされている。量刑・情状面でも被告人に有利な事情として評価される。
しかし、本件の岡崎の場合、そのまま「自首」として有利に評価することには感情的に躊躇を禁じ得ない。確かに岡崎の供述が遺体発見の突破口になったことは事実であるが・・・
他方、神奈川県警である。
同じ27日の松本智津夫公判で、当初の段階から警察は「監禁事件」と見ていたこと、現場検証が杜撰であったことなど明らかになった。県警は、事件の翌年には実行犯岡崎に肉薄しながら、安易にそのウソを信じ、取り逃がしている。また岡崎の書いた地図に基づいて遺体を埋めた雪の現場の直近を捜索しながら、結局発見にはいたらず、「ガセネタ」として切り捨てているのである。
その後県警は岡崎に対し全く突っ込んだ捜査はしていないようである。さらに、平成7年3月以降の岡崎の行動は、海外渡航・国際結婚を含めやりたい放題。警察は全くマークしていなかったのであろうか。
この一連の動きを見るにつけ、もっと早く、岡崎の「司法取引」のような自首を待つまでもなく「真相」に迫れなかったのかと残念でならない。