松本智津夫被告第 33回公判
(Nifty 毎日新聞ニュース速報より)
松本智津夫被告の第33回公判が4月10日、東京地裁で開かれた。
−地下鉄サリン事件科捜研職員反対尋問−
午前9時59分、渡辺弁護団長を先頭に、弁護団11人が入廷した。1人足りないため、阿部裁判長は「いいんですか」と確認したうえで、職員に目で合図。10時1分、
7人の刑務官に付き添われ、松本被告が法廷に姿を見せた。
紺のつなぎは、ファスナーが胸のあたりまでしか上げられておらず、だらしなく見える。ぶぜんとした表情。席に着いた途端、「今日の法廷は……」などとぶつぶつ言い始めたが、阿部裁判長は構わず「それでは開廷します」と告げた。
阿部裁判長の右側の裁判官(右陪席)が異動したため、補充裁判官がそこに入り、新たな補充裁判官がさらにその右隣に座っている。法廷の様子がどこか変わった印象なのは、そのためだ。
第29回公判に続いて、証人の警視庁科学捜査研究所第2化学科科長、安藤皓章氏に対する弁護側の反対尋問が始まった。
地下鉄サリン事件当日、地下鉄車両の床についた液体をふき取った脱脂綿を、科捜研が鑑定してサリンと断定した経緯から、弁護人はただしていく。
弁護人「前回、鑑定書に大下さん(科捜研職員)の署名がないのは、大下さんが別の部署に行ったからという証言でしたが」
証人「記憶違いでした。実際にオペレートしたのは、(大下ではなく)野中でした」
弁護人は当てが外れたらしく、ちょっと慌てた表情を見せた。
弁護人「別の同じ日付の鑑定書に大下さんの署名があったので、別の部署に行った事実はないと思いまして」
証人「だから、記憶違いだったと」
弁護人がちょっと間を置き、法廷が静まったタイミングに、松本被告は「今日の新聞は……」「要するに……」などとつぶやき、裁判長は顔をしかめた。
「サリンということが分かって、室内では処理できない。それで屋上で風向きを気にしながら、処置しました」。サリンを鑑定した際の生々しい証言が続く。
弁護人「風向きの話をしましたが、室内なのでは?」
証人「ですから屋上です」
弁護人「ああ、すみません……」
弁護人が勘違いをわびた。松本被告は静かにやり取りを聞いている。時折、口を動かす以外は、いつもの不規則発言はない。髪の毛の端がカールし、上を向いている。顔色はそれほど悪くない。
弁護人は、サリンの分子構造など専門的な質問を始めた。
弁護人「分子量140の物質はサリン以外にもあるのか」
証人「はい」
専門用語が飛び交う。弁護団は科捜研が分析したサリンに対して、信用性に揺さぶりをかける戦術のようだ。
弁護人「ガスクロマトグラフィーの結果だけでサリンと断定できるのか」
証人「サリンと同時に不純物を確認し、(1995年)3月20日に断定した。私の判断は間違っていなかった」
被告人席に座っている松本被告が、目を閉じたままぶつぶつ言い始めた。退屈なのか、足を投げ出し、姿勢を2度、3度変える。
証人は、麻薬や覚せい剤の分析結果を引き合いに出しながら、サリンの検査結果にそれほどの誤差がなかった点を繰り返し主張していく。
10時45分。松本被告は頭を右に傾けたまま動かない。眠ったようだ。
弁護人「チャートAとFでは、類似性があるとはいえないのでは」
証人「先程申したように、同じものでもサンプル量が非常に少なければデータにばらつきがありまして……」
傍聴席で居眠りする姿が目につく。弁護人席でメモを取っていた弁護人の一人は、凝りをほぐすように首を回した。
10時55分、松本被告は右の小鼻をかき、座り直した。目覚めたようだ。「恥ずかしくない、何か……」「下らない」「事件的には……」。つぶやき続けるが、だれも関心を払わない。
改めて座り直した松本被告は、左側の刑務官に向かって「帰りた……」と話しかけるが、刑務官は軽く笑って応じない。
科捜研がサリンと断定した経緯についての質問が続く。
弁護人「自衛隊からサリンのスペクトルを入手したということでしたね。スペクトルの出方が『125、95、81、43』と出ると」
証人「はい」
弁護人「現物は自衛隊にあったんですか」
証人「はい。年間何gか(サリンを)作っていると聞いてましたので」
自衛隊が防護用にサリンを作っていることは、地下鉄サリン事件後に既に明らかになっているが、傍聴席で「えっ」という声が漏れる。
弁護人「自衛隊の人が来て『似ている』と言っても、見ないと分からないでしょう。どうして(サリンと)判断したの?」
証人「別にデータを見なくても、サリンと分かっていましたから。しかし、事件が事件ですし、専門家の意見を聞く必要はありました」
弁護人「(試料と)完全一致していたのか、それとも似ていたのか」
証人「そういう比較はしていません」
弁護人「それではイオン化法について聞きたい……」
突然、弁護団席からピッピッと電子機器の音が響いた。後列の弁護人が、慌てて机の上の何かを押さえる仕草をした。裁判長はけげんな表情で見つめる。
松本被告は頭を垂れ、居眠りをしているような格好だ。
弁護人「千代田線と丸ノ内線の2駅で丸々残っている2袋を、イオン化法で調べたのはどうしてですか。何かほかの試料と違う可能性があるのですか」
証人「大部分の試料は初めの段階で分解してしまった。しかし、二つは丸々残り、そのまま保存していたのです」
松本被告が何かを思い出すように上体を起こした。口を突き出して、何か言い出しそうだ。後ろの弁護人が背中を突ついた。
弁護人「NMRですか、『核磁気共鳴法』というそうですが、主尋問でどういうものかを答えていらっしゃいますが、基本的にどういうことで……」
証人「核磁気の専門家ではないので……。1日や2日で分かるものではないから……。私も30年やっているが、なかなか分からない」
傍聴席の笑いを誘った。
弁護人「NMRは科捜研のものですか」
証人「借りました」
弁護人「どこからですか」
証人「言えません」
弁護人「どうしてですか。自衛隊ですか」
証人「そうではないんですが、言えません」
弁護人「なぜ言えないんですか。証言を拒否されるのですか」
他の弁護人たちも、座り直してやり取りに注目し始めた。
証人「向こうの施設を使わせてもらっているので」
弁護人「(検査したのは)アメリカ軍ではないでしょうね」
証人「アメリカ軍ではないです」
弁護人「公的(施設)ですか」
証人「公的といえば公的ですね」
なかなか話そうとしない証人に、しびれを切らしたのか、阿部裁判長が口を挟んだ。
裁判長「どうして答えられないんですか」
証人「向こうが、恐怖というか恐れていたので」
裁判長「それは検査をすることの恐怖ですか」
納得できない表情を浮かべた裁判長に根負けしたのか、安藤氏が口を開いた。「じゃあ、言わせてもらいますが、東京工業大学の施設を使わせてもらいました」。安藤氏はこの後、「日本電子」の機械を使わせてもらったことも付け加えた。
弁護人「検査方法は原液試料そのものを機械にかけるのですか、分離したりするのですか」
証人「分離しません。そのままです……」
分析方法についての尋問が続き、11時58分、休廷した。
午後1時15分、再開。科捜研のサリン検出方法についての質問が続く。
松本被告はぶつぶつ言っていたかと思うと、まるで目の前に人がいて、雑談しているようなそぶりを見せる。
弁護人「NMRの結果、どの程度まで分かったのか」
証人「サリンのリンとフッ素のカップリング(結合)によく一致する値が得られた」
弁護人「だから(検出された物質が)サリンと言えるのか」
証人「それじゃ、何の可能性があるのですか。私には、ほかの可能性があるとは思いつかない」。ぶ然とした口調で、サリン以外の可能がないと断言する。
被告人席の松本被告は、うつむき加減で時折鼻をすする。
弁護人「NMRの2回目の検査の目的は」
証人「本郷3丁目で採った試料から、ガスクロマトグラフィーで出ないサリン以外の成分があった。これが何か知りたかった」
弁護人「結論は」
証人「メチルスルホン酸モノクロライド。原液に含まれていたもので、予想通りの結果が出た」
複雑な化学物質の名前が頻発するようになった。何度も化学式を書かせて手元の資料と照合するなど、専門家の証人を相手にして、弁護側も相当の準備をしていることをうかがわせる。証人の真正面に座った速記者の女性は首をかしげながら、手を動かす。取材記者のペンは、動きが鈍い。松本被告は相変わらず、ぶつぶつと何かつぶやきながら、首をぐらぐらと動かしたり、長く蓄えたひげをいじる。
「アセトニトリル」「ノルマルヘキサン」「赤外線吸収スペクトル」「1830カイザー……」弁護人の質問に、安藤氏は専門用語を織り交ぜてよどみなく答えていく。
準備はしていても、弁護人の表情に戸惑いが浮かぶ。同じような内容を繰り返し尋問しているようにみえる。
弁護人「残された液体の上層部と下層部でサリンの量が違うのは?」
証人「下層の方に多く含まれる物質に、サリンが溶けやすいからです」
弁護人「警察庁の科学警察研究所に、なぜ鑑定を依頼したのですか」
証人「サリンを分析したことがなかったので、松本サリン事件で鑑定をした科警研に依頼したと上司から聞きました」
法廷の外で休息していた裁判所職員が、同僚職員と言葉を交わす。「午前中よりも、被告の体の動きが大きくなった」「化学式ばかりのやりとりに、尊師は飽き飽きしているのでしょうかね……」
法廷内では、反対尋問が続いた。松本被告は机の上に置いた右手を、ピアノのけん盤をたたくように動かす。
2時43分、質問する弁護士が交代した。
弁護人の質問は、サリンで現れる症状に移る。「毒物の毒性の発現の仕方には急性と遅延型があるといわれるが、縮瞳(しゅくどう)や鼻水、だ液、呼吸器などは急性と考えていいか」
証人「そう思う」
弁護人「縮瞳の具体的な症状は」
証人「いわゆる目が点になるということ」
弁護人「問題はその点の大きさなんです」
証人「私が診断を受けた時は1ミリぐらいだったが、症状はもっとひどいということだ」
弁護人「証人も医者にかかったのか」
証人「念のために。目の前が少し暗いかな、という印象はあった」
医学的な質問が続くことに検察側から異議が出たため、弁護人も「じゃあ、必要なところに絞ってお聞きします」と折れて、質問の角度を変えた。
弁護人「塩化水素、フッ化水素が人体に触れたことを前提とした時、どういう症状が出るか」
証人「傷がなければ症状は出ない」
弁護人「皮膚を侵食するのか」
証人「皮膚の中の骨にまで至り、骨さえだめにする怖いものです」
3時すぎ、約20分間の休憩を阿部裁判長が告げた。
3時22分、再開。
弁護人「サリンは無臭で暴露時は感知しにくいということですが、痛みとかはないのですか」
証人「はい」
弁護人「被害者の中には鼻水が出たり目が痛くなった人がいますが」
証人「鼻水が出るのは、サリンの分子から外れたフッ化水素が鼻孔(びこう)を刺激してそういう作用を起こすと理解しています。目については分かりません」
弁護人「薬物中毒の原因物質を調べる時は、ある程度、当たりをつけて絞って鑑定するのですか」
証人「そういう場合もありますが、本件はワイドな条件で手広く検査をしました」
「揮発性」「蒸気圧」「拡散方程式」など、化学用語の概念について確認が行われ、「飽和濃度」という用語についてやりとりが進んだ時、松本被告が突然、「そりゃ、違います」と声を出した。大きな声ではなかったが、安藤氏の証言を制するようなタイミングに、傍聴席からは短い苦笑が起こる。
松本被告は「こりゃ」「過飽和状態」「だめ、従って……」などと意味不明のつぶやきを続ける。しかし、この動きを無視して尋問が続く。
弁護人「サリンが気化した場合、中心地点での気化速度は拡散とともに落ちるものか」 証人「拡散の問題は私は専門ではないので分かりません」
弁護人の質問に、安藤氏は「分かりません」を繰り返す。質問をさえぎるように1人の検事が立ち上がり、「弁護人の質問は範囲外では」と異議を唱える。裁判長が「まあ、もうあと30分ぐらいで終わるでしょう」と答えると、傍聴席にかすかな失笑が広がった。
サリンと塩化水素、フッ化水素などの気化や沸点、においについての弁護人の質問が続く。
弁護人「地下鉄サリン事件では、残念なことに亡くなられた方がいる。文献の記述によれば、サリンは大変低い濃度でも被害が大きい。ひところは5000人と伝えられた。これを考えれば、(死者は)幸いにも少なかった。どう思うか」
証人「私どもの感想では、病院への搬送と治療が早かったので比較的被害が少なかった」
弁護人「最後に。松本サリン事件以後、どういう観点で資料収集をしたか」
証人「速やかに対象物質の検査、鑑定ができるというのが一つ。サリンの製造方法についてもそれなりの検討を行っている」
弁護人「資料を集めろという指示も受けていたと聞いたが、どういうルートで資料収集をしたのか。図書館か」
証人「図書館というより松本サリン事件の考察をやっている先生のところで。私どももお世話になっていますから」
弁護人「(裁判所に提出された)七つの参考文献以外で、収集された資料はあるのか」 証人「かなりあるが、覚えていない。中心となるのは国会図書館などにあるような資料。自衛隊から入手したのはフィンランドのものだったと思う」
弁護人「サリンの毒性の記述については、資料による食い違いはなかったか」
証人「ありません」
安藤氏への尋問が終了。
4時45分、同僚の野中氏が証人として出廷。事件発生前に、サリンについての研究をしていたかどうかなどについて、弁護側から尋問を受けた。
10分ほどして阿部裁判長が法廷を見渡し、「今日はこの程度で」と審理を打ち切ると、野中氏は深々と頭を下げて退廷した。
「次回公判について説明しますので、被告人は聞いて下さい」。
裁判長が、松本被告の方を向いて話しかけ始めた途端、これまでもごもごとつぶやいていた松本被告はいきなり声の調子を変え、周囲にも聞き取れる程度の声で話し始めた。「……とんでもない目にあう……」「いや、それは…」「分かるか」「……じゃないんですよ」
裁判長は、一言ずつ区切って、「次回24日には被告人が意見を述べる機会が与えられるので……」と説明を始めると、一瞬、松本被告は沈黙。しかし、次の瞬間には「1997年1月から10月1日までは……」と再び意味不明の話をしゃべり始めた。
「従って、24日まで日にちがあるのだから、よく弁護人と相談しなさい」と強い口調で諭した後、阿部裁判長は「本日は閉廷します」と述べた。
午後5時前、閉廷。